春昼

 もちろん盗み聞きなんてするつもりはなかった。そもそもが、すぐに忘れてしまう程度のささいな事故だったのだ。

 妙に耳に焼き付いてしまったのは、その名を呼ぶ主の声が一度も聞いたことのない響きを帯びていたからだ……と、あとになって思い返せば頷けた。


 本丸から書庫へのおつかいを言い渡されたのは、あるのどかな春の午後だった。

 もとからの主の蔵書に、審神者のつとめを果たすうえで必要な資料。娯楽のための読本から学術書に至るまで、集められた書籍は相当の量にのぼり、小さな蔵をひとつ占領している。

 その中から、続きものの歴史小説をひとそろい持ってきてほしいと頼まれた。教えられた題名を頼りに探し出したはいいが、まさか20冊にも及ぶ長編とは思わなかった。

 とりあえず全部手元に置きたいとのリクエストに応えるべく全巻をそろえたまではよかったものの、このまま抱えて持ち帰るわけにもいかないとはたと気付く。途中で落としでもしたら一大事だし、そもそも山のような書物を抱えたまま長い廊下を歩いて戻るなんて、とてもじゃないが格好いいとはいえない。

 まとめて運ぶのに適した風呂敷か籠でもないかと探し回っている最中に短刀たちの鬼ごっこに巻き込まれ、畑当番から農具を洗う手伝いをたのまれ、そうこうしているうちに小半時ちかくが過ぎていた。


 梅の花の咲き始めた春の一日である。

 桃や桜の満開には遠いけれど、今日はずいぶんと暖かな日が差している。耳をすませば鳥の声と、手合わせをする刀剣たちの裂帛の気合いがどこかから響いてくる。

 そのほかにはこれといって騒がしいこともない、実にのんびりとした真昼の本丸。遡行軍との戦とは別天地のように平和な城の中を、できれば何の気がかりもなく歩いていたかった。

「……参ったな」

 微笑を絶やさぬ主といえど、さすがにこれだけ遅くなってしまってはお叱りは逃れられまい、そう考えるとなかなか気は晴れない。

 何がゆううつかと問われれば主を待たせたこと、そして与えられた役目を滞りなくこなせなかったことに尽きる。近侍としてこんなに格好悪いことがあるだろうかとどんより曇りそうな表情を引き締め、せめてさわやかな態度だけは保たねばと覚悟を決めて障子を開けた。

「ただいま。ごめんね、すっかり遅くなっちゃって」


 ところが。

 出迎えは当然として、叱責の声すら飛んでは来なかった。

 明るい室内にそろそろと足を踏み入れれば視界に飛び込んでくるのは、おつかいに出た時と同じ窓辺の長椅子に身を預けた主の姿。

 出がけと違っていることがひとつある。春先の庭の眺めを楽しんでいた主は、今は南洋の島々に育つ蔓で編まれた背もたれによりかかり、目を閉じてかすかな寝息を立てていた。

「あぁ、寝ちゃったんだね……待たせ過ぎたのは僕だし、しょうがないか」

 風呂敷ふたつぶんの荷物を文机の横に下ろし、やってしまったと嘆息する。

 本当ならば自分はとっくに戻っていなければならないし、無聊を慰めるための話し相手だってつとめるべきだったのに。

 うららかな日差しの差し込む窓辺に、眠気を誘う絶好の日和。

 日々かいがいしく刀剣男士らの世話を焼いて過ごす疲れもたまっていたのだろう。

 陽気はすっかり春らしくなったけれど、体を冷やしてしまってはいけない。

 文机の前の座椅子の背に羽織らせていた打掛をとり、着せかけようと身を屈めた時、主は唐突にその名をつぶやいた。


「……―――」


「え?」

 一秒にも満たない短い呼びかけに手が止まる。


 わずかな音の連なりに、いかづちに打たれたような衝撃を受ける。

 くちびるからこぼれたのは、聞きおぼえのない男性の名前だった。


 この城にいる刀剣男士の誰でもなく、記憶にある限りの刀匠の中にもない名前。

 おそらくは現世の、彼女にとって近しい人物の名前。


 ことさらに耳に付いたのは、あるいはその名前が呼び捨てにされたためであったかもしれない。

 育ちのせいか性分なのか、主はどんなに武張った刀剣がやってきても穏やかな笑みとくん付けを欠かしたことがない。そんな人物が知らない誰かを呼び捨てにしたことが、思いがけなく新鮮に響いた。

 この名前が主にとってどんな人物のものなのか、想像力がおのずと頭をもたげる。


 むにゃむにゃと意味を成さない声を漏らして身じろぎする主の、なんとも平和な寝顔を見下ろす。

 主君の私的な事情に首を突っ込むなど無礼千万と知りながら、微笑が漏れるのを禁じ得ない。

「……やっぱり、旦那様なのかな」

 刀剣男士たちの来歴や思い出話を聞きたがる一方で、主は自分の過去についてはほとんど口にしたことがない。たかだか60年くらいしか生きていないのにあなたがたの前でお話しすることなんてないわと笑い、それよりもあなたがたのことを教えてとねだるばかり。人間もそれだけ生きれば語ることは多いだろうに、聞き出そうとしてもはぐらかされて終わってしまう。

 それでも子どもがいたと聞いたことはあるから、もちろん伴侶だっていただろう。そのような相手だとしたら、呼び捨てることだって不思議ではない。

 あるいは生涯を添い遂げようと誓いながら、ついに結ばれずに終わった相手か。どちらにしても、春の午睡の夢での再会は主にとってもこのうえなく幸せなひとときに違いない。


 もの言わぬ一振りの刀だったころ、秘められた逢瀬を偶然目撃した経験はないでもない。だというのに、ひとの肉体を得てから初めて仕えた主の淡くおぼろげなロマンスはあまりにも思いがけない発見だった。

 主君の逢い引きをこの場でのぞき見てしまったかのような背徳感が背筋をぞわりと這い上ったその時、前触れもなしに主の瞼が開いた。

「あら、光忠くん」


「や、やぁ!」

 寝覚めの無心な瞳とまっこうから対峙し、声がかんだかく裏返る。

 ふぁぁ、とあくびをしながら上体を起こす主。

「ごめんなさいね、お使いに出しておきながら眠ってしまったみたい。いけないわねぇ、最近はこんなにいいお天気だとすぐに眠くなって」

「気にしないで。僕もちょっと時間をかけすぎたしね、待ちくたびれるのも当たり前だよ。

 そうそう、頼まれてた本は文机のところに置いてあるよ、持ってこようか」

 立て板に水で出てくるセリフは、我ながら実に白々しい。けれど、他にこの場を切りぬけられるやり方を知っているわけでもない。

 長椅子の上で姿勢を正した主のねぎらいの言葉が、言おうにも言えない秘密をかかえた後ろ暗さに油を注ぐ。

「あぁ、あとでゆっくり見せていただくわ、ありがとう。それはそうと、光忠くん」

「うん?」

 何か新しいお使いでも頼まれるのかと期待に前のめりになったとたん、強烈な一撃が飛んできた。

「さっきからどうしたの、そわそわしてちっとも私の顔を見てくれないじゃない。

 私がちょっと寝ている間に、何か言いづらい秘密でもできたの」

「え!?」

 図星である。目元を指先でこすりながら、寝ぼけた声で何とまた鋭い指摘をするものだ。

 これ以上ないほど言いづらい秘密を抱えていることを、けれども正直に告げるわけにはいかない。

「そ、そんなことはないよ!?嫌だなぁ、僕が主に隠し事なんてするわけがないじゃないか?」

 一番格好良く見える笑顔で迎え撃ったつもりが、まったく通用する気配がない。

「光忠くんがそんなにあたふたするなんて珍しいもの、ちゃんと理由を教えていただかないと気になってお仕事が手に付かないわ。

 あなたはご自分の失敗だって、いつも正直に話してくれるのに。お茶碗を割ってしまったとか、そんなことではないのでしょう?」

「それはそうだよ。こそこそ内緒にしてたって、どうせ君に見破られて格好悪い思いをするに決まってるしね」

 そう認めてしまった時点でもう、すなおに打ち明けるより他の逃げ場は失われていた。


「だから、そうだね……白状してしまうと、別に秘密ってほどじゃないんだよ」

 さてどこから告げればいいものかと、手探りで穏便な表現を継ぎ合わせながら切り出す。

 肩をすくめ、何でもないことだと強調する口ぶりを意識する。深刻に受け止めたわけじゃない、主が望むならすぐに忘れてしまうと伝えたかった。

「ただ、その……さっき君の口から、聞いてはいけないことを聞いてしまったんじゃないかって不安なだけなんだ」

「あぁ、なるほどねぇ。つまり、隠しておきたかったのは私の寝言というわけ」

 察しよく頷き、ほおづえをついた主はその先を促す。

「言われてみれば目が覚める直前、何か夢を見ていたような気もするわね。

 で、いったい何を口走ったのかしら、私は」

 いたずらっぽい口調で見上げられて続く言葉を見失う。

 すぐにわかってもらえたのは幸いでも、その先を突き詰められるといよいよ参ってしまう。

「いやぁ、口走るだなんてそんな!ちょっとびっくりしたけど、別におかしなことは何も言ってないよ」

「でもねぇ、あなたがそこまでお茶を濁そうとするなんて、よほどひどいセリフだったのでしょう。

 こちらにいらっしゃる誰かの悪口だったのかしらね、もしかして?」

「とんでもない!誰かを悪く言ってたとか、そんなことじゃないんだ」

 独り合点で進められそうな空気にはあわてて異議を挟む。


 ただの愚痴や陰口なら、心の中に収めて握りつぶしてしまうのに何のためらいもいらなかった。そうではない、主にとっての大切な名と感じたから、声に出すことすら躊躇してしまうのだ。

 どんな人物かは知らなくとも、あの名前が主にとって不快な相手であるはずはない。あんなにも暖かく、親しみを込めて呼びかけられた名前が。

「だったら別に、教えてくれたって構わないわよね」

 主はこともなげに言い放つ。ふだんなら勉強熱心に思えた無邪気な好奇心が、今回ばかりはいささか恨めしい。

「うーん、それはそうなんだけど……」

「もう、いい加減腹をくくりなさいな、光忠くん。主に問い詰められてこんなにしどろもどろになって、今のあなたは相当に格好悪いわよ」

 低く柔らかな笑いとともに指摘されているとおり、近侍としてこんなに格好悪いことはそうそうない。まったく触れずに済ませるか、さもなくば初めから潔くすべてを明かしてしまうか。どちらかを選ぶチャンスはあったはずなのに、第一手を誤ったつけは大きすぎた。

「そ、そうだね……」


 大切な名前を偶然聞いてしまったことを咎めるような主だとは思わない。

 恐れているのは、この名前が主の心を乱しはしないかの一点のみ。

 ともすれば逸らしてしまいそうな左目の正面に主を捉え、口を開く。


「聞いちゃったのはほんの一言だけ、僕の知らない人の名前だよ。

 ―――って」

 その名が明らかになった瞬間、主は目を丸くして頬に手を当てた。

「……おや、まぁ」

 そのまま視線を膝に落として黙り込む主の顔をもう直視できなかった。

 すぐに忘れろと命じもせず、何故隠していたのかと責めもしない沈黙が、主の当惑を物語っているようでただただいたたまれない。


 この静寂が終わるまで待ちつづけるなど耐えられない。深く考えるよりも早く体が動き、長椅子のかたわらにひざまずいていた。

「……ごめん、やっぱり言わない方が良かったよね。

 そんなつもりはなかったんだけど、主の秘密を耳に入れてしまったんだし。どんなに格好悪くたって、聞かなかったふりをさいごまで貫くべきだった」

 主の好奇心を呼び覚まし、いらぬ疑問をいだかせたのは自分のあいまいな態度だ。貴人に仕えることに慣れた短刀たちのように、いかなる時にも平生と変わらぬ立ち居振る舞いを心がけなければと、いささか遅すぎる縛めを肝に銘じる。


 苦笑した主が、なぜか少しばかり意外そうに首を傾げた。

「あぁ、いいのよ。光忠くんが気にするようなことではないし、寝言ならしょうがないじゃない」

「でも、君にとって大事な人なんだよね?すごく優しい声だったよ」

 思いも寄らない過去をうっかりとのぞき見てしまった後ろめたさは、主の取りなしでもたやすくは消せそうにない。

「そうねぇ……でもたぶん、あなたが考えてらっしゃるような素敵なお話じゃないわよ」

「えっ?」

 舞い込んだ白い花片をつまみ上げては窓の外に放つ、主の指先を何とはなしに目で追う。

 花弁が庭の景色に溶けて見えなくなると、窓の外をさまよっていた主の視線もふたたびこちらを向く。

 坐睡のうちに漏れた言葉を聞き止めた近侍の非礼をとがめる色は、やはり見受けられない。


 頬にかかるごま塩の髪をかき上げた指を、そのまま口元に添えて主は微笑んだ。

「さっきのはね、一番上の息子の名前」


 あぁ、という間抜けな声とともにぽかんと口を開ける。


 反応らしい反応ができるようになるまでひと呼吸の間が空く。

「……息子さんがいたんだ」

 拍子抜けする一方で、彼女ならば十分にあり得た可能性だと、そこに考えが及ばなかった自分がどうにも滑稽で仕方がない。子どもがいることはちゃんと知っていたはずなのに。


 格好良く決めることなんてきれいに忘れてしまった近侍のようすに、主の頬の笑いじわがますます深くなる。

「親ばかと言われそうだけれど、ほんとうに出来のいい子だったのよ。

 どこに出しても恥ずかしくないくらい礼儀正しかったし、服装はいつでもきちんとしていて、お料理も得意で、私がばかなことを言ったらすぐに突っ込んでくれて……今になって思い返すと、光忠くんによく似ていたわね」

「えっ?僕に似てたって、息子さんがかい?」

 思いも寄らぬタイミングでの指名に、ほとんどオウム返しの反応しかできなかった。これが戦場での奇襲なら、とっくに首を落とされているところだ。

 みずからの格好悪さをゆっくり省みるいとまもなく、なぜだか主の反省が始まる。

「ごめんなさいね、突然おかしなことを言い出して。悪い意味でそう思ったんじゃないのよ、あまり気にしないでちょうだい」

 いきなり言われたって困ってしまうわよねと、頬に手のひらを当てて首を振る、そんな主よりもさらに強くかぶりを振る。

「とんでもない!主の大切な人に似ているなんて名誉なことじゃないか、君が謝る必要なんてどこにもないよ」

 いかなる理由であれ、刀剣にとって主から好意をもって迎えられる以上の幸せはない。それに悪意をともなって口にされた言葉でないのは、懐かしげなほほえみを目の当たりにすれば自然と理解できた。


 ……それにしても、こんな言葉を受ける日がやってくるとは。

 愛児のおもかげを重ねられるほど人間に近付いていたのかと、胸の内を不思議な感慨が満たす。当然ながら、これまでそうした評価を受けたことは一度もない。いかに美しかろうとも、初めて目にする刀から家族を思い出すものはいない。

 ひとと同じ姿形を持ち、ひとと同じように口を利き行動することがなければ、このようなかたちで主を喜ばせることはできなかった。

 一振りの刀から、刀剣男士と呼ばれる存在となって何が変わったか、自分自身ではいまひとつわからないままだった。仕えるべき主に全身全霊をささげる心構えは、もの言わぬ剣だったころと少しも違わなかったから。

 今日のこの日にようやく、ひとの姿を得たことの意味を知った。ひとの形をとっているからこそ主の心を楽しませることができる、そんな望外の喜びも。


「そうは言っても、もちろんあなたみたいに強くはなかったわよ。それに私に似て、ちょっと意地の悪いところがあったし……よくよく思い出してみると、あなたと一緒にしては失礼だったわね」

 令息の話をする主はいつもにも増して笑顔が多くなる。

 細めっぱなしのまなこも顔いっぱいの笑いじわも、ふだんの落ち着きある老婦人の印象を裏切っていてたまらなく微笑ましい。主君に抱く感情として、不適切だとは承知しているけれど。

 こんな風に楽しそうに話してくれるなら、いくらでもまだ見ぬ子息を重ねてくれて構わない……とまでは言い切れない、また別の懸念もあるにはある。


 おそるおそる、この城で主と日々を過ごすうちに生じた気がかりをひとつ言葉にする。

「でも僕が息子さんを思い出させるなんて、そのせいで君に寂しい思いをさせてはいないかな。ここにいるうちは、家族にも簡単には会えないんだよね?」

 審神者として働くための制限について詳しく聞いたことはないけれど、自分が仕えるようになって以来、彼女がこの城の敷地を出て現世に戻ったことは一度もない。

 御用商人はいつも向こうから通ってくるし、物資や糧食のたぐいも運び込まれるものを受け取るだけで、こちらから買い出しに出かける必要はない。城主のもとを訪れる客人があったためしがない。

 外から届く文と言えば戦績の記録ばかりだし、主から家族や友人への手紙を託されたこともない。

 本丸にはいつも刀剣男士たちの姿があり、笑い声も絶えることはないけれど、それでも家族に代えられる存在ではないだろう。この女性はたったひとり刀剣たちの中で日々を過ごし、自分に似ているという愛息にも会えずにいる。

「ありがとう、光忠くんは優しい子ね」

 両手を胸の前であわせ、感謝を告げる主の表情は穏やかそのものだった。

「確かに家族やお友達には会えないけれど、あなたがたと一緒にいれば大丈夫。毎日が新鮮で、寂しいなんて言っている暇はないもの。

 最近じゃ子どもたちもみんな私の手を離れてしまったし、かえって今の方がにぎやかで楽しいくらいよ」

 屈託のない笑みを見ると、遠回しな気づかいは杞憂に過ぎなかったと安堵できた。

「それなら良かった。戦だけじゃなくて、他のことでも主に喜んでもらえるのは嬉しいからね。

 僕たちと一緒に過ごすのが楽しいって聞いたら、きっとみんなも喜ぶよ」


 さきほど名を呼んだ長子の他にも、主には幾人かの子どもたちがいたと見える。それだけの子育てを経験していたのなら、戦場も知らないただの女性とは思えない肝の据わりようにも納得がいく。

 戦から戻った刀剣男士たちの負傷にもまったく動じず、みずから手入れや刀装補充の陣頭指揮にあたる度胸。鶴丸国永のいたずらも短刀たちのやんちゃぶりも、締めるべきところはきちんと叱りつつ、笑って受け入れるおおらかさ。

 自分の知らない経験を積んできたこの女性はいつも、私みたいなおばあちゃんが主でいいのかしらと困ったように笑っているのだが。戦においては武器としての本分を果たす一方、本丸に戻れば手のかかる子どものような一面を発揮する刀剣男士たちを束ねるには、彼女のような主も存外適任なのかもしれない。


 だといいわね、と頷いた主がくちびるに指先をやる。

「ところで、気持ち良くお昼寝しているうちに、そろそろ遠征部隊さんが戻ってくる時間よね」

「あぁ、もうそんな頃合いなんだ。読書はまたの機会にして、今はお出迎えの準備をするかい?」

「そうね。お召し物を洗う用意もいるし、お風呂も沸かしておかなくっちゃ」

 差し伸べた手を取って長椅子から立ち上がる主の横顔に、それでも少しだけさびしげな影を感じてしまったのは、彼女の言葉をそのまま受け止めるなら考えすぎだったのかもしれない。


 たとえそうであったとしても、主が家族に会えなくてさびしいとこぼすとも思えなかった。刀剣男士たちに囲まれるにぎやかな日々が楽しいと、そう語った気持ちに嘘はないだろうから。

「光忠くんは、お風呂の薪の用意をお願いね。私は何か、軽いお食事でも出せるようにしておくわ」

 厨房に向かう後ろ姿のどこか弾んだ足取りで、母親らしくふるまうことを主が心から楽しんでいると知れる。まるで審神者らしくもない家事をこなす時こそ、主は張り切って仕事に向かう。


 そんな主の望む近侍のありかたとはどんなものなのだろうと考えながら、頼まれた風呂の支度を片付けに向かう。

「知らない人からは親子に見えるような……なんて、ちょっと夢を見すぎかな」

 ふと漏らしたつぶやきは、自分なりに見いだした結論だった。そんな風にいられたら、彼女の傍に仕える刀として、何より格好いいに違いない。


 西に傾き始めた日の照らす庭は、まだ桜の花ざかりには早い。

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