再び訪れる別れの日まで貴方と

七宵・8018&kmtz
@774hisame


 陸軍参謀本部本館第三会議室は、開始予定時刻から十五分が経過しても未だ会議の始まる気配はなかった。窓の外を流れる風は強く、三階建ての建物を軽々と超えて生える木々の葉が大きく揺れている。壁にずらりと並んだ四方枠が嵌った窓の所々から、烈風をものともせずに太くも細くもない枝に止まった鳥達の姿が見えていたが、そんなものに注意を払う人間は、この場にはいなかった。

 議場の上座にいる人物はこうした状況に慣れているのか、部屋に入ってきた時に一言発した後は椅子に浅く腰掛け、手を腿の上に置き、黙想するかのように目を閉じていた。その人物の両横に陣取る二名もまた、同様に目を閉じ、一名は卓上に前腕を、一名は手を組み合わせ、まるで置かれた資料が’飛ばされないように’文鎮代わりにしているとも思える姿勢を取っていた。

 部屋の時計がコチカチと、神経質に秒を刻む音を立てる。部屋の真中に鎮座する重量感のある長机は広間の三分の一を占領していたが、それを取り囲むようにして、上座の三名を除いた八名が左右四名ずつに分かれ座っていることで、部屋のおおよそ半分が占拠されているような状態だった。

 八名は、各々が好き勝手な表情と様子を見せてはいたが、共通する感情をあえて表現するのならば、苛立ちと呆れが九割で、残りの一割が上座の中央に座す者への畏敬であるのは、場所が場所なら集う者達の立場上、想像に難くなかった。

 カチコチカチと、時計が針を進めていく。予定時刻を二十五分過ぎたところで、上手(かみて)側の扉前に控えていた兵員が居住まいを正した。その気配を察し、上座の三名が目を開ける。その気配を読み取った八名が、椅子の背部にあわせるように背中を立て、下手(しもて)の扉へと一斉に顔を向けた。

「ごっめーん……じゃなかった、すみませーん、遅れちゃって。すっかり、じゃなくて、うっかり、忘れてましたー」

 外を吹く風の勢いを思わせる馬鹿に明るい声が静寂な部屋に響き渡った。開いた扉の間から、軍帽と軍服に身を’包まれた’小柄で酷く細身の少年が、言葉とは裏腹に悪びれる風もなく入ってくる。その身の高さには不釣り合いな刀を二振り、腰に携えていたが、重たそうな様子は一切見られなかった。

「構わんよ」

 上座の真中に座る一名が、静かに口を開く。同時に扉を見つめ、入ってきた少年に何事かをいわんと気色ばんでいた八名は、時機を逃したとばかりに唇を引き結んだ。そうして何事もなかったように、向かい合う相手を互いに見る形で視線を少年から正面へ移すと、少年に回す気などないとばかりに、さらに結んだ唇を固くした。

 少年は、そんな八名の姿など目に入らないのか、それとも入っているからなのか、薄ら笑いを浮かべて自身に用意されたであろう下座の、上座の真中に座る人間と対峙する位置に据えられた椅子へと歩み寄り、刀の’柄を引き下げる’仕草をしてから、音を立てずに腰を下ろした。

「では、始めましょう」

 上座の右手、扉側の一名が告げると、真中の一名と少年とを除く全員が立ち上がり、中央に座す人物へ向かって深々と一礼した後、ほぼ揃って着席し、手元の書類へ目をやった。

『帝国造兵兵站仁(に)関寸(す)諜報報告、及、対作戦研究仁基寸作戦計画概要』

 薄い黄唐茶(きがらちゃ)色の紙に打たれた文字が黒々とした空気を充満させる。 少年と同じ軍服を着た者達は、それぞれ書類をめくり難しい顔を見せているのに対し、少年は意に介した様子もなく、自身の前には置かれていない紙面の内容を読み上げている人間の声を聞くでもなく、退屈そうに椅子の背にもたれて窓を見遣り、あまつさえ、器用に椅子の脚を浮かせて小舟のように揺らしては、白い手袋をはめた左手で唇をさすり、吹きすさぶ風にしなる木々の枝に身を寄せ合う鳥達を眺めていた。

「以上です」

 低いどよめきが、場に流れる。

 上座の左手に座る一名が、貴見を、と促すと、どよめきはさらに増した。窓側から順に八名が発言するのを聞いているのかいないのか、少年の視線は窓へ向けられたままだった。

「どうかね?」

 全員が意見を言い終えたところで、先の一名が、また、口を開いた。全員に問うているようでありながら、特定の誰かに向けられた言葉であるのは、その場にいる者達にはわかっていた。

「ん? あれ? 僕に聞いてます?」

 しばしの間があり、少年がようやく気がついたと漕いでいた椅子を床に下ろし、正面を見た。少年を見つめる二十四の眼球の大半は、怒気と殺気を帯びていたが、少年と合わされた瞳だけは、恩潤を浮かべていた。

「この合議の主賓は貴殿だからな」

 至極真面目な顔で真中の一名が言うと、八名の口端が僅かに引き攣った。

 しかし、少年へ向けられた視線の針が、おさめられることはなかった。

「やだなあ、僕が主賓だなんて。冗談はお金を積まれても要らないので、引っ込めてください」

「冗談であれば、貴殿に足労をわずらわせはせぬよ」

 やや渋面を作り、大げさとも思える溜息をついた一名は、少年を苦々しい目つきで見つめている面々を一瞥し、さらに息を吐き出した。

「ですよねえ。閣下のご心中とご心労を、お察し申し上げます。にしても、閣下の優秀で有能で勇敢な部下達は何をしているんです? 潜入させているんですよね? 僕等から毟り取らなくったって、自前で集められると豪語していたのを、鳥頭の僕でも覚えているのですから、ここにいらっしゃる’八匹’は、当然覚えていらっしゃるでしょう? ねえ? 新垣大佐に、的場少佐。と、ああ、奥村中佐は先に謝ってもらったので除外です。さすが、情報班班長。臨機応変さがあって助かります」

 その息を引き継ぐように、少年が椅子に座ったまま深々と頭を下げ、愁眉を作った。それからおもむろに左右の八名へと順番に目を遣ると、にっこりと両頬をあげ、ふくよかな浅緋(うすきひ)色の唇を笑みの形に引き伸ばした。

「後のは、面倒だから省略。橋上中将閣下が、こんな僕に頭を下げておられるのに、君達は何をしているの? 雁首揃えて、僕が撒き餌で釣った子達から集めた情報を嫌々しながら苦虫噛みつぶして咀嚼して、飲み込めもしないのに吐き出す勇気もないなんて、何が楽しいの? それとも、被虐趣味なの? 僕に踏みつけて蹴られて苛めて欲しいの? それなら、そう言ってくれないと。軍靴(ぐんか)なんて履いてこないで、女靴(めぐつ)のとんがった踵で突っついて捩って擦って、役立たずの男根を痛いくらい反り返させてあげたのに。そうして欲しいなら、いつでも誘って。喜んでこの足を味わわせてあげる。僕の一蹴りで、成層圏までは確実にイけるから、到達したらそのまま戻ってこないで、もっと先までイっちゃって、二度とここへは帰ってこないで。目障り。邪魔。御器噛より悪い塵虫(ごみむし)め。無能で許されるのは、架空世界の人物だけだ。’君等’みたいな口先ばかりの無能は、死んだって無能のままなんだから、焼却用の燃料が勿体ない。いっそ、帝国へその身を投げて、帝国のイカレた連中に強姦されて、穴っていう穴を塞がれたどっろどろの糞虫になって燃やされてしまえ。その方がずっと国益のためになる。情報も計画も、君等には必要ないでしょう? だって、塵虫だもの。国民から搾り取った血税でご飯を食べさせて貰っているご身分で、国民のために何の働きもしないで軍人さんは偉いんだぞ、なんて顔しちゃってるんだから、本当に同情の余地も何も無い。虫以下、微生物以下、細菌以下だから、僕の前からとっとと消えて。帝国と一緒に滅んで。彼奴らを道連れに心中して。気持ち悪いから、僕と同じ空気を吸わないで、息止めて、そのまま苦しみ悶えて泡吹いて死ね、塵虫共。君等が居ていい理由なんて、僕の中には砂粒ほども無い。国のためになんて言わないから、この星のために消えてなくなれ、塵屑共。君等のような無駄飯喰らいの無駄金使いは、さっさと死んで、後進に道を譲るのが、産んでくれたお母上と、育ててくれたお父上と、生かしてくれた国民へのせめてもの償いだ。塵は塵らしく、さっさと片付けられろ」

 口調こそ穏やかではあるものの、その声にも言葉にも嘲りと侮蔑が含まれていることは、事情を知らぬ者が聞いても感じ取れただろう。それほどの毒言だった。歯に衣着せぬとの形容はあるが、ここまで遠慮なく相手を悪し様にいい、存在そのものを否定する言を平然と吐く人間はいまい。常識に照らし合わせるのならば、いてはならない、が正しい。同職といえど、相応の礼節はあって然るべきであるのに、少年は目の前の八名にかける情は無い、何故なら諸君等は塵芥(ちりあくた)と同様だからと述べ、燃えてなくなれとまで言っているのだ。

 最早、付ける薬がないと言わざるを得ない性根の悪さだと、この場にいる誰しもが思っているだろう。蟀谷に青筋を浮かせている数名は、特にそう感じているに違いない。

 しかし、少年から中将閣下と呼ばれた橋上だけは、少年の真意を読み取り、部下達に向けられる嘲罵を、共に、甘んじて聞いていた。

「お言葉だが、貴公の報告書が全て正しいとは言い切れないのではないか? 非常に憂慮すべき内容ではあるが、信憑性はいかほどのものか、私の班の誰しもが図りかねている。そもそも、七宵(ななよ)大佐の情報は、どこから入手されているのか。閣下の御前で申し上げたくはないが、七宵大佐は敵国の外務関係者と不義密通をしていると聞いている。その様な噂を立てられる根拠があるのではないのか? 無いと申すなら、貴公の情報源が不正ではないことを証明してはどうか?」

 先ほど少年から名指しされた新垣が、書類を卓上に叩きつけ、少年へと意見する。

 七宵大佐と呼ばれた少年は、最初こそ、興味深そうな目をしていたが、不義密通のくだりからは途端に白けた顔つきになり、最後は失笑寸前の口元をどうにか唇を指で触れることで抑えているような有様になっていた。

「新垣大佐。今は、作戦会議の途中である。七宵大佐への疑念の追及は、後にしたまえ」

 上座の右に座る一名が、新垣を注意する。新垣は、軽く頭を下げはしたものの、憤懣やるかたないとの表情を変えることはなく、口の中で舌打ちすると、納められない怒りの鉾先を少年を激しく睨み付けてから上座へ向けた。

「僭越ながら、妹川(せがわ)大佐。以前より、七宵大佐の情報は、完璧が過ぎるとのことで、当班内でも問題視されております。本人が直接見聞したかのような仔細さは、ある種の異常さを感じます。帝国へ潜入させている情報源が極めて優秀であったとしても、この資料にもある、土木工事の計画書や試算書、設計図はさておきも、関係省庁の監査報告書に決裁書、各所との契約書、果ては、皇帝の署名がなされた文書の複製まで入手することは、一諜報員が出来ることではありません。はっきりと申し上げるなら、内部の協力者がいたとしても不可能です。それを――」

「それを可能とするから、総長は彼を重用しておられる。肝心なのは、入手手段では無い。完全無欠と訝しがられる程の正確性と信用性、そして、彼がもたらす情報が違えたことは無いとの信頼性だ。諜報兵として、一厘の誤謬も無い情報を集め提示するのは職責である。手段を問うていては、我が国は情報戦で失策し、遅れを取る。億万の民を守る立場で不正を働くのは言語道断との新垣大佐の心情は理解しないわけではない。しかし、今は、その是非を話す時でも、場でも無い。帝国が隣国への足がかりを作ろうかとの兆しを予見したのだ。早急に各国と連携し、手を打たねば、我が国が’能なし’であると公言することになりかねん。分かるな?」

「……は。申し訳ありません、三岡准将」

 新垣から反論された妹川ではなく、上座の左に座る三岡が新垣の発言を遮り、宥め諭す。准将を相手に自説を垂れることは流石に出来ず、萎れる新垣を余所に、話題の中心となっている少年本人は指先で口元を隠してはいたものの、おかしくて仕方ないと歪む頬までは誤魔化す気がないのか、にやけた顔で二人のやり取りを見ていた。

「では、作戦計画について、貴見の取りまとめにかかる」

 気まずくなった場を仕切り直すように妹川が言い、八名から出された意見を記した紙を橋上へ渡す。橋上は、数秒、目にしただけで、それを三岡へと流した。

 三岡は、自身も記録していたものと照らし合わせを始めたが、出された異見の中に、第二課の作戦班計画係が模擬挙動によって導き出した案を超えるものがなかったことは、充分に承知していた。

 あくまでもこれは、形式的なやり取りでしかない。

 橋上が告げた言葉が、総てなのだ。

 三岡は、一瞬、目をあげ、向こう正面に座っている少年の様子を窺った。

 細い顎先を僅かに上へ傾けた白練色の顔に無遠慮な冷笑を浮かべ、鋭い氷刀を纏った冷眼を八名へと投げつけている少年は、まさに地獄の鬼のようであるのに、その容貌は天子のように麗しく、神々しくさえあった。

 そう見えるのは仕方がないと、三岡は握っているペンへ目をやった。

 橋上が言ったとおり、他の誰でもなく、この会議の主座は少年であり、そして、今や本部における主座とは少年をさす言葉だからだ。

 総長の外山(そとやま)をしても敵うことのない、’託宣’とまで賞される少年の御預言(みよごと)を、深甚の謝意をもって拝受するのが各部の長の役割で、外山は、少年と本部を繋ぐ結び手でしかない。外山が総長である限り、少年は、三岡達に罵詈雑言を浴びせても、施しを与えてくれる。少年が冷淡であればあるほど、毒舌が酷ければ酷いほど、施しの内容は重く、大事であると理解するに至った。だからこそ、今日のこの場が設けられ、第一部部長である橋上によって作戦課課長の三岡と、編制課課長の妹川以下、各班班長が招集されたのだ。

 第一部の長たる橋上が、平素は参謀本部に在(ざい)さない、総長直下の参謀第一室に属する少年を総長の許可を得ずに呼び出すためには、第一部全体の会議を行うとの建前が必要で、実際に予定した日時に主要な者が集まりさえすれば、総長から理由を求められることはない。

 ただし、少年が出席するかしないは、本人の自由であり、欠席したとしてもそれに対し橋上から陳情を述べることは出来ない。

 つまり、少年が情報をくれたところで、寄越された側が精査できず、思慮が及ばなければ寄越した本人に説明してもらう他はなく、かといってそれには直言もしくは招請要請の手続きといった大層な手間が掛かる。

 それだけ少年から告げられる情報は軍にとって扱いが難しく、相当に異質であるとも言えたが、逆を返せば、だからこそ丁重に扱わなければならない、稀少なものであるとも言えた。情報だけではなく、それをもたらす本人も同様の扱いだった。

 今回も、中度の緊急を要すると、少年の’仲間’から本人の署名が入った分厚い報告書だけが橋上へ届けられた。本人はどこかと問うても答えはなく、早急にご一読をと言い、今回きりの連絡先を記した紙片を置いて行った。

 報告書を読んだ橋上の指示で、それを元に作戦研究がなされ、研究結果を指針に作戦計画が練られ、今日の会議へと繋がった。報告書をしたためた本人の口から話を聞くために費やした時間は、これまでの最短を記録した。

 事態の深刻度が増しているのは、作戦課の兵員の誰しもが感じていることだった。

 帝国による侵攻が現実味を帯びてきた近年において、大陸の動向には国内よりも遥かに注視しなければならず、諜報活動は何よりも優先して行うべきとされた。

 真新しい情報の入手は急務であり、それによって諸国に駐屯させている部隊をどう動かすべきか否か。拡大や縮小、装備の追加や変更、他国との配分調整等、悠長に考えている間に首を狩られかねないとの緊張感が、そこかしこに漂っていた。

 実戦力だけではなく、情報収集力においても、枢軸を担う一国として連合に遅れを取ることがあってはならず、かといって、枢軸の協調を重んじて自縄自縛に陥ることがあってもならない。国防を任された者にとって帝国と枢軸、連合という三つの重圧は、否応もなく、放つ一言一言に民の命がかかっていることを意識させた。

 機動は軽く速やかに。思考は重く慎重に。

 戦いにおける常勝手段など存在しない。状況は刻々と変化し動いている。

 誰よりも早く情勢を知り、即座に対応できる臨機応変さが勝利を呼び込む。

 高名な兵法書に書かれている通り、情報と情況を正しく知り、機を逃さず対処出来た者だけが勝てるのだ。言うは易く行うは難し。並大抵のことではない。

 だがしかし、それを事実体現し、軍部だけではなく政府機関さえも戦慄させているのが、平素、少年が身を置いている陸軍諜報特務機関、通称『D機関』だった。

 帝国が君臨するゼストク大陸において頻発している小国同士の小競り合いを、火が着く前にと、各国へ派遣された機関員達が類い希な英知と技量によって幾度も回避させていることは、国の上層部で知らぬ者はいない。

 まさに情報を制し、帝国の思惑を潰さんと、先んじて手を打った結果が生みだした和平は、危なげではありながらも機関員達の’暗躍’によって均衡を保ち、今なお続いている。帝国が隣国諸国への侵攻に手をこまねいているのも、俊才な機関員達の微細な諜報活動が功を奏しているからだ。

 そうした大業を、いとも簡単に成し遂げる機関員達の有能さは、彼等を率いる機関長の手腕が化物じみていることからも想像に難くない。彼に指導を受けたのならば、全員が全員、彼のような化物、否、魔物になるだろう。

 神ではなく、悪魔。神に憑かれたのではなく、魔を服し憑かせたもの。

 暗号名『魔術師』。二つ名は『魔王』。

 闇夜を纏う外貌と世界の天網を結ぶ指先を持つ男。

 その眼は見る者を畏怖させ、その声は聞く者を震撼させる。生きている気配を感じさせないのに、圧倒的な存在感に押し潰され、死の淵へと誘(いざな)われる。

 才知に長ける数多の魔物を従えた黒翳の天魔に抗えるものなどいはしない。

 三岡は軽く頭を振ると、その者の姿を思考の外へと追いやった。

 真黒(しんこく)を思わせる暗い瞳を思い出すだけで、三岡の手は滑稽なほど震え、背筋は冷たくなった。

 なのに、その彼に付き従う少年は、真白(しんはく)を思わせる体をしていた。

 軍帽の下から覗く髪色は薄灰(うすはい)で、肌は異様に白く、暗闇の中でも雪のような微光を放った。髪も肌も生まれつきらしく、アルビノ種の出来損ないだと本人は’謙遜’していた。体躯は男とするなら百五十五センチと小さく、軍服をわざわざ縫製しなければならないほど細かった。少年と呼ぶに相応しい顔立ちは、一見すれば女と見紛い、男にしてはふくよかで薄く赤みの注す唇が、純白の肌に唯一の色を添えているようにも見えた。ただ、その真白な少年と、少年が付き従う真黒な彼との間には、明らかに共通点があり、それを見る限り、少年が決して白いだけの存在ではないのだと思わせた。

 少年の背には、彼の王が有する黒翼があった。

 少年の声には、彼の者が発する陰音があった。

 少年の目には、彼の男と異する無輝があった。

 闇夜では無く、それよりももっと濃く深く、光の届かない海底の暗闇が、奈落の底の純黒が、少年の水晶体核を覆い、一切の色沢を吸い込んでいるようだった。

 それが彼による影響なのか、それとも、少年本人が初めから、アルビノの異種と自嘲する外見に’生まれた性質’として、もしくは、’本人の性質’としてそうであったのか、その経歴と共に詳細を知る人間はと考えたところで、三岡は溜息と共にペンを置いた。

 これ以上、無駄な時間を費やす理由を見いだせなかった。

 出された意見は、橋上の目にとまることはなかった。八名の班長達には酷であろうが、これが現実なのだ。三岡は、再び少年へと目をやると、その外貌をなぞるように視線を動かした。

 上層部が下した裁断は、陸軍内に席を置きながら、参謀本部勤務を頑なに拒み、特務機関の設立を直訴する彼を後押しし、設立認可の対価として、機関員として務める’ついで’に、軍が動くべき重大案件の情報だけを先に流すという少年の申し出を受け入れることだった。

 それまで、何らの功績も挙げていなければ、下士官の無謀な要求を呑むことは無かっただろう。しかし、少年は見事な数の武勲を並べていた。何より、彼を復員させ、彼の手足となり、彼と共に、今は枢軸として同盟国となった彼の国にかけられた帝国の鉤爪を引き剥がすべく尽力したのが最大の誉れだった。

 彼が彼の国を救ったことも驚きではあったが、彼を動かす起爆剤となったであろう少年の働きにこそ驚かされた。

 だが、その彼が、軍を恨んでいないとは、過去を知る誰しもが思えなかった。

 当時の上層部は、優秀でありすぎた諜報員の彼を一方的に切り捨てた。何を恐れたのか、何を羨んだのか、彼を陥れた理由は、愚かにも軍事的英断として扱われた。彼は死んだとされ、軍籍から抹消された。至上最高の諜報員として名を馳せた『魔術師』の死は、当時、幾つかの派閥に分裂していた軍の上層部にさらに深い溝を生み出した。軍部内での軋轢はそのまま軍の弱体へと繋がり、当時の陸軍省大臣が事の重大さを受け、彼を切り捨てた側の上官達を最大の国家権限を発動し、逆賊として追放するという前代未聞の醜聞にまで発展した。

 その後、二人交代し、現在の総長となり五年が過ぎた頃、その彼を異国の地から連れ戻してきたのが、その頃、第六課に所属していた少年だった。

 いつから少年が軍に属し、いつから彼の国へ赴任していたのか。

 少年の生い立ちから経歴までを管理する人事部に、少年の名が記された資料綴りがあるにはあったが、副総長の封印が施された数多くの封書を破ることは、誰にも出来なかった。邪推したところで、少年への評価が変わるわけではない。とにかく、彼の国で少年は彼を見つけ、復員させ、華華しい数々の功績を挙げて母国へと凱旋した。

 その後、紆余曲折はあったものの、彼が設立した特務機関は陸軍内だけではなく、関係省庁に対しても多大な恩恵をもたらし、国家上層部はもちろん、母国の礎を築いた皇家からも揺るぎようのない評価と信頼を得るまでになった。

 軍属機関であることから、機関員は全員軍人扱いではあるが、少年のように個別に呼び出され、将官以上の人間に具申することはない。特務機関の兵員と、参謀本部等に属する兵員との違いは、前者は戦争が現実のものとなっても、望めば戦線を離脱でき、職務を放棄することができる諜報と策謀に特化した兵員であるが、後者は国と民を守るために戦闘という殺戮行為を実際に行い、その身が動く限り職務の放棄を許されない兵員であることだ。後方支援の重要性を知ってはいても、戦闘部隊の誇りが、くだらない見栄が、軍人にあって軍人にあらずと実戦闘に関わらない兵員を軽んじ、その発言を蔑ろにしたがる要因にあるのは、三岡でなくとも『魔術師』の采配を間近で見てきたものならば、自ずと感じていることだった。

 作戦を立案する者は、情報を提供する者と連携を密にしなければならない。

 敵を同じくするのならば、協力し合うのが責善だ。

 しかし、それもまた言うは易く行うは難しだと、三岡は、出かけた嘆息を押し殺し、橋上へと直筆の進言書を送った。

 橋上は一読し、妹川へ顔を向けた後、再び、少年へと向き直った。

 橋上の視線の先には、退屈を持て余し、大欠伸をして椅子の背にもたれかかっている、あどけない子供に化けた魔物が座っていた。

 年齢が幾つであるのか、橋上は知らなかった。先の世界大戦の時には生まれていたと聞いたことがあり、単純に計算すれば、橋上の一番上の息子とさして変わらないはずだが、見目だけならば、十四、五歳といわれても違和はなかった。そう感じるのは、色素の薄い髪肌と、よく動く大きな目、角膜に反射するはずの光彩を一度も見たことは無かったが、のせいなのかもしれない。

 橋上は僅かに頬をあげ、幼子に接するような心持ちで少年に話しかけた。

「どうかね?」

「ん? ああ、僕が話す番ですか」

 うんんんと、少年が腕を上げ、体を伸ばす。至極どうでもよさそうな顔つきをすると、無言で頷く橋上を見て、ひょいと肩をすくめた。

「塵共の意見は、すべて却下です。実現性に乏しい。女の裸ばかり想像しているから、夢想するんです。規律で、女の裸を想像してはならんと取り締まったらいかがです? 塵のくせに女人とまぐわおうなんて、一千億年早い。研究班のシミュレーションはまあまあですが、計画は一部変更するべきです。帝国が着手する六十日前までに、国境線と中立地帯の強化を図らせれば良いのですから、我が軍が動く必要はありません。手助けも不要です。自国の防衛は自国にさせるべきです。駐屯司令官の高橋中将に交渉させて、当該国の歩兵連隊を五つ、’満遍なく’投入するように手配したら良いでしょう。ですが、武装連隊はいけません。彼等の武装連隊は我が国と違って大雑把ですから、目隠しが効きません。帝国に情報が漏れたと知らせることになります。奴らの油断を突いて自爆させるのが一番波風が立ちませんから、その辺の計画をご再考ください。当該国の工作班は稚拙ですから、今から教育したらいいでしょう。そうですね。ここの指導班から二つ出して、到着から三十日以内に計画にあった仕掛けを現場で組み立てられるように指導して、実行日の二十日前までに光源の一切無い場所でも出来るように腕を仕上げるのが理想的です。まあ、出来なくても僕は何も困りませんからいいんですが、閣下がお困りになるでしょうから、指導班から派遣する人選はよくよくお考えください。そこの塵に任せたら、何をされるか分かりませんが、閣下のご信頼を裏切るような糞馬鹿虫ではないことを証明させる良い機会ではありますから、三岡准将にご相談すると良いでしょう」

「分かった。そうしよう。他には、ないかね?」

 橋上が少年の言葉を手元の資料に書き込んでいく。走り書きなど、橋上のような立場の将官がすることではなかったが、少年が口にする数字だけは、決して聞き漏らしてはならないとの恐れから、自然にペンを握り、紙に記すようになった。

 具体的な数値を述べるのは、少年の頭の中に、暦があるからだけではない。

 橋上は、少年が指し示す数字の意味を身を以て知っている。それは、横に座る二名も同様だった。

「他、ですか? そうですねえ……」

 少年が僅かに目線を上げ、考えるような仕草をする。左手で唇を触るのは子供の頃からの癖なのだと言っていた。意外と寂しがり屋なのかもしれませんと、不意にはにかんだ顔になり、ふふと息を漏らすと、目許をくしゃくしゃにして笑った。

 おそらくそれが少年の素顔なのだろうと、橋上は思った。年相応の子供の仕草で、指を口元に持っていくのは、赤児が指しゃぶりをするのと似た理由で、無意識に口寂しさというよりも、心細さを埋めようとしているのかもしれない

「どれほど些末なことでも構わん。言ってくれぬか。毒を打たれてからでは遅いのだ」

 そんな少年に、本来は与えなければならない側の橋上が、与えてくれと懇願している。全く以て情けなく、腑甲斐ないと自身を責めても、橋上の眼前に神託を告げる巫女は降りてこない。誉れ高き母国の武者と崇められ、数々の武功を立ててはきたが、今は抜く剣も、撃つ銃さえも自身の手に持つことはない。未来ある若者を先導し駆り立て、この国を守る新たな担い手として育て、いざ事を構えることになったのならば、率先して若者達を戦場へ送り出す悪鬼となる。

 出来ることならばそうならないようにと願うのは、軍人としての資質を欠いているのかもしれない。しかし、他国の思惑につられ、散らせなくてもよい命を散らす泥船に乗るのは、橋上の矜持が許さなかった。戦争推進派の将官達は、過去の栄光に囚われ、自身の保身ばかりを考えている。国威発揚というのなら、戦ではなく、平和を目指す活動を宣伝するべきだ。戦争など、失うものばかりで何の益も無い。今、ここにある平安を、それを享受している国民を守ることこそが軍人の務めであろう。

 何故、それを理解しないのか。何故、無駄に争いたがるのか。

「……閣下のご心痛を分かち合ってくださる方は、そこにおりますよ」

「む……」

 少年の声が耳傍で聞こえ、橋上は思案の淵に落ちていた意識を戻した。

 少年は小首を傾げ、物憂げに橋上を見ていた。

「閣下の優秀で有能で勇敢な部下達の前で大変恐縮ではありますが、閣下には、日頃からよくよくお目をかけていただいておりますから、とっておきの情報をお伝えしましょう。本当は、僕の「大切な御方」へ先にお話しするべきなのですが、どのみち、僕の「大切な御方」では、指導班を動かすことは出来ませんからね。開始日は、今日を除いた百四日後。帝都からの資材の搬出はその日より五十七日前。完成予定日は今日を除いた二百七十二日後。完成の後、そこには隣国を牽制すべく、いささか時代後れの感はありますが、砲台が築かれます」

 少年の発言に、静まりかえっていた議場が途端に騒がしくなる。資料には書かれていなかった情報を聞かされたのだから無理もなかったが、新垣を始めとした班長達の戸惑い振りは、橋上には憐れとしか映らなかった。

 こうした会議に少年が呼ばれる理由を熟慮すれば、いかに少年が重要な存在であるのか分かりそうなものだが、彼等もまた、過去の栄光に囚われた片端(かたわ)な上官の影響を受け、偏った思想と思考に凝り固まり、思慮の自由を奪われた悲しき人間なのだと、橋上は出かけた溜息を飲み込んだ。

「二百七十二日後に完成するならば、開始日から何日後に、策動を行うのが良いと考えるかね」

 九ヶ月を費やす大規模な土木工事で帝国が築(つ)くろうとしているものが、砲台のための’敷石’であると分かった以上、止めなければならない。当該国の歩兵を配置し、睨みを利かせたところで、帝国が計画を中止するはずもない。国境線の動きを察知し、挑発してくる恐れもある。中立地帯を挟んでいるとはいえ、その上を砲弾が飛び交ってはならないとの正式な決め事は’帝国との間’には無い。

 あくまでも、互いの国境の間に緩衝材を詰め込んだだけであり、いつ何時、何を切欠に吹き飛んでもおかしくはない状況だ。

 それほどに帝国と隣接する国々の間には冷たい緊迫感が漂っている。

「策動? ……ああ、工作班が稚拙でと言った、あれですか。ご安心ください、閣下。奴らの工事は上手く行きません。開始日から八十一日目に神罰が下り、人足のほとんどが瀕死に陥ります。勿論、神罰とは言葉の綾で、季節外れも甚だしい、数十年に一度の暴風雪に、運悪く見舞われるだけのことです。ですが、さほど雪が降らない地域に、秋とはいえ暴風と氷雪が十日間にわたり猛威をふるったらどうなると思われますか? ろくな食事も休息も与えられずに疲労困憊の人足達が無事でいられると? まさかまさか。指揮をする軍人は五体満足でいられるでしょうが、借り出される人足は帝国に住んでいるとの理由だけで、この僕から憎まれ蔑まれ虐げられる可哀相な一般人です。物資の補給もままならず、備蓄の食物は軍人が食べてしまう。お優しい閣下の前でこんなことを申し上げるのは大変心苦しいですが、帝国の人口のうち、徴兵で使えそうな男達が僅かながらも死んでくれますから、ありがたい神の祝福として受け取りましょう。もっとも、隣国の皆様にも同じ試練が与えられますから、この’夏’から備蓄は近年より多めにして、国民にもその様に触れ回ったら良いと、各国の大使にお伝えしておくとよろしいでしょう。我が国に直接雪害はありませんが、かなり南の地域まで寒波が入りますから、そこからの船便はしばらく届きません。そちら方面から調達している物資は早めに届けさせるか、今から多めに搬入させるか、ご手配するのもいいでしょう。特に、国民生活に影響を及ぼすような物は優先的に輸入して……っと、ああ、これは閣下の範疇ではありませんでした。失礼。後ほど、僕の「大切な御方」から、商工省のお偉い方にお伝えしてもらいます」

 朗々と詩を詠じるように、少年が託宣を告げる。

 思わず、橋上は立ち上がり、頭を垂れたくなった。

 半年以上も先の出来事を、まさに見てきたと言わんばかりに話す少年に、橋上の戦慄は止まず、胸を打つ雷撃に痺れていた。横にいる二名も同様に震えているのが、橋上には分かった。

 貴公は、人間なのか。

 橋上は、初めて少年の’予知’を聞いた日のことを思い出し、その後、少年へぶつけた疑問の言葉を、こうして聞かされる度に思い返した。何度考え、何度巡らせても、少年の発言がどこからくるのか、また、少年の正体についても答えは出なかったが、今、橋上が思うのは、少年が少なくとも敵ではないとの安堵だった。

 これほどの魔物を相手に、凡夫が持てる勝機など、万に一つもありはしなかった。

「七宵大佐、ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」

「うん? 何です? 的場少佐」

 的場の問いかけに、話はもう終わったとばかりに腰を浮かせていた少年の動きが止まった。カチャリと、腰に帯びた刀の鍔が触れあう小さな音が、ざわつく部屋に、一瞬で静寂を呼び戻す。

 少年の目が的場を捕らえ、的場は、険の立つ視線を受け、大きく身動ぎをした。

「そ、その……さ、先ほど、七宵大佐は、当該国の工作班の指導を、私の戦技指導班にさせよと具申されておりましたが、大佐のお言葉通りならば、帝国の工事は自然に立ちゆかなくなるのでありましょう。であれば、策謀は不要なのではありませんか? それとも、大佐の予測が外れた場合の対応策として、工作班の指導をさせよとのご進言だったのでしょうか? 断じて外れないと言われる七宵大佐のお言葉を信じるなら、わざわざ渡航してまで、当該国の工作兵を指導する理由は無いと思われますが、大佐が何故(なにゆえ)指導をと仰るのか、お考えをお聞かせ願えますか」

 的場のやや上擦った声が、静かな議場に流れる。

 カタカタと、窓が風に揺らされる音が、その合間を縫って聞こえてきた。

 全員が、的場と少年とへ交互に目線を走らせ、様子を伺う。

 的場の額には油汗が浮き出していたが、軍帽の鐔下から覗く少年の顔には、薄ら笑いが浮き出ていた。

「大変良い質問だ、的場少佐。平素の僕なら、口を開くのが面倒くさいと、君の口に拳を突っ込むところだが、愚直な姿に感銘を受けたから、特別に教えてあげよう。そのでかい耳の穴に、目の前にある紙を破って丸めてぶっ刺して、少女のように可愛らしい小声で囀る僕の声を聞き漏らさないように、まずは細工したまえ。君は戦技指導班の班長なのだから、それくらいの工作は得意だろう? さあ、やりたまえ。話はそれからじっくりたっぷりしてあげよう」

 意地悪く笑う少年に、的場の顔が凍り付く。階級としては少年の方が上で、的場は命じられれば従わなければならない。参謀本部の組織内で、班長を務める者同士は階級に縛られないとの暗黙の了解があるが、少年にそれは適用されない。

 的場は、少年を見つめたまま、恐れのあまりに出てきた生唾を飲み込んだ。

 少年は、階級こそ大佐であるが、その待遇は副総長に匹敵すると言われている。橋上達将官が、少年を賓客扱いしているのが何よりの証拠だ。それでも、’外部’の特務機関の機関員風情がとの侮蔑が、参謀本部の班長組のみならず、兵員達の中にはある。軍大学を卒業した者は、市井の大学出の人間など同じ軍職についていたとしても、階級が上であろうとも、真っ当な軍人とは扱わない。

 しかし、今、班長達の前にいる少年だけは、例外中の例外で、真っ当な軍人ではないばかりか、人間ですらないと唾棄させる存在であるのだ。

「さあ、どうした? 的場少佐。そんな程度のことも出来ないのに、君は、私の戦技指導班がと、この僕を呼び止めたのか? 何をもって、私の戦技指導班などと言うのか、まずはそこから説明してもらいたいところだが、生憎、僕は忙しい。誰か、あの人型をした塵の耳に、丸めた紙を突っ込んでくれ。そして、僕が説明する言語を翻訳し、あの塵に説明してやってくれ。ほら、早くしろ。’時は金なり’だ。’貴様等’がもたもたしているこの瞬間にも、僕の可愛い部下達が情報を持って、そこの窓から覗いている。早くしろ、早くしろ、早くしろ、この薄鈍共! 僕の時間を、貴様等の給与程度で買えると思うな。僕の報酬は分単位での計算だ。貴様等愚鈍な塵共が、僕より格上だなどと勘違いをするな。貴様等如きがいなくとも、首の換えなど幾らでもある。閣下のご厚情で引き上げていただいていることを忘れて、私の班などと、戯言を吐かすな。貴様等自身が手ずから集めて躾けて慣らして育てたわけでもあるまいに、烏滸がましいにも程がある。立場をわきまえろ! 貴様等など、閣下が居られなければ、今すぐ拐かして帝国本土に放り投げてやるところだ! 無能も無能! 何奴も此奴も、閣下のお心に背くばかりの不届き者で、全くもって嫌になる!」

 少年が眦を釣り上げ、語気を荒げて、班長達を叱咤する。少年から一番近い席、下座の扉側に座る班長は、今にも倒れんばかりに顔を青くして身を竦め、その向かいに座る班長もまた、血の気の引いた顔を引き攣らせ、硬直していた。

「ああ、本当に愚図ばかりだな。井上少佐、手数だが、君にも必要がない資料の紙を破いて丸めて、隣りの的場少佐の耳に差し込んでくれ。これでは埒が明かないし、話が進まない。僕は忙しいんだ。しかし、質問に答えると言った手前、約束は守る。将は以て信ならざるべからず、というだろう。僕は、嘘をつかないし、約束も破らない。相手を騙すのは得意だが、それは職責を果たすために必要だからだ。うん? 何をポカンと口を開けて僕を見ている? 君も僕の言葉がわからないのか? 塵とは言え、酷いな。酷すぎる。閣下の失望が目に見えるようだ」

 あからさまな嘆息を吐き出して、少年が椅子を立ち、大股で窓へと歩み寄っていく。的場が少年の背を目で追うのと、橋上達が手元の書類を押さえるのと、さして変わらない時間差で、少年の右手が蝶番を外し、窓を押し開いた。

 獰猛な勢いで’舞い込んで’くる突風に混ざって、枝に止まっていた鳥達が、一斉に会議室へと’流れ込んで’くる。重い羽音をはためかせた様々な種類の鳥達が狂ったように飛び交い、班長達の頭上に、肩に、気まぐれにとまっては、鋭い爪を立て、嘴でつつき、ギャアギャアと喚きたてるのを、班長達は必死の形相で追い払い、理不尽な攻撃から逃れようとした。そんな惨劇とも思える様を、少年は裂けんばかりに口角を上げ、艶のない瞳に愉悦をなみなみと湛え見つめていた。まるで少年の代わりに鳥達が甲高い笑い声を上げ、嘲っているかのようだった。

「僕の可愛い部下達が、情報を持って窓から覗いていると言っただろう」

 語調を落とした少年の声が、喧騒の中でも凛として流れる。

 椅子に再び腰掛けた少年が左手を挙げ、何かの絵を描くように指を動かすと、鳥達は途端に鳴き止み、班長達が座る椅子の背や、その肩、机の上に身を落ち着けた。その中で、一番体の大きいシロオオタカの幼鳥と覚しき個体が少年の小さな肩にとまらんと、器用に翼を羽ばたかせて宙にとどまり、少年の頭が左に傾いだのを見るやいなや、ふわりと微風を思わせる優しさで脚をおろした。軍帽を被った少年の頭よりも大きな鷹は、甘えるように少年の肩先を鋭い爪で二度引っかき、少年の右手が背中を撫でると、ググググとくぐもった声を出した。

「うん。待たせてごめんね。寒かったでしょう?」

 ぐるりと辺りを見回して、少年が先ほどまでとは明らかに違う声音で鳥達に話しかける。口元には薄らと穏和な笑みを浮かべ、目許を緩やかに下げ、鳥達が愛おしくてたまらないとの温情を、表情だけではなく全身から放っていた。

 鳥達にいいようにされ、手の甲や顔や頭のあちこちに傷をつけられ、所々から血を滲ませて呻いていた班長達は、揃いも揃って目を点にし、目を疑った。いや、まさか。見間違いだと、目を凝らした。本来は鳥達をけしかけた忌々しく許しがたいはずの相手であるのに、無垢な子供を思わせる姿に釘付けになっていた。

 少年の純粋な心情を現したかの様子に、見たことがない愛らしさに呆気にとられ、醸し出される穏やかな雰囲気に毒気を抜かれる。鳥達へ呼びかける合間に漏れ聞こえる温かな笑み声に耳をそばだてる。少年が頬を染め、嬉しげに楽しげに鳥達と戯れる姿に惹きつけられていた視線は、いつしか魅入られたように正気の光をなくしていった。

 鷹の喉元を撫でる少年のやわらかな指先の動きを追いかけ、それが自身の喉元であったのならばと想像する。甘えるように少年の軍帽に硬い嘴をすり寄せる鷹の姿を、’疎ましい’思いで睨みつけ苛立ちを募らせる。少年が鷹を労り可愛がるほど、班長達は色めき、心を奪われ、そしてまた、代わる代わるに鳥達が少年の傍へ寄っていくのが不愉快極まりないと、あからさまに顔を歪ませて、歯ぎしりをした。

「フフ……そんな顔、しないで」

 ふと、悩ましげな眼差しが、ひそめく声と共に向けられた。少年の左手が、ゆっくりと唇を触れなぞり、何度目かの行き来の後に、羽触(はふり)と人差し指を口先に食ませると、菊桃(きくもも)の花びらを連想させる下唇を無造作に捏(つく)ねった。

「君達を、大切に思っているよ」

 少年の声色が、柔かなしとりを帯びて、場をそよぐ。口端を、口際を人差し指でつつきながら、淡い吐息で少年が微笑む。

「君達は、仲間だもの」

 そうでしょうと、訊ねる響きの優しさが耳の後ろでさやぎ、仰向けに差し出された右手の仕草が、首筋を撫でていく。

「君達を、思わない時などないよ」

 白い手袋をはめた両手を合わせ、さらに目を細めて、愛おしそうに左の頬先へと寄せあてる。ほぅと、大きく息をこぼして、合わせた指の背に口づけをする。

「いつも、君達ヲ思っている」

 目蓋を閉じ、また、大きく息を吐き出す。

   ――×××リ、×ク××

「大切な君達のことヲ、思っていル」

 ゆっくりと目蓋を開け、合わせた指先を口先へ添える。

   ――×ビ××、×××イ

「僕の、大切ナ仲間ヲ思っテいル」

 緩るかに指先へ押し当てられた唇が、微かな水音を立てる。

   ――××キ×、ヤ×××

「僕の、大切ナ仲間、ノ、君達ヲいつも、思ッテ、いルよ」

 すぅと大きく息を吸い込んだ唇が、ふうわりと大きな笑みを作り、広がる。

   ――ク×××、××ケ×

「ねえ? 君達ハ、思ッテ、くれル?」

 笑みはそのままで、瞳だけが、僅かに寂しさを浮かべる。

   ――シ××××××ネ×××××××

「僕ヲ、思ッテくれル?」

 笑みはそのままで、瞳だけが、僅かに伏せられる。

 カツンと硬い音が波紋を描くように空中に広がり、少年がゆっくりと立ち上がった。

「大切ナ仲間だト、思ッテくレル?」

 笑みはそのままで、顔を傾け、静かに机へ寄っていく。

 あと一歩のところで足を止め、少年が、合わせていた掌を、祈りを捧げるように組み合わせた。

「僕ヲ、大切ダト……僕が、大切ダト……思ッテ、くレル?」

 笑みはそのままなのに、震える声が、哀切を訴える。言葉が、否定されるのを知っているかのように途切れ、途切れた言葉を繋ぐ言葉も途切れて、つぅと消える。

「ネエ……言ッテ? 僕ト、同ジ思イデ、イルト……僕ト、君ハ、同ジダト」

 切々と、少年の伏せられた睫を、忍び音が揺らす。窺うように、少年の目蓋が開けられる。そろりと覗いた虹彩に、ゆらりゆらりと首を動かし、無言で同意を示す班長達の姿が’映る’。少年の無輝眼(むこうめ)に似た十六の虚眸(うつろめ)が、ずらりと並んでいる。

「ソウ……そウ……君ハ、僕と同じ……同じなんだね」

 少年が、祈りの手へ口づけを捧げ、顔を上げる。微かに潤んだ瞳が笑みを作ろうとして、大きく’歪む’。

「そう……嬉しいな……僕と同じだなんて、嬉しいよ……とても、嬉しい」

 わななく口元が、一語一語を区切りながら、これでひとつになれると、呟きを落とす。低く静かに深い水底(みなぞこ)へ潜るかのように声が、部屋の中を沈む。

「来て……どこまでも、共に。この手を掴んで、離さないで。決して、離さないで」

 少年が組んでいた手を離し、右手を伸ばす。それから、その手をゆっくり喉元へ持って行くと、そっと手の平を添え、首横を優しく押すように爪先を立てた。

 と、何を思ったのか、班長達が全員、少年と同じように右手を顎下へ持っていき、気道を押し潰さんばかりの勢いで、喉頸を締め上げ始めた。

 八名の男が、白目を剥き、舌を突きだし、口の端から唾液を垂れ流す。

 それなのに苦痛の声を一つも発せず、それが自らの意志であるかのように、ギチギリギチギリギチギリと一切の躊躇をも見せず首を絞め続ける。

 それを、耳の端まで切り込まれた大口を開け、音もなく笑って’見守る’少年は、無垢の欠片も見当たらぬ、微塵の情も無い狂人と化した悪魔の如き形相で、自身の首から離して浮かせた右手で何かを、あたかも陸に揚げられ水を求めてのたうち回る魚の尾を掴み、身動き出来ないようにきつく握って、そのまま握り潰そうとしているかのような仕草をしていた

「さあ、共に逝こう! 僕の思いと共に、永久(とこしえ)を彷徨い繰り返す夢魔となろう! 鬼録を書き換え覆せぬ刻(とき)の記(しるし)を削り望(のぞみ)が描きし未来を――」

「どうか、『死神』よ。’挽回’を頼めぬか」

 少年の声が嬉々として、死の際に瀕している班長達への口上を述べる。それを、橋上の楚痛に満ちた哀願が遮った。

 声を発した橋上へと視線を投げかけた少年は、橋上の頭頂が自分へ向いているのを見て、一瞬、目尻を攣らせたが、すぐに’平素の表情’へ戻すと、短く、聞こえないくらいの小さな息を吐き出した。

「閣下のお優しさが筋金入りであるのは、重々承知しております」

 やや呆れが含まれた響きであったが、少年は軍靴の底で床を素早く五度蹴ると、思いきり右脚で分厚い板下を蹴り上げた。派手な音を立てて机が浮き上がり、床へ落ちる。その轟音で正気を取り戻したのか、班長達の手が止まり、続いて激しく咳き込み嘔吐をもよおし椅子から転げ落ちる音が、そこここで聞こえ始めた。

 橋上がのろのろと頭を上げ、少年へ顔を向ける。と、班長達を見下ろす少年の顔に、微かな苦渋が浮いているのが見えた。何故という素朴な疑問がわき上がるのと同時に、橋上は少年の意図を悟った。

「なんて無様な。それでも軍人か? この程度の圧迫に耐えられなくてどうする? 最低でも五分間は息を止められないと’拷問’をやり過ごせないぞ。もっとも、貴様等を詰問したところで、大した情報は得られないとすぐに分かるだろうが」

 少年の容赦の無い声が、班長達へ浴びせかけられる。しかし、その声はもはや、橋上には小鳥の囀りにしか聞こえなかった。少年の暗号名が意味するものを、こうも間近で見ることになろうとは。

 橋上は、少年の二つ名が『死神』であることの意味さえも、今は、はっきりと理解していた。

「何時まで、這い蹲っている? そんなに床を舐め回して恥ずかしくないのか? 軍人の名折れとはまさにこれだな。我は軍人でござい、威張って当然、崇められるのが必然の存在であるぞよと、先ほどまで気勢を吐いていたのが悪夢のようだ」

 げらげらと嘲笑する少年が、鼻をつまんで、軍人さんは偉いんでしゅ、軍人さんは神様でしゅと、子供が巫山戯てするようなおかしな声で、宣伝広告の文言を子供言葉に置き換えて口にする。

 机や床に撒き散らされた吐瀉物の臭いは、開け放たれたままの窓から入ってくる風に巻かれて抜けていたが、少年の様子を見た鳥達は、それを少年が不快に感じていると判じたのか、追い打ちをかけるように班長達の頭へ数撃を加え、少年にはそれぞれ可愛らしい声で挨拶をして、気をつけてねとの優しい一言を貰ってから、次々に飛び去っていった。

「それでは、僕はこの辺で」

 鳥達をすべて見送った少年が、佩した刀へ右手をやり、栗形にぶら下げていた鈴のようなものをつまみ上げた。小型の時計だったようで、長居をしたと呟くと、下緒の具合を確かめるように端に触れた。

「一刻もすれば、酸欠状態も収まるでしょう。それでも調子が悪いというような虚弱者は閣下の部下として相応しくありませんから、即刻処断されることをお奨めします。っと、そうだった。的場少佐との約束を、うっかり忘れるところだった。と言う訳だ、的場少佐。僕がどこから情報を得ているのか、分かっただろう。僕の可愛い部下達が、ああして運んできてくれるんだ。無論、僕の部下は鳥だけではない。この地上で生きるもの、全てだ。視覚があり、聴覚があり、触覚がありさえすれば、僕の可愛い部下になれる。例外は、微生物と細菌だ。彼等と意思疎通を図るには、些か僕の五感は大きすぎる。あんな、マイクロ……ではなく、この時代ではミクロンだが、あの単位の生物を扱うのは流石の僕でも無理だ。それに、絶対的個体数から考えても、そこまでの数を必要としない。故に、僕はどこからでもどんな情報でも入手できる。不可能だと言ったその情報も、僕の可愛い部下達が勝手に集めて持ってきてくれるんだ。こんなに素晴らしい部下は世界のどこを探してもいないと断言してあげよう。的場少佐も彼等彼女等のような優秀で有能で勇敢な可愛らしい部下を持つといい。こんな糞みたいな塵虫を相手にしなくてはならない憂鬱で最悪で僕の方が反吐を吐きたいくらいの気分の日でも、世界はまだ捨てたものじゃない、世界は何て美しいのかと、太陽礼拝をしたくなるほどに輝いて見える」

 全く以てそれは幻想だがなと、少年は嘲謔(ちょうぎゃく)すると、未だ吐き気と戦っている的場の返事を待たずに、靴先を扉へと向けた。

「七宵大佐。出過ぎたことを申すが、的場少佐の質問は、当該国の工作班を指導する理由を教えて欲しいであり、情報の入手経路は、恐らく、新垣大佐が述べたことではないか」

「………………、うん? あれ? そうでしたっけ?」

 橋上が慌てて少年を呼び止めると、少年は踏み出そうとした足を止め、橋上へと振り向きざまに小首を傾げた。

「そうだとも。的場少佐は指導班の班長だ。情報に関しての教授を求めてはおらぬ」

 訳がわからないとばかりにキョトンとした大きな目が、橋上を見つめる。橋上は、少年の少年らしい仕草と顔つきに、傾倒しかけた思いを抑え、心ばかりの笑みを送ると、再度、そうだともと頷いた。

「……ううん? 閣下が策動とおっしゃった所までは覚えているのですが、その後が、塵が何を言っているんだ、馬鹿か? 阿呆か? 間抜けだからこんな簡単な理由も分からないのか? これだから軍大組の能なし共は脳みそが無い、脳無しと揶揄られるんだと、的を射た呼称に大笑いしている僕の姿しか思い出せなくて、すみません。多分恐らくきっと、僕は、教えてやるから何かして見せろと言ったのでしょう。それで、こんな事になっているわけですね。ああ、まったく。閣下の優秀で有能で勇敢な部下とはとても思えない体たらくに、流石の僕も憐憫を覚えます。馬鹿で阿呆で間抜けな塵は、閣下のご温情がなければ存在すら許されないのですから、いっそ燃やしてしまえばよろしいのに。軍人など、一族郎党、祖先も子孫も皆が皆、帝国の蛮人と共に、跡形も無く、影形も無く、血の果ての果ての果てまで、細胞の一欠片まで、消えてなくなればいいのです。それでも閣下は、こんな塵共に’挽回を’と願われるのですから、信愛の深きは海溝の果てにまで届くでしょう。まさに、閣下は神の如くこの塵共の上に君臨し、この塵共に塵なりの幸いと祝福をもたらしてくださる御方。ああ、幸いなる哉、塵共よ。橋上閣下のご恩寵をいただけるなど、至上の喜び。塵共には過分な処遇。塵にも一分の魂を与えてくださる至高の存在であることを努々忘れること無く、貴様等塵共は、その身を打たれ焼かれ、譬(たとい)異国の地で朽ち果てようとも閣下のご恩情に背くこと無く裏切ること無く粉骨砕身誠心誠意閣下の御為(おんため)に勤め、励め! 閣下の御心を僅かでも裏切ってみろ。僕が貴様等のなけなしの脳みそに埋め込んだ爆弾が破裂するぞ。今、げえげえと汚く垂れ流しているものが、次は、脳漿と脳髄に変わるからな。自らの頭が破裂し体液と肉片が撒き散らされる様を見ながら、閣下を謀ったことを後悔し懺悔し慙悸して、今度こそ死ね。貴様等だけではない。閣下の恩義に報いない糞共は、例外なく死ぬ。橋上中将閣下のご温情に後ろ足で砂をかけるような第一部の不届き者は、全員死に至ると触れ回れ。貴様等が今、その身で体験した事象が夢ではないと思うのならば、そのままを伝えろ。ありのままを話し、聞いた者を惨慄させろ。橋上閣下を我が神と崇めない者は、容赦なく憐憫も無く暇(いとま)もなく、首を持って行かれると忠告してやれ。それは、現実に起こる悪夢だとな」

 少年の右手が二振りの刀を合わせ、わざとらしい音を立てる。橋上達には、どうということもない、ただの金属がぶつかり合う音であったが、我が身に何が起こり、何故この様な状態になっているのかを理解できていない班長達にとっては、少年が本当に首を落とそうとして刀を取ったと思わせる、げに恐ろしく悍ましい響きに聞こえたのだろう。銘々が了承と赦免と叫声を好き勝手に張り上げ、少年がますます顔を歪にさせて、諦めとも取れる嘆息を吐くには十分な錯乱具合を披露した。

「大変お手数ですが、閣下。この者達には後ほど、何故、当該国の工作班を指導しろと僕が進言したのかを、微に入り細にわたって、ご教授いただけますか。外交の基本のきの字も知らぬ朴念仁に、僕のような短気が服を着て歩いているようなものが、懇切丁寧に教えてやれる自信など毛の先ほどもありません。売れる恩は出来るだけ高く売るのが常識でしょうに、軍人というのは、そうした物の道理をわきまえないから嫌われるのです。それに、戦など、当事者同士で勝手にやらせれば良いことです。わざわざ首を突っ込む必要などありません。友好国だから助けよう? ははははははは。馬鹿ですか。投入する人的物的時間的資源の無駄無駄無駄です。そんなものは、ただの見栄です。何の役にも立ちません。それなら、友好国が勝手に戦って、勝手に勝てるように、戦う前に手助けをしてやれば良いのです。恩を高く高く、友好国の国家予算の半分をつぎ込ませるくらいに、国の元首が床に頭を擦りつけて哀願をするほどに高く売って、練度を上げさせれば良いのです。そうすれば、我々に被害は及びませんし、勝てば官軍、友好国は、まさしく我が国に頭が上がらなくなるでしょう。とはいえ、互いに褒めそやし、笑顔で握手をする傍らで、舌を出すような輩ばかりですが」

 手前で少年を見上げ、赦しを請い脅え震えている班長を憐れむように見下ろしながら、少年が、卑怯者の集まりですと言い捨てた。

 橋上は、政府が行う国際外交に関しては門外漢ではあったが、少年のその言葉に少なからず悲懐が含まれているのを感じ、’軍事外交は順調’であっても、国家外交は予想しているよりも捗捗しくないことを、そこはかとなく気づかされた。

 政治家は戦争をやりたがり、軍人は政治をやりたがる。政府の外交が滞る一端は、一部の愚かな軍人にあり、国威発揚と称して戦へと国民を駆り立てるのは、一部の愚かな政治家が懐を温かくしようと裏で手を引いているからだ。互いの利害が一致すれば、国民、否、国など顧みることなく、己が天下であるかのように我を押し通し、眼前に脅威が迫るまで考えることはおろか、気づきもしない。脅威を前にして身を投げ出すのは、何も知らない愚直な若者達だ。

「承知した。足労をかけ、すまなかった」

 橋上は、今まさに扉を開けて出ていこうとする少年へ声をかけ、頭を僅かに下げた。上官にならい、横の二名は深々と頭を垂れる。橋上達のいる上座の扉前に控えていた兵員は、班長達の惨状にすっかり腰を抜かし、半ば気を失っていた。

「どうか、お気になさらず。閣下の御手を煩わせることに比べたら、然したる手間ではありません。寧ろ、おつりが出るくらいです」

 それではごきげんようと、少年は、少年らしく明るくにっこりと笑うと、体の厚みがぎりぎり通るくらいの隙間を猫の様にすり抜けて、会議室を出て行った。

 途端に橋上は酷い疲れを覚え、椅子の背にもたれかかった。少年とは何度か顔を合わせているが、今日の様に、橋上自身がだらしがないと苦笑を覚えるほど、僅かも腰を上げられない恐ろしい脱力感に見舞われ、動けなくなることはなかった。

 それもこれも、少年のあの姿を見たからだろう。

 橋上は、目の前でなおも震え脅え泣き叫んでいる班長達の様子を見遣り、少年のその名を胸中で口にした。

 暗号名『調教師』。二つ名は『死神』。

 その名を総長から聞かされた時は、純粋に、何故との疑問が橋上の頭を過ぎった。少年が属する特務機関の特性、もしくは、標語を思うのならば、『死神』とはいかにも見当違いで、また、その外見にもそぐわなかった。

 暗号名に関しては、そう呼んで差し支えない人心掌握術でも備えているのだろうと考えていた。

 しかし、そうではなかった。人心などではない。少年が支配しているのは、その発言をそのまま信じるのならば、生きとし生けるもの全て。全ての生命を、その意のままに操れるということだ。まさに、それを見せつけられた。議場に飛び込んできた鳥達の様子、少年の容姿と繰り出される言葉に完全に呑まれた班長達が晒している無様な姿が、その力を証明していた。生きているものならば、少年はひと目その姿を晒し、声を聞かせさえすれば、相手を従わせることが出来るのだろう。超常的で、橋上にはどのような絡繰りであるのか想像もつかないことであったが、未来を予知する少年ならば恐らく出来るのだと、橋上は確信した。

 故に、『調教師』であり、『死神』。

 少年が望みさえすれば、直接触れることもなく、相手を死へと追いやれる。そして、その死の淵から生還させることも可能とする。少年の前では、何ものも自由ではいられない。少年が与える、自由であるという錯覚の上でしか、呼吸さえ許されない。少年の吐く言葉、少年の僅かな仕草、それら全てが、少年の持つ能力なのだ。

 それほどに恐ろしい魔物で、その魔物を唯一絶対服従させられる『魔王』は、それ以上に恐れるべき存在だと、少年は、今日初めて、それこそ、これ以上にない時機で、橋上だけではなく、班長達へ示して見せた。

 そして少年は、班長達に擦り込んだ。

 橋上を謀れば、死に至る、と。

 それは、橋上への忠誠を煽る為だけではない。橋上の主義や思考が、少年が従う「大切な御方」の意向と然程の差異が無い故だ。部下のくだらない失敗の責を取らせ、愚かな上官達の手でまんまと失脚させられないための軛を打つために、一芝居を演じて見せた。それは『魔王』の指示であり、また、少年の進言でもあるのだろう。

 戦争を回避することが善であると、少年は言った。他国の戦争に介入するなど、愚の愚であると。

 今の総長がその座にある限り、帝国の思惑を潰すことは出来る。しかし、総長を任じる上官が、いつ、その首を変えられるかはわからない。彼等のことだ。根回しは、すでに講じてあるだろうが、いつ何が起きてもおかしくない世情となってきている。国のあちらこちらに不穏な空気が漂い、民の間にも小さな溝が出来つつある。

 流石の彼等でもそれを一掃できるとは思えない。少年ならば、その不可能さえ可能とするのであろうが、少年がこの先を予見したのならば、あえて不可能を可能とせずに、時の流れに身をまかせよと助言するだろう。

 政府や軍といった狭意の空間に存在する人間の心身は操れても、国民感情という、最も巨大で、国が国であるために必要不可欠な要素を根底から変えることは、少年の力をもってしても短期間で行うのは難しいはずだ。それを今からいつまで続くかわからない長い長い時間をかけてまで、果たして変えろと命じるだろうか。

 かつて、’国’に裏切られた『魔術師』は。

 それとも、それでも救えというのだろうか。

 国のために身を尽くしてきた彼の男なら。

 今なお、その手を離さずにいる『魔王』ならば。

「……そうか」

 否。

 望まないのは、少年の方だ。

 少年は、決して敵ではないが、完全なる味方でもない。総長の下にあっても、少年が従うのは、『魔王』のみ。ならば、国民が’軍人に死を’と叫び、戦争へ進む道を選ぶと見れば、掌を返して、足並みを揃えましょうと、あの黒い翳に囁くだろう。

 そして、その先がどうなろうとも、この国がどうなろうとも、国民がそれを望んだことを大局を占めた国民達へ思い知らしめ、その選択が過ちであったことを断罪した後に、救済を始めるべきだと宥めるだろう。

 恐ろしいのは『魔王』ではない。

 『死神』である、少年だ。

 橋上は、不意に、その考えに思い至った。

 何故かは、わからない。

 しかし、橋上は、少年こそが、唯一絶対に服従する『魔王』に対して、唯一絶対に対抗しえる存在であると感じた。『魔王』がこの国を救うといっても、『死神』はそれを望まないだろう。何故なら、少年こそが、この国を憎んでいるからだ。『魔術師』を死に追いやり、存在を否定したこの国そのものに、橋上が想像できえないほど深く冥い憎悪を抱いている。だから、少年は、帝国人を徹底的に殺すと言い放ち、その傍らで、軍人など死に絶えてしまえばいいと曰うのだ。『魔王』に爪を立てるものは、何であろうと許さず、帝国人と同様に扱う。少年が真に忌み嫌い、滅してしまいたいものは、少年の「大切な御方」を誹り、侮るものではない。彼を裏切り、彼を死へ追いやり、彼の全てを奪ったものと、その子々孫々までの血脈だ。少年はそれらを帝国と同時に根絶やしにすることを願っている。だから、彼に従うもの、または、彼に賛同するものを、逆に、どのような手段を用いても、守ろうとする。

 その一人が橋上で、橋上は、たった今し方、少年の手によって救われた。班長達は、橋上への忠誠を、自らの延命と引き換えに誓うだろう。少年の言葉が嘘では無いことは、近日中に、班長達は思い知るだろう。その時に、改めて班長達は、真の意味で驚愕するのだ。少年が、『調教師』であることに。最早、手遅れといわざるを得ないほど、班長達は、この議場に少年が入ってくる以前から、この報告書が届けられる前には、少年の存在を知った時から、少年の手中に、術中に落ちていた。

 度重なる偉業への嫉妬とそれに伴う払拭しがたい疑惑。班長達の頭から、少年の名が消えることはなかった。それが、深層へと刻まれるまで、少年は班長達を軽く揺さぶりながら待った。顔ぶれが多少変わろうと、少年が標的にしていたのは、新垣と的場だ。軍人馬鹿を素でいく二人を、橋上に牙を剥こうとする心奥を、絶望的に破壊し、少年に、そして橋上に、上辺だけではない、心底の畏怖をもって頭を垂れさせようとした。その策略は、見事に成功した。新垣も的場も、この先、少年を前にして、あの様な発言はしなくなるだろう。何より、妹川を軽んじるような態度を見せなくなるに違いない。

 三岡も妹川も、橋上同様、七晩(しちかげ)派と呼ばれる、副総長の派閥に属する将官であり佐官だ。第一部の兵員の中にも、意を共にするものは多くいる。七晩中将は、参謀本部内では総長と双肩を担う存在であり、穏健派の中心人物でもある。総長は立場上は中立を保たねばならないため、陸軍内における上部部会においては、七晩中将が矢面に立つ形になる。もう一名の副総長である内田中将は、戦争推進の強硬派の先鋒であり、常に意見は対立する。現状は、穏健派が勝っているが、それもこれも、総長の意志が極めて固く、また、この情況において我が国が戦争に至る特段の理由、及び、世界情勢には無いと結論づけるからだ。少年が提示する情報だけではなく、第一部の情報班が報告してくる各国の様子を見る限り、大海を越えて侵犯してくる気配も、また、国内に潜む諜報員の通信傍受の内容からしても、他国が我が国を陥れようと策謀する気配のいずれも無い。どの国も、帝国の動きに戦々恐々としている。そうして各国から監視され、恐れられている帝国でさえ、隣国への侵攻に苦慮している状況下で、我が身の勲章と私欲を増やしたいがために先走った行動を起こすのは、連合国側に国際会議で糾弾させるための餌を与え、付け入る隙を与える愚行以外の何ものでもない。その様な誤謬を選択し、国を危うくさせる必要がどこにあるというのか。

 ありはしない。

 だからこそ、少年は、狙っているのだ。

 その愚を選択する人間が藪から顔を出し、声高に、戦争を! と叫ぶ瞬間を。

 その者共の頭を一斉に、一族郎党全ての命を狩り取るために。

「妹川大佐。医務室へ連絡し、彼等を介抱するように指示してくれ」

「は。すぐに、伝えてまいります」

 橋上は、幾ばくか戻ってきた体の’自由’に息をつくと、妹川にそう言ってから、頭の中で思ったことを振り払う様に、手元の資料へ目をやった。

 走り書きされた数字の羅列が、橋上の胸を再び震わせる。

 経過日数ではあるが、少年に問えば、その暴風雪が帝国を襲う時間まで正確に告げてくれるだろう。

 まさに、神の声。

 『死神』であっても、神の名を持つものであることに代わりはない。

 神が、その口を借りて、橋上達に言うのだ。

 「偉大なるものの名を呼び讃えよ。さすれば、御業による至幸をもたらされん」

 少年が告げる未来は、違えない。神には、その先の全てが見えているのだ。

 橋上達がどうなるのかも、軍がどうなるのかも、国民がどうなるのかも、この国が、どうなるのかも、世界が、どうなってしまうのかも。

 そして当然に、少年の「大切な御方」が、仲間達が、どうなっていくのかも。

 平然としている顔の向こう側は、先ほど垣間見せた苦渋に満ちているのかもしれない。それでも少年は、始終あの調子で、軍人を為政者を帝国を世界を、嘲り笑う。

 どうなろうと、僕は困りはしないのですが、と。

 橋上は、完全には抜けていない気怠さを資料と共に持ち上げて、椅子を立った。

 三岡に、後を頼むと言い、腰を抜かしている秘書官には、休んでいろと声をかけると、自ら扉を開け部屋を後にした。

 少年が通っていったであろう廊下を反対に向かって歩きながら、橋上は、いつか来る厄災に備え、身の回りを密に整えておくべきだと真剣に考えていた。






弐へ続く