SeigiDeuxZaidin

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第4章 前編(壱*弐*参*肆*伍)

蜩が煩いほどに鳴く、蒸し暑い夏の午後。普段の無愛想な彼にしては珍しい笑顔で、私の隣でコンビニで買った棒アイスを貪っていた。美味しいかと尋ねると、首を縦に振って嬉しそうな顔をする。あまりにも美味しそうに食べるので、彼と同じアイスを私も頬張る。冷たくて、甘くて、爽やかで美味しい。でも何より一番このアイスを美味しくしているのは、彼と共に過ごす時間が自分にとって幸せだと感じるこの気持ちなのだと思う。この時間さえあれば、私は何が起こっても私でいられるのだと、そう感じた。暑いねとアイスを食べ終わった彼が服をパタパタしながら空を見上げる。私も真似して空を見上げる。一番日が照りつけて暑いこの時間の空は、真っ青で、入道雲が勢いよく青を翔けている。さっきまで煩いと思っていた蜩が、今度はこの場所を映えさせる音楽のように感じられた。暫く私たちは空を見上げていたように思う。少しだけ夏が好きになった。手を、つなぐ。彼はおもむろに私の手をひいて、炎天下を歩き出した。あれ、そっちは。家と逆方向だよ、不安になった私はそう伝えると、楽しそうだった彼の顔は真顔で。手を握る力を強めて放った言葉は__


「逃げよう」


*


彼女ははっと目を覚ます。いつもと変わらない天井を見て、朝が来たのだと悟った。目を開けたまま、天井をじっと見ている。驚いたように目をぱちぱちする彼女の目から、一筋の涙が零れていた。暫く虚空を見つめていた彼女は、涙を拭って「起きなきゃ」と立ち上がって、部屋を出ていった。


*


いつもと変わらない朝が来る。多少の違いと言えば、普段なら一ノ瀬とカナの分だけ朝食を作っていたのが本町と緋龍院の分も含めて4人前になったことであった。量が増えたことで当然朝食の準備の時間が増える。少しだけ忙しくなったカナであったが、どうやらそんなに嫌ではなさそうであった。

「おお、おはようカナ! 凄いな、あんたはいつもこんな早起きなのか? ……そういえば、俺が朝早く押しかけた時も出たのはカナだったな」

朝一番に顔を出したのは本町であった。本来ならバイトがあるらしいが、今日は丁度休みだったらしい。しかし、普段朝の早い時間からバイトに出る癖は抜けないのか休日の日も早く起きてしまうという。すっかり朝の面子はこの2人、とお決まりになってしまった。

「……おはよう。春路こそ、休みくらい朝はゆっくりすればいいのに」

リビングが見渡せる配置のキッチンから、テーブルに腰を掛けた春路に卵を割りながらカナが話しかける。その声は幾分か眠そうに聞こえた。

「はは、まあ早起きは三文の徳って言うだろ」

春路もまた、目が覚め切っていないのか大きな欠伸をしていた。割った卵をボウルに入れて、牛乳と塩を少量入れた後、カナは手際よくそれを泡立て器で掻き混ぜていく。フライパンを温める間に、沸かしておいたお湯をティーポットとカップに注ぎ、フライパンが温まり切った頃合を見てバターを入れ、そこに先程混ぜた卵液を入れる。卵の底が固まってきた所をヘラですくい上げるようにして混ぜる。それを何度か繰り返すと、ふわふわとろとろのスクランブルエッグが出来上がった。出来たスクランブルエッグを皿にのせ、冷ます。冷ましている間にお湯を再度沸かし、別の小さなフライパンに油を引き、ウィンナーを転がして香ばしく焼き上げる。トースターに2枚ずつパンを入れ、4枚焼き上がるとその上にバターをのせていく。レタスを取り出し、小さめに分ける。分けたレタスを皿に盛り付け、ウィンナー、スクランブルエッグ、の順に綺麗に盛り付けていく。お湯が沸騰したのを見計らって、先程のポットとカップのお湯を捨て、茶葉を入れる。手早く熱湯をポットに注ぎ込み、直ぐに蓋をする。紅茶を蒸す間に、小さい鍋に牛乳をカップ1杯分注ぎ、弱火で温める。時計に目をやると、5時57分をさしていた。ほっとここで一息をついたカナは本町にじっと凝視されているのに気づいた。

「凄いなカナ……手際良すぎて俺のとこのカフェのバイト来ないかってくらいだ」

素直な感嘆の声にカナはそっぽを向く。どういう反応をして良いかわからないのか、フードを深く被りこみ顔を隠した。遅れて小さな声で「それは……遠慮する」とボソボソ聞こえる。本町はにっこりとして「運ぶの手伝うよ」と腰を上げてキッチンの方まで来た。出来上がったトーストとスクランブルエッグの皿を4人分、テーブルに本町が運ぶ。カフェのバイトをしていると公言した通り、本町の運び方があまりにもカフェの店員だったのでカナも「おお」と小さく感嘆の声をあげた。

「くあぁ、おはようおめぇら」

「普段ならもう少し早く起きるんだが……すまない、おはよう」

朝食のいい匂いにつられたのであろう残りの2人もリビングに下りてきた。既に並べられた朝食を見るなり緋龍院は目を丸くして「美味しそう……」と零す。一ノ瀬も「今日はスクランブルエッグか!」と嬉しそうに椅子に座る。時計は丁度、6時きっかりをさしていた。頃合いだと言わんばかりにポットの蓋を開け、スプーンで軽く混ぜたあと、茶漉しでこしながらカップに紅茶を最後の一滴まで入れていく。牛乳も温まりきったところで火を消し、カップにゆっくりと注ぐ。4人分のカップをトレーにのせて、テーブルまで運ぶ。全員の前にカップが行き渡ったところで、カナも席に着く。カナが一ノ瀬に目配せをすると、一ノ瀬は大きく手を合わせた。カナもそれに続いて手を合わせ、真似るようにして本町と緋龍院も手を合わせる。

「いただきます」

声を合わせてそういった後、全員が朝食を口に運ぶ。一口食べると、その場の全員が柔らかい表情になった。美味しい、と全員が笑顔になる。カナはまたフードを深く被り、小さく「ありがとう」と零した。人が増え、以前より賑やかになった朝の食卓は新鮮であった。おもむろに一ノ瀬がテレビをつける。

『今朝、Y路地のゴミ処理場にて変死体が発見されました』

ニュースキャスターの言葉にその場の全員がテレビに目を向ける。

「変死体……か」

「先週も確かあったな、変死体」

事件が次々と起こるアイゼアにおいて、殺人事件は今更であるが、それはいつも一発で殺されるような、言い方を変えると後味が良いようなものばかりだった。だからこそ、後味の悪い変死体のニュースに4人は違和感を感じる。変死体の様子は、刺された箇所から腐食するように身体が腐り、まるで人間の原型を止めていないような形をしているという。

「Criminalにそんなこと出来るやついたっけか」

「今のところのCriminal加入員では、そのような能力を持つ人間はいないかと」

カナの端末からIrisがデータを確認しながら一ノ瀬にそう伝える。「後日犯人がCriminalに入る可能性もあるってことだな~」と面倒くさそうに一ノ瀬は項垂れる。全員が朝食を食べ終えた頃、玄関からコンコン、とドアを叩く音がした。カナが素早く気づいて玄関に向かい、ドアを開ける。すると、ドアの前に立っていたクリーム色の髪色をした、カナより少しだけ背が小さい少女がぱああと笑顔になった。

「すみません~! Rightの基地というのはここであってますか~!」


*


「わたし、アリシアって言います! アリーって呼んでくださ~い!」

先程訪れたクリーム色の髪をした少女はすっかりRightに馴染んでいた。出会って五分もまもなかった。早い、馴染むのが早すぎる、というツッコミをする間もなくアリシアと名乗った少女はRightに溶け込んでいた。しかし、丁度場を明るく盛り上げてくれる人間が足りないと思っていた頃合であったため、アリシアの存在はRightにとって今一番必要な種類の人間である。ファミリーは幾らいてもいい、寧ろ多い方がいいという一ノ瀬の歓迎もあり、すぐメンバー表に名を追加され、本町や緋龍院の時ほどの質問攻めは行われなかった。最早、最初からRightに居たのではないかというくらいに馴染んでいる。

「ここに来た理由ですか~? 悪人を捕まえる組織、カッコイイじゃないですか! わたし、ずっと正義のヒーロー夢見てたんで持ってこいだと思ったんです~!」

このように加入理由もさっぱりと純粋であり、四人はすぐに好感を持てたのである。加えて、アリシアは全員のことを一人一人の「カッコイイ!」部分を目を輝かせて語ったため、好感度マックスの新メンバーなのであった。

「ん、今外で何か聞こえなかった……?」

新メンバーの加入に浮かれた空気が漂う中、カナが何かの音を聞く。

「そういやあ、俺も何か聞こえたぜ~。硝子が割れるような感じか~? 聞き間違いでは無さそうだな」

一ノ瀬も同じ音が聞こえていたようで、その場の全員が窓の方を見る。瞬時、黒い影が窓の外を横切った。一ノ瀬がガタッと立ち上がる。

「追うぞ。ありゃあ、どっちかてとCriminal側だぜ」

「特徴を少しでも把握できればそれを元に追跡します。至急にお願いします」

Irisがパッとカナの携帯の中で電子の窓を広げる。早くしろ、と言わんばかりの目で画面の外に向かって圧をかけた。

「よーと春路とアリーはこの周辺を徘徊しろ。俺とカナとIrisはあの影を追う。何かあれば連絡しろ」

一ノ瀬はそれだけ言うと、カナに「行くぜ」と目配せをして外に駆け出す。それに続いて本町も「俺らも取り敢えず出るぞ!」と残りのメンバーを連れて外に出た。


*


薄暗い路地裏に散らかったゴミ箱を背にしてその青年は立っていた。片手にはナイフが握られており、滅紫色の液体がぽたぽたと音をたてて滴っている。青年は放心したように無表情で空を仰ぎ見ていた。

何分か経ったのだろうか。青年は何かを思い出したようにはっと見上げていた首をおろすと、眼下に見えるモノをじぃと見つめる。朱殷の海がそこには出来ていた。

「……俺は」

青年はゆっくりと口を開いた。片手に握るナイフに目をやる。

「__俺は誰なんだ」

コツコツと乾いた足音をたてて青年の視線のある先から誰かが近付いてくる。片手に銃を持っていることが青年からも確認できた。どうやらその銃口は既に青年に向いている。ゆっくりとそれは近づいてきて、青年まであと二、三メートルのところで足を止めた。

「……あんたは俺を殺すのか」

青年は虚ろな目でその人物を見る。

「__いいや。そうじゃない」

逆光で上手くその人物の顔は見えなかったが、それでもしっかりと青年にはその人物が口角を上げて不敵な笑みをしたのが見えた。

「君の記憶探しを__手伝ってあげようと思ってね」


*


「彼方、また新しい仲間を連れてきたのか? 嗅ぎ覚えのないにおいがするぞ」

アンナはスンスンと鼻を鳴らし、先程ドアを開け帰還した京と、京とほぼ同じ身長の青年のにおいを嗅ぎ分けた。鳴瀬は被検体探しに外出しており、基地に残っていたのはエレミーとアンナだけであった。エレミーはアンナの嗅ぎ分けに感心しており、「ほんとに匂いでわかるんだね」と感嘆の声を上げている。

「そう、彼は僕らの新しい同盟者だ。僕らが記憶探しを手伝うとの条件付きで同盟を受け入れてくれた」

青年はゆっくりと基地を見回して、アンナとエレミーにも目をやってから一呼吸置くと軽くお辞儀をした。

「よろしく。訳あって記憶喪失だ。だから名前も自分の歳も何もかも覚えていない……記憶探しを手伝ってくれるのはとても助かる」

京はチラッと横の青年に目をやってからふむ、と考える素振りをする。少し考えて思いついたように「あ」と声を出すと青年の方に向き直った。

「シアン」

「ん?」

「君の名だよ。名前が無いのは非常にコミュニケーションが取りにくいからね。仮名としてシアン。どうだい?」

「由来は君の髪の色だ」と京は青年の髪の毛を指差して笑う。青年もどうやら納得したようで「いいな、それ!」と二つ返事で承諾した。

「さてシアン、君のしたことについて彼処では詳しく聞けなかったことを聞きたい」

まあそこに座りなよ、というふうに雑に置かれたパイプ椅子を指さす。京はいつも自分が座っている定位置について被っていた学生帽を脱いだ。シアンも促された通りパイプ椅子に腰をかける。アンナとエレミーも興味津々にすぐ近くに寄ってきて座り、まるで生徒が授業を受けるような配置になった。

「君は既に人を幾らか殺している、その自覚はあるかい?」

ビクリとシアンが肩を揺らす。

「確かに、何かを刺した記憶は残ってる。それが人だったかは覚えてないけど」

京はシアンの腰辺りに目をやる。

「そう言えば、路地裏で君を見つけた時、ナイフを持っていたようだけど。それは元々持っていたのかい?」

シアンはしまっていたナイフを取り出し「これのことか?」と掲げる。「そう、それ」と京は頷く。シアンはナイフを凝視した。すると、京と出会った時にナイフから滴っていた滅紫色の液体が再度ナイフから溢れるようにゆっくりと出てきた。「ほう」と京は目を細めて興味深そうにそのナイフを見る。

「記憶が無いと自覚した時からこのナイフは俺の手にあった。多分、記憶がある時から使ってたモノだと思う。俺が意識すればこうして毒が溢れ出てくる不思議なナイフだ」

「……成程、やっぱりその液体は毒だったか。僕の読み通りだよ。それに唯の毒じゃあない、一刺しで生物の形を変えて即死にさせる猛毒の類だ」

京は心底楽しいというように笑みを見せる。

「シアン。君のそのナイフはきっと能力添加されている、しかも大分強力だ」

シアンはよくわからないというような顔でナイフをまた見る。記憶喪失の自分がそれを持っていたとして、どうしてこれだけ使える術を覚えているのだろうか__等の思考がシアンの頭をよぎった。

「大体は読めた。……そうだね、君は」



「記憶を取り戻す為に、人を殺さなきゃなのかもしれない」


*


シアンは今、意識の元で初めて人を殺した。いや、厳密に言えばこの「シアン」という型を自分に付けてもらってから初めてした殺人だった。故に、故に。今少しだけ、焦っているのである。虚ろいながらさ迷っていた数時間前の自分とは一体本当に自分であったのか。そう思う程に、殺人を犯した瞬間のなんとも形容し難い恐怖がシアンの思考を埋め尽くしていたのだ。

(ほんとにこれが記憶を取り戻す手掛かりになるのか……!?)

その場に突っ立っている事も出来ずに、唯罪の意識に目を背けることしか今のシアンには出来なかった。己が手をかけた死体を見るのも辛かったのか全速力で走りだす。死体を放置した場所は幸いにも上手く隠れているが、この街であればそう長くない時間で見つけられてしまうだろう。京によれば、今は兎に角、シアンは人を殺して回ることが1番の最善だと言う。シアンもそれに従った。記憶のない空っぽの自分は嫌だったからである。思いっきり走ったからか、シアンの息が上がる。この位まで走れば大丈夫だろうかというところでシアンは走っていた速度を下げ、ふとした自分の記憶の変化に気付いた。

「俺はこの毒刃を、誰かから貰った……?」

先程まで最初からずっと自分が持っていたと信じて止まなかったこの自らのナイフを誰かから貰ったという記憶。その「誰か」はまるで霞がかかったように思い出せないが、その「貰った」という事実を思い出したのはやはりさっきの人殺しの影響だろうか。

(誰が、何のために?)

殺人後の恐怖よりも今頭にぽつんと浮かんだこの記憶の考察でシアンの思考が支配されていく。誰が何のために、こんな危険な凶器を自分に渡したのか。自分は一体どんな境遇にいたのか。更によくわからなくなった。これも、殺人を重ねればわかる事なのだろうか、と頭を悩ませる。


__ヒトゴロシは悪いことだ、ヒトゴロシは犯罪だ。


またしても、シアンの中の遠い記憶が自らに訴える。

(ヒトゴロシは悪いこと……)

自らの声に心の中で復唱する。ヒトゴロシ、人殺し。これは先程から自分が犯している罪の事だろうか。「悪いこと」という概念にもうっすらと霞がかかっているシアンには、首を傾げる以外の術がなかった。「ヒトゴロシ」をするのは「ワルイコト」。シアンの脳裏にそんな言葉が刻みつけられる。

(彼方に聞いてみるしかわからなそうだ)

それはまるで幼子のような、純粋な疑問だった。それは「ワルイコト」なのか。自分がやっていることは「ヒトゴロシ」なのか。「帰ったら彼方達に聞こう」と思い立ってふらふらと自らが歩いてきた方向に踵を返した。

「よぉ、おめぇが変死体の犯人だな?」

ゆら、と高めの影が数メートル先に漂う。少し先にそれよりも小さめな小柄な影も見えた。一ノ瀬とカナだった。

「……? ああ、それは俺も聞こうと思ってたんだ」

まるで困ったような顔をしてシアンは一ノ瀬の会話に応じる。

「は? おめぇもしかして無自覚なのか」

あからさまに疑問の意を浮かべたシアンに一ノ瀬は不愉快そうに対話を続ける。

「自覚は……ああ、そうか。ここからわからないんだな、これも聞かないと」

意味のわからない納得をするシアンに対話の成立無しと見て一ノ瀬はすかさずシアン目掛けて殴り込む。この距離ならば武術に長けている一ノ瀬が外すはずもなく、常人ならばこれを食らえば一発KOである。感覚的にも仕留めたはずだった。だが、仕留めたはずのシアンはいつの間にか一ノ瀬の後ろに回っており、何食わぬ顔をしてまだぶつぶつと独り言を呟いている。一発目で仕留められなきゃ次もやりゃあいいと、一ノ瀬はすかさず自らの背後に回ったシアンに再度殴り込むが、それもまた、いとも容易くシアンは交わしてみせた。カチンときた一ノ瀬は何度か殴り込むも全て交わされてしまう。それどころか交わしてる最中にさえシアンはハッとしたような顔をしてシアンが向いていた方向に走り出した。

「すまん、今あんたらの遊びに付き合ってる余裕は無いんだ。すぐ戻るよう言われてたからな、遊びならまた今度頼む!」

空いた口が塞がらないとはこの事である。彼は自らが断罪されるかもしれないこの状況を「遊び」と評してみせた。挙句、一度も一ノ瀬の殴り込みも受けなければ、その後追おうとしたカナに対しても「また今度にしてくれ!」と振り切って疾風のようにこの場を去っていった。流石の一ノ瀬とカナであっても今起きた状況に頭が追いつかないでいる。

「おい……ありゃなんだ」

「……ごめん。あまりにも緊迫感がないから、追いかける気にもなれなかった」

2人して頭を抱える。どんな罪人にもひるまなそうな2人であるが、予想の斜め上を行き過ぎたのであった。怖くないどころか敵意さえ感じない。先程対峙した男は違う意味で最も恐ろしい罪人であった。

「何してるんですか。仮にもリーダーと第一の加入者であろう方々が、あんな簡単な獲物を逃すなど」

機械的な冷たい声ではあるが、文面的に叱られていることはわかる。対峙しておきながら敵をみすみすと逃したRightの幹部とも呼べるべき2人にIrisは然るべき怒気を向けていた。

「悪ぃ……次はぜってぇ逃さないからよ。にしても、なんかアイツ見覚えあるような気がするんだよな……」

「皐月の知り合い……?」

「いや、気の所為かもなぁ」と頭をかいてそれ以上は興味ない、というようにだらだらと歩いていく。Irisは不機嫌そうな顔をしたが、それ以上は言及しなかった。一ノ瀬を追いながら、カナは本町達にも状況を知らせるべきだとみて、履歴の1番上にあった本町に連絡を入れる。2コールで本町は通話に応答した。カナは手短に先程起こった事を本町に話す。

「そうか……それは相当捕まえるのが難しそうなヤツだな。了解した、暫く周辺を巡回したら一度リーダーの家に戻ることにする」

要件をきっちり伝えて「了承」とだけ言うとカナは通話を切った。一ノ瀬は相変わらず何も言わずだらだら歩いている。一ノ瀬も本気ではなかったとはいえさっきの男に軽く弄ばれたのだ。流石に頭にきてても可笑しくはない。暫くの無言の時間を過ごし、ふと前を歩いていた一ノ瀬が立ち止まった。瞬間、こめかみを手で抑えるようにして呻き声のような声を出す。

「あ~~、こりゃめんどくせぇな」