お道化うた

死にたまえ。(太宰)

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 夢を見て、目が覚めた。何の夢だったのかは定かでは無いものの、異様な夢だったように思う。薄暗い室内。簡素な寝台の上。柔らかな布団の中で知らず荒くなっていた呼吸を整えて、漸く其処で違和感に気付いた。

 はて、この部屋の主は何処に行ったのだろうか。


「太宰さん」


 名を呼んでみる。返事は無い。

 確かに、彼と居た筈である。そもそも此処は彼の住まう部屋なのだから居ないと云うのも可笑しな話。柔らかな日差しに当たりながら取り留めの無い会話に花を咲かせていたら何時の間にやら眠っていたらしい私を、律儀に寝台へと運んだのは誰でもない太宰さんであろう。

 しかし当の本人の姿が見当たらない。何時迄も起きない私を放って、暇潰しに相棒でもある彼の元に嫌がらせにでも行ったのだろうか。

 一つ欠伸を零してそっと毛布から這い出た。一先ず携帯電話で彼に連絡を取ってみよう。そう考えて携帯電話の置かれた卓上に歩み寄ったその時。


 ひやり。

 足袋越しに何か冷たい物に触れた。じわじわと侵食するように爪先から踵までを冷やしていくその感覚に、それが何か、液体であると云う事に気付くのに然程時間は掛からなかった。

 そうして、それが液体であると理解した途端、ぞわりと得体の知れない何かが背筋を這い回り、血の気が引いた。指先の体温が奪われ、徐々に感覚が無くなっていくような気がする。何故か、喉がカラカラに渇いて仕方が無い。


「…太宰、さん…?」


 言い知れぬ恐怖に喉が貼り付いて声が掠れる。シン、と静まり返った部屋の中は依然、自分以外の気配は無い。

 ぴちゃり。一歩足を踏み出して水溜まりを踏む。これ以上進んでは駄目だと本能が警鐘を鳴らした。ぴちゃり。これ以上は危ない。


「だ、ざい、さん」


 名前を呼んだ。視線の先。床に倒れ伏す彼はピクリともしない。力が入らず床に膝を着けば、ばちゃりと辺りにその液体が飛び散る。よく見るとそれは赤かった。ひゅっ、と空気が喉を通って、ゆっくりと目の前の彼に手を伸ばした。


「だざいさん、太宰さん、ねぇ太宰さん、起きて下さい、ねぇ」


 呼び掛けて揺すってみれども反応は無い。力無く横たわる彼の顔に生気は無く、体は異様な程に冷たかった。

 如何して。何故。じわりと滲む視界で捉えたのは、彼の手首と首筋に残る数本の線。


「…嫌です、そんな、だって、何時も失敗していたじゃないですか」


 自殺に成功するのでは無く自殺未遂に失敗すれば良いのだと、それに気付いてからは自殺未遂ばかりしているのだと、そう笑って居たのは貴方でしょう?それでもことごとく自殺未遂に成功していたのは貴方でしょう?


「やだ、起きて、ねぇ、太宰さん、起きて、私、太宰さんが居ないと嫌です、起きて下さい、目を開けて、どうせ趣味の悪い仕込みなんでしょう?太宰さん、」


 はらはらと零れて落ちていく涙を拭う余裕も無く、ただただ彼の体を揺すぶった。如何して、何故こんなにも冷たいの。


「ねぇ…起きて、ください…お願い、嫌だ、太宰さん…っ」


 嗚咽が零れて上手く呼吸が出来ない。しゃくり上げてしまっては彼を呼ぶ事が出来ない。それでも、もう、駄目なのだ。


「…私を独りに…っ、置いて逝かないで…!」



 絶望しか見えない。
























 ハッとして気付いた。ああ、何て嫌な夢だろう。酷い夢だ。これを悪夢と呼ばずして何を悪夢と云うのか。はぁ、と溜め息を吐いて起き上がる。見慣れた室内だった。遮光布の隙間から漏れる光に今は何時だろうかと何とも無しに考えて、ふと彼女が居ない事に気付く。


「千景?」


 静まり返った部屋に自分の声が響くだけで返事は無かった。上司に喚び出されたのか。それとも買い物にでも行ったのだろうか。だとしたら起こして呉れれば佳いのに薄情だな、なんてぶつくさと口の中で不満を並べて重い腰を上げる。仕方無い。それならば買い物帰りの彼女を捕まえに行こうではないか。そう結論付けて寝台から降り立ち踏み出した足に、ぴちゃりと何か冷たい物が触れた。

 既視感。そして不快感と恐怖が背中を這い回る。何処かで似たような事に遭った気がするのだけど、其れは一体何処でだったか。


「…千景…?」


 もう一度、不安を掻き消すように呼んでみるものの、矢張り返事は無い。如何したら良いんだろうか。だって、これではまるで、何かが在ると云っている様なものだ。


 こつり。足下に転がる物に爪先が触れて、気が狂うのではないかと思った。


「千景、」


 ひたりと、冷たい水の中に横たわる彼女の頬にそっと指先を這わせる。ああ、酷く冷たい。まるで陶器の人形の様だ。


「ねえ千景、こんな所で寝ていたら風邪を引くよ?きちんと寝台で寝ないと」


 いつも彼女を起こす時と同じ様にぺちぺちと頬を叩いてみる。いつものように彼女の長い睫毛が震える事は無く、ただただ静かに彼女は目を閉じたまま。


「…千景、起きなさい、ねえ、起きるんだ千景」


 千景、と続けて呼んだその声は酷く震えていて、しっかりとした言葉にはならなかった。はらりと、瞳から零れ落ちた水滴が彼女の頬に落ちる。


「ふふ、笑えない冗談は止めようか、どうせこの首の傷だって、手首のこれだって、細工なんだろう?」


 笑いながらそこに指先を滑らせた。ぬるりと、厭な感触がして息を呑む。ああ、何だってこんな事になってしまったのか。如何して君なのか。


「…千景、君は、何て非道いんだろうね」


 もう笑う事すら出来ない。嗚咽と共に絞り出す自分の声が、伽藍とした室内に霧散していく。


「私を置いて独りで逝くだなんて、非道すぎるじゃないか…っ」


 口付けた唇から、冷たさが侵食していくような気がした。


























 視線の先に広がるのは、薄暗い、見慣れた天井だった。何か、非情に疲れる夢を見ていた様に思う。どんな夢だったか。ぐらぐらと揺れる頭に手を遣りながら上体を起こしてはたと気付く。部屋の中が静かだ。静か過ぎる程に静かだ。それに気付いた瞬間、何故だか喉が渇いて仕方が無かった。「太宰さん…?」と蚊の鳴く様な声で名前を呼ぶ。返事が無くて仕方無しに寝転がっていた寝台から足を下ろして硬い床の上を歩いた。

 ぴちゃり。冷たい何かが足先から伝わって、既視感。



「太宰、さん」



 呼んだそれに返事は無い。




150607

死ぬことだけは、待って呉れないか。

僕のために。

君が自殺をしたなら、僕は、

ああ僕へのいやがらせだな、とひそかに自惚れる。

それでよかったら、死にたまえ。

『ダス・ゲマイネ/太宰治』