彼女は"自身"を殺す【坂口安吾】

宇鷺林檎
@RingoUsagi1020

一話


 坂口は、途端に慌て始めた。とんでもない言葉を口にしてしまった、と。

 即座に撤回しようとして、慌てて顔を上げた。

 

 然し。

「……そう。

じゃあ、仕方ないな。

今までワガママばっかでごめん。

仕事は、今まで通り受けるから。

じゃーな」

「実乃……」伸ばした手は。

「……さよなら」

 彼女の影すら掴めなかった。

 はく丶丶と虚空を握る手は、酷く震えていた。


 ビジネスには、何も影響しない。彼女は、仕事に関しては今まで通りだ、といった。

 そうはわかっても。

 否。

わかっているのに。

 どっ、どっ、どっ。と、心拍まで乱れている。どうしてこうも、取り乱しているのだろう。

 彼は、自分が自分でないような気分になって、途端に頭を抱えてカフェの机に肘をついた。


「……う……」

 喉がブルブル震え、歯がかちかち鳴る。

 ひっくと喉が動いて、一つ、大きくしゃくりあげた。


 俯いた視界に、ぽたりと雫が滴る。

 後悔と憎しみが溶けた涙だった。

 本心でもないことを口走ったことへの後悔と、そんな自分への憎しみが。


「…………僕は、

どうしてこんな事――」






―雨

 あれから、坂口が正気を取り戻し、喫茶を出たのは数十分後のことだった。

 その頃にはもう天気が崩れて、大雨が地を叩いていた。

 まさかこんなことになるなんて、砂糖一粒たりとも想定していなかった彼に、傘なんぞ持っている筈もなく。


――予想以上に時間がかかってしまった。

……早く、帰らないとな。


 朦朧としたまま、それだけを頭に置いて、とぼりとぼり歩く。

 果暮カクレがいつも通り、書類をチャック付きのビニール袋に入れておいてくれて、本当に良かったと思った。

――けれど、その優しさも、もしかすると今日ぽっきりなのかもしれない。

 そう思ってしまうと、引っ込んだ涙がまた、溢れてくる。


(……あんなこと、

どうして口走ってしまったんだろう)

 どんなに雨に打たれても、果暮のことしか彼は考えられなかった。


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