273Kの愛情

小さな一歩から

 興味などなかった。只、暇を持て余せるだけの代物が欲しかった。


 “理想”と表紙に筆で堂々と書かれた手帳を開き、本日の“理想予定”に目を遣る。お手製のマス毎に区切られた予定。今日の日付の箇所には、起床時間から手を洗う時間、朝食の献立、服装、帰宅する時間等々と言った予定がびっしりと埋まっている。

 国木田独歩、22歳。8月30日生まれ、嬰型。身長、189センチ。体重、78キロ。好きなもの、手帳、魚釣り、鰹のたたき。嫌いなもの、予定外、権威。好きなもの、手帳。手帳、手帳。理想。

 予定元い俺の理想は、いつからか習慣に為っていた。時間・行動・発言・環境其の他諸々…。理想の通りに物事を進めていけば、人生という長い道のりを苦或る時も立ち向かって往ける。理想通りの素晴らしい未来へ導けると、そう思っての事だ。理想。理想は自分にとって最高最大の道標。此れが無くては生きていけない。道が擦れれば元の道へ向かう様描き直す、書き直す。予想できない事も多々ある。だが其れも為るべく上手く道を繋げていく。俺の理想は命にも等しい存在。丁重に慎重に道を踏み外さぬ様歩みを進めて行く。

 そんな重要な事が書き連ねられた本日の予定。普段は朝起きてから帰宅するまではいつもと変わらない。淡々と物事を進めていくだけだ。然し、今日はいつもとはほんの少し異なる予定を付け加えて居た。そう、本を買う。暇を持て余す為だけの本を買う。只、其れだけ。否、其れ程重要なイベントだ。未来の俺に関わる、重要な代物だ。

 其の日の帰り、一軒の本屋に足を運んだ。此処でないとと云う訳ではないが、帰路に在るから立ち寄っただけ。普段は『仕事を上手く進める方法』、『将来の為に今術き事』等と云ったなんとも自分らしい計画性を向上させる書物を読書している。今日もそんな類の書物を読み漁ろうかと書店内を彷徨いた。

 ふと視界に気になるものが映った。タイトルも表紙も設置の仕方も特徴的ではない筈だ。然し、自分の目は其方に動いた。

『氷点』

 真っ白な表紙に堂々と載せられた其の二文字と、左下に指の腹程度の大きさの作者名。聞いた事のある名前だった。見た事のある名前だった――――“三浦綾子”という作家。いくつもの賞を受賞していた。現実味の或る話の構成に、人間の感情の深淵を熟知して居るかの様な登場人物の心理描写。其の栄誉を讃えられた本人は未だ10代なのだと云う。


 已然から気には為っていた彼女の作品。此の機に買ってみよう――と云う訳で讀み始めてからと云うものの一週間。厚みの或る本だと思って居た筈が、既に読破して仕舞った。

「こんなに面白いものなのか、この作者の本は…」

 讃えられる程の価値が或ると心底思った瞬間だった。

「国木田さん。此処の所ずっと其の本読んでますけど、どう云う話なんですか?」

 敦に声を掛けられ、気が付けば昼休みだった。仕事は勿論して居た。だが此の本の事ばかり考えてしまって居て中々集中できて居なかったのだろう。仕事をして居た時の記憶がぼんやりとして居る。うろ覚えの様な感覚だ。

 敦に問われるが、どう答えれば相手に此の興奮が伝わるのかに悩んで仕舞う。答えが出てくる訳ではないが、うんん、と小さく唸る。口元に曲げた人差し指を当てても現状は変わらなかった。取り敢えず、

「家族関係が縺れて往く話だ。人間の性情がかなり現実的な描写で…まるで本当に此の作者が、此の小説の物語の様な過酷な人生を歩んで来たかのような…。…すまん、どう説明すればお前に此の作品の素晴らしさが伝わるか分からない。今は興奮が冷めやらない状態でな。兎に角、読んで観なければ分からない面白さがこの作品にはある」

とだけ伝えた。敦は一笑して「そうですか」と云った。其の微笑は、決して説明を上手く伝えられなかった国木田を小馬鹿にする様なものではなく、単なる穏やかさを纏った微笑みだった。


「あの…依頼が或るとの事で、お客様が」

 仕事に戻ろうと体を机に向けた二人に、社の事務員の一人の女性が声を掛けた。どうやら一人の客人が面会の予約アポ無しで訪れて来た様だ。




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