sasa-kura
@sasa_kura_

 数分前に降りた電車が鳴らす発車のベルを背に、足を踏み出し階段を上がる。人通りのない階段では足音がいつも以上に響き、まるでこの世に自分一人だけ取り残されたような寂しさが、小石を一つ投げ入れられた湖に広がる波紋のように、じんわりと私の心を染めていく。

 今日も残業だった。約束があったのに。

 階段ですっかり上がってしまった息を整えるように、また、残業で彼に会う時間をなくしてしまった憂鬱を吐き出すように、私は大きくため息をついて改札を出た。

 改札を通るために出していたカードをカバンのポケットに入れ、チャックを閉める。以前までは服のポケットに入れていたカードをこの場所に入れるようになったのは、一度カードを落としてしまって彼と一緒に探し回ったからだ。次からはここに入れる、と言った私に、彼はそれなら安心ですと微笑んでいた。

 会いたいなぁ。あの微笑みに触れたい。残業や出張で、私たちはもう二ヶ月もすれ違っている。今日だって彼が出張から帰ってくる日だったのに、結局残業で会えずじまい。

 疲れて重い体にもう少しと喝を入れ、足を踏み出した。

「お疲れ様です。」

 声がして、反射的に振り返る。改札の横、街灯の明かりが申し訳程度に照らすその場所に、彼は立っていた。

「……柳生くん。」

「そろそろ帰って来る頃かと思いまして。」

 そう言って柳生くんが一歩、私に近付く。ひゅんと風が吹き、彼のコートの裾がひらりと揺れた。その風は私の頬を一瞬で冷やし、髪をなびかせて去っていく。

「…こんなに寒いのに、ずっと待っていたの?」

「そうですね、今日は一段と寒いです。ですが、ここで待っていればあなたに会えると思ったので。」

私の目の前まで近づいた柳生くんがその手を伸ばし、私の頬に触れる。頬に触れた手は、私の頬を冷やした風と同じくらい冷たかった。だけど彼の手が触れたところは、その冷たさとは裏腹にじんわりと熱を帯びてくる。その熱を感じると、何を思うよりも先に私の視界は歪み、頬に触れる柳生くんの手に一粒の涙を落とした。

「ちょうど会いたいなぁって思ってたの。」

 堪えきれなかった涙を笑って誤魔化そうとする私に微笑み、彼は自身の腕で私を優しく包んでくれた。

「こんなに遅くまで、本当にお疲れ様です。」

 彼の手が私の頭を撫でる仕草を繰り返すと、自分の中にあった黒くて嫌なものがすべて白く浄化されていくような心地よさに、私は目を閉じた。

 しばらくそうしていた後、私の方から体を離し、柳生くんを見上げる。

「…今日は泊まっていかない?」

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて。」

 微笑む彼の手を繋ぎ、私は一度駅を振り返った。どうかしましたか、と訪ねてくる彼になんでもないと首を振り、帰路に着く。

 先ほどまで暗い気持ちで歩いていた駅の階段も、明日からは通るたびに今日のことを思い出して心が温かくなるのだろう。柳生くんはいつも、日常の小さなところに幸せを置いてくれる。

 隣に並ぶ彼を見上げ、私は世界一幸せだと思った。

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