弱虫回顧録【本田菊】

宇鷺林檎
@RingoUsagi1020

プロローグ

 みぃん、みぃん、みぃん……。

 蝉の声が天高く、唸るように木霊する。澄み切った紺碧の海の中、燦燦と。黄金色の陽光の刃が降り注ぐ。

 「夏」の標本のような光景が広がる中、一人の男は飴色の卓袱台に突っ伏して眠っている。濡羽色の髪は清潔感溢れるショートカット。耳の高さで段差を付けている。横の髪も同じように、耳の辺りですっぱりと切り揃えられている。前髪も短く、眉の上。

 彼の、男性にしてはほっそりとして、少し線の細い印象を身体を包むのは、無地の瑠璃色の浴衣。まるで、彼のためにあるかのように馴染んでいる。


ちりーん。

 さやと縁側を吹き抜ける風が、風鈴を揺らす。

ちりーん。

 これでもかというほど、夏の訪れを主張している。

 しかし、男は目覚めない。

 卓袱台に突っ伏したまま、すうすうと静かに寝息を立てている。


「……ん……」

 男は、夢を見ていた。


――ねぇ、菊さん。

人の生きている時間は***なんですよ。

 懐かしい姿形の女性は、私に向け柔和な笑顔を見せて、語りかけてきます。

 ずっと、貴女にお目にかかりたいと希っていました。それなのに、肝心な部分をノイズが食い荒らして。ちっとも耳に届かないのです。

 その人とは、昔、朝廷で働いていた方。名は、一華〈イチゲ〉 花〈はな〉さん。純真無垢で、全てのことに直向〈ひたむ〉きで。小さな体躯から、きらきらと太陽のような光を周囲の者に振り撒く人でした。

 朝廷で……とはいえ、その頃は特に女性蔑視の色が濃く、彼女は帝の身の回りの世話をするくらいの仕事しか与えられていませんでしたが、その人柄の好さに、誰もから愛されていました。……勿論、私も。彼女を愛していたという、その一人でした。

 好きだった。

 愛していた。

 叶わないと知っていても、それでも。


 仕事の合間に顔を合わせられる。それだけで私は、満ち足りていました。……けれど、あの頃の無欲さが、今はひどく恨めしい。

 人の強欲さは、何れ自らの身を滅ぼすけれど、無欲さも何れ牙を剥くと思います。私はどうしようもない、臆病者でした。

 彼女に想いを伝えたくて仕方がないのに、この手から今の形が壊れて、元に戻らなくなるのが酷く怖くて。


――ねぇ、菊さん。

人の生きている時間は***なんですよ。


 貴女は一体、

私に何を伝えたいんですか?

 私はどうすれば貴女に償えるのですか?

 教えてくださいよ、花さん……。


 ピンポーン。

 江戸時代で時が止まってしまったかのような、どっしりとした純和風の邸宅を前に、一人の少女が硬直していた。

 指先は、その邸宅にそぐわぬハイカラな、家主を呼び出すための装置(に付いている白いボタン)の上で、ふるふると小さく震えたままだ。

 チャイムを押した途端、広い邸宅に響き渡る、これまた時代の辻褄の合わない電子音を耳にして、全身|たらだら〈丶丶丶丶〉と滝のような汗で濡らし、その場に佇んでいる。

 少しの沈黙の後、さざとノイズがチャイムのスピーカーから鳴り、「ああ、すみません。今開けますね」と。艶やかな、低い男の声が流れる。

 声を聞いて、ふぅー、とホッと息をつく少女。見るからに人付き合いは得意でなさそうである。けれど、その顔は、抑えきれない喜びによる笑顔で溢れている。

「……緊張、するなあ……」

 ほそりと、喉の筋肉を緩めるようにつぶやく。その声は夏の風に浚われて、はらと消えた。

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