しきおりっこ SS

沙羅/和葉@12/31誕生日/喪中
@aobiyori_sara

黒猫のワルツと子犬のカンタービレ


「出来ましたわー!」


 煉瓦作りで出来た熱々のオーブンにある厚い鉄の蓋を開けて、中に収めていた天板を取り出す。

 その上にあるのは、甘い匂いを放つクッキーだ。

 丸型の物や、四角い型の物。ココア味と通常の小麦粉だけの生地を、オセロの始まりを思い出させる形で合わせて出来た物。

 天板の上で一際異彩を放っていたのは、チョコチップを目の代わりに置いたお化けとカボチャなど、ハロウィーンをイメージして出来たクッキーである。

 マリことマリンローズが取り出したクッキーを、イチコとエラが覗き見る。

「美味しそう」と、感嘆の声を上げたのは生まれて初めてクッキーを作ったエラ。

 その隣で、久しぶりに行った菓子作りの成功に胸を撫で下ろしたのは、エラの姉であるイチコであった。


「上手く焼けて良かったー」


「冷めないうちに召し上がりましょう!」


「お茶の用意させる……セワシ」


 エラは慣れた手つきで、ぱんぱんと手のひらを二回叩く。

 キッチンの片隅に控えていたこの屋敷の執事長が、優美な動作でエラに歩みより一度頭を下げると、エラの脇にいるイチコとマリに微笑みかけた。

 執事長は、職場で美顔を見慣れている看守兼貴族のお嬢様でも、思わずまじまじと見てしまう顔立ちの良い男であった。

 すらりと伸びた身長に、それに見合った手足。

 初夏の新芽を思い出させる緑色の髪は短く整えられ、前髪は後ろに撫で付けられている。赤い瞳は、紅葉したカエデの葉みたいだ。

 幼少期に美しい人形扱いをされていたと聞いてはいるが、確かにそういう扱いをされてもおかしくないなと頷いてしまう。

 お嬢様二人をその場に縛りつけた執事長は、自分の主に視線を戻して口を開いた。


「お呼びですか、お嬢様」


「お茶の時間。このクッキーみんなで食べる。用意して」


「かしこまりました」


 恭しく一礼してから、セワシは作業に取りかかる為メイドたちを呼び出す。

 使用人たちの邪魔になってはいけないと、イチコたち三人はキッチンから退出し、リビングへと移動する。

 エラの住まう屋敷は、古い造りながらも豪華だ。

 日差しをたっぷりと取り入れる大きな窓に、部屋を暖めるのに使う古い暖炉。

 四人並んで腰をかけても余裕があるソファーが向かい合う形で二つ置かれ、間にテーブルが置かれている。

 檜の一枚板で出来たテーブルはぴかぴかに磨かれて、天井から吊るされているシャンデリアの光を反射している。

 床には毛足の長いふわふわの絨毯が敷かれ、土足で歩くのが勿体ないくらい気持ちが良い。

 いかにも貴族の邸宅といった内装だ。

 今は慎ましく暮らしていると言っていたが、エラを育てた老夫婦はそれなりの財産と領地を持つ貴族の家系で、領地の運営で富を得て来たそうだ。きらびやかな内装や外装は当時の名残なのだと、邸を訪ねて来たときにエラから教えてもらった二人である。

 お茶と作ったお菓子をリビングに運んでもらう事にして、イチコはエプロンを脱ぎ捨てると早速ソファーに寝そべった。

 上品な質感がイチコの身体を受け止める。


「やっと横になれた!」


 うつ伏せのまま、ぐぐっと腕を伸ばし凝り固まった身体を解きほぐす。

 思い返せば、今月は勉強と仕事に時間を費やして、心も身体も休まる自由な時間という物を作っていなかった。

 勉強はまだ残っているけれど、今日一日は羽根を伸ばしても良いだろう。また明日から頑張ればいいのだ。

 なにせ、今日はハロウィンだ。

 ここへ来る道中の馬車から、仮装をして近所を練り歩く子どもたちの姿が見えた。

 鬼火を表すカボチャの装飾も今月に入ってから至るところで見かけている。

 監獄の食堂も、ハロウィンのお菓子やかぼちゃの料理で賑わっている事だろう。

 悪戯を考えているやんちゃな人もいるかもしれない。

 イチコとマリは悪戯ではなくお菓子を作ってばら蒔こうと思い、先月から計画を練っていた。

 カフェオレやチゾメはもちろんのこと、ボムやラズにマオやルプス、ピスィカ辺りにばら蒔く予定だ。

 何のお菓子を作ろうかと相談していた時、ちょうど囚人の面会に来ていたエラから「お菓子の作り方を教えて欲しい」と訊ねられて、それなら一緒に作ろうという運びになって現在に至る。

 クッキーは自分たちのも含めて作り終えた。

 渡す物は既にラッピングを終えて、キッチンの片隅に置いてある。

 渡しに行くのは、クッキーを食べ終えて少し休んでからになるだろう。

 昨年はコーヒーゼリーやマドレーヌも作ったのだが、今年は時間の都合上クッキーだけだ。

 ルプスがコーヒーゼリーを楽しみにしていたらどうしようという不安が一瞬頭を掠めたが、事情を説明すればまあなんとかなるだろうと自己解決した。

 どうしても食べたいと言われたら、寮に戻った時に作ればいい。材料の在庫はたっぷりとある。

 お菓子を作って渡すのはいつ以来だろう。誕生日の時だろうか。

 今月の後半は、仕事の時間が真逆でなかなか顔を合わせられなかったから、ちょっと照れ臭いなと頬がにやける。

 誰にも見られないように、ソファーに置かれていたクッションに顔を埋めて隠すも、お菓子に似た甘い空気は漏れてしまったのだろう。

 生温かい視線を感じて、イチコは身体を震えさせた。

 クッションから顔をあげて、視線が飛ばされている向かい側のソファーを見やる。

 父親違いの妹と親友が、口と目を三日月の形にして意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

 これはまずい。確実に質問と弄りの集中砲火を浴びせられる。

 リビングから飛び出して、ピアノが置いてある二階の広間へ籠城したくなったが、使用人たちの手によりお茶会の準備は滞りなく行われもう食べれる状態になりつつある。


「さあ、お茶会を始めましょう!」


「女子会、久しぶり」


「たぁーっぷりとお話し聞かせてもらいましょうね」


「近況報告、万歳」


 お話しだの、近況報告だのと遠い言い回しをしているが、確実にこれは恋ばなをしろという二人からの圧力である。

 ひくりと、イチコは喉を鳴らす。

 セワシが紅茶をカップに注ぎ入れ、いよいよ逃げるタイミングを失った。





「ハッピーハロウィーン」


 玄関扉を開けた瞬間、クラッカーが破裂した乾いた音と同時に、抑揚のない声音で告げられる。

 玄関先で威風堂々と立ちはだかるのは、この家の家主ではなかった。

 長身の男たちとおさげ髪の少女を出迎えたのは、角を額から生やし、黒いマントで身を包んだ小柄な女性だ。

「お菓子を献上しろ。さもなくば、この家の敷居はまたがせん」と女は言葉を続ける。

 おさげ髪の少女ことピスィカは呆気に取られ、一番背の高い長身の男ルプスは哀れんだ視線を向け、赤毛の男マオは頬をひきつらせた。


「…………ラズちゃん?何してるの?」


「ここの家主が忙しそうだったから、代わりに出迎えてみた!」


 紙テープがぶら下がるクラッカーを片手に、ラズは胸を張る。

 彼女の表情は、してやったりと得意気だ。

 が、その表情も次第に陰りを見せ、口を尖らせた。


「なんだよ、反応鈍いなあ。もう少し驚けよ」


「突っ込みどころが複数あって、逆に冷静になるよ……」


 訪問した三人は悪戯を仕掛けられた事よりも、突然現れたラズの方に気を取られてそれどころではない。

 こちらはカフェオレが出てくると思って身構えているのだ。

 一度に入った情報が多く、どのような反応をすればいいのかわからなくなって、冷めた空気を出してしまうのは致し方ない。

 よその玄関を紙吹雪だの紙テープだので汚して大丈夫なのかとピスィカが要らぬ心配を始めた時、遅れてやって来た家主のカフェオレがラズの後頭部を未使用のクラッカーで小突いた。


「さっき私にやられてびっくりしちゃったから、誰かにやり返したくて仕方なかったんだってさ。三人とも許してやって」


「ば、ばか……!言うなよ!」


 慌てた様子でカフェオレの口を塞ぎに行くラズである。

 バタバタとじゃれあう二人を見ながら、ピスィカの視線が生温いものへと変化した。

 先にやり始めたのこの人だったのか。

 仕事をしていた時の真面目な雰囲気が頭に強く残っていて、にわかに信じがたい。

 ああでも、時々目の前にいる角を生やした女性を弄っていたところ目撃したことがあるな。

 マオとルプスが平然としながら今のやり取りを見ているので、案外お調子者なのかもしれない。もう少し早く気づきたかった。


「ラズはもう奥に下がって、イチゴタルトでも食べてなさい」


「イチゴを出せば、私が大人しくなると思ってるだろ!…………どこに置いてある?」


「冷蔵庫の中。二段目」


「わかったー」


 マントの裾を揺らして、足取り軽くラズはキッチンへと向かう。

 その背中を最後まで見送らないうちに、カフェオレは手に下げていた風呂敷包みをピスィカに手渡した。


「はい、頼まれてた物」


「ありがとうございます!」


「何それ?」


 ピスィカが受け取った風呂敷包みを、マオが彼女の横から覗き込む。

 彼女の腕の中で、薄い桃色の生地が柔らかい物を包み込んでふっくらと膨れている。

 なんとなく、嫌な予感がするルプスである。

 中身は食べ物や酒瓶の類いでは無さそうだ。書物でもない。

 マオからの問いを受け取った瞬間、ピスィカの眼鏡がキラリと妖しげに輝いた。

 一度包みを開けていいかと、ピスィカはカフェオレに問う。

 カフェオレが頷くのを確認してから、包みを床におろし、結び目を解いた。

 中に入っていたのは、赤ワインの色に似たベロア生地で出来た一着のワンピースと、その上から羽織るケープだった。詰襟とスカートの裾に、蔦模様の刺繍が金の糸で施されている。

 フリルやレースは控えめだ。

 答えを勿体振るようにふふふと薄く笑ってから、ピスィカが口を開いた。


「これはですね、イチコさんに着せる魔女っ娘衣装です!」


「ついでに付け加えると、私の力作だ」


 昨年は、予算の都合と本人の「コスプレはしない」という強い意思で着せられなかった。

 今年こそは着せるとリベンジするべく、カフェオレにも手伝って貰って前々から準備していたのだ。

 ただのコスプレ衣装では、イチコは絶対に着ようとしない。

 なので、市販のコスプレ衣装ではなく、自分たちで作った物を渡そうという運びとなった。

 デザインから始まった一大プロジェクトである。

 ただの魔女っ娘デザインでは絶対に着ないので、ワンピースは日常でも違和感無く着られる物に近づけつつ、ケープを羽織らせる事により魔女感を出した。

 ピスィカとマリでデザインを捻りだし、本体は元お針子のカフェオレに作って貰ったが、プロジェクトはここで終わりではない。

 イチコが着ることによって、このプロジェクトは完結するのだ。なにがなんでも着せてみせる。

 ピスィカから滲み出る並々ならぬ熱意に、マオは思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 ルプスは急な頭痛に襲われたのか、こめかみを指で揉んでいた。


「着せるのはいいけど、サイズとか合ってる?大丈夫?」


「お風呂から出た瞬間を狙って測ったのでばっちりです!」


 脱衣場で着替え始めた所に乱入しましたから!

 拳を胸の前で握り、ピスィカは力説する。

「そうか、そうか」と、マオはピスィカの頑張りをまず褒め称えた。


「大胆な事したねえ」


 イチコの方は、測られている最中は訳がわからずパニックになっていただろうなと、少しだけ同情する兄弟である。


「ところで、これどうやって渡すの?」


「誕生日プレゼントだと言い張って渡してもらいます!……ルプスさんに!」


「は…………?」


 突然自分の名前が出て、ルプスの口から素頓狂な声音が漏れでる。

 三対の視線がルプスに向けられる。

 一つは冷ややかに。

 一つはきらきらと。

 残りの一つはにやにやとしていて、見ていて腹が立った。

 兄(やつ)の目が、人を挑発する時と同じものになっている。

 兄の彼女の前でなければ、おそらく頭を叩いていただろうし、盛大に舌打ちもしている。

 ルプスがマオを睨み付けている間も、作戦は進められていく。


「マリちゃんと話し合った結果です!私たちが渡すよりも、ルプスさんが渡した方が確実だろうって!イチコちゃん、ルプスさんの事大好きですから!」


「ああ、そうだな。それがいい。イチコの事だから、ルプスから受け取った物は何でも大事にするし、何でも着るだろう」


「問題があるとしたら、ルプスの趣味って思われるところだよね」


「あの子素直だから有り得そうだな。ばかが付くほど素直だから」


「それに、イチコさんもうすぐ誕生日ですし!プレゼントって言えば、カモフラージュ出来ると思うんです!」


「そういえば、イチコちゃんは十一月が誕生日だったね。お前の事だから、まだプレゼント用意してないんだろう?」


「リサーチする手間が省けて良かったじゃないか」


 次々と飛んでくる言葉がルプスの神経を逆撫でする。

 一言二言と言葉が重なっていくに連れて、眉間のシワも深くなっていくのを感じ取っていた。

 他人の家でなければ、今頃拳が壁にめり込んでいただろう。

 ピスィカは思った事を言っているのだろうが、残りの二人はわかっていてやっているに違いない。

 ハロウィーンであの世から出てきた悪魔にとり憑かれたか。

 否。ハロウィーン関係なく、兄と仕事を辞めた女はこうだった。

 苛立ちで上手く吐き出せない息が肺にたまっていく。

 苦い表情を浮かべるルプスに、マオが風呂敷を包み直して差し出す。


「ちゃんと可愛いって言ってやるんだぞ」





 マリとエラの集中攻撃から脱出したイチコは、楽譜片手にピアノが置かれている二階の広間へと駆け込んだ。

 二人による質問攻めはなかなかなもので、イチコの羞恥心をごりごりと抉り削って来る。

 三十分くらい攻められただろうが、話題が誕生日の過ごし方に移ったところで「ピアノを弾きたい」と無理やり中断し、今に至った。

 固く閉ざした扉に背を預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。

 マリが用意してくれた、メイド服をモチーフにした可愛らしいフリルのドレスを身につけているけれど、そんな事はお構い無しである。


「は、恥ずかしさで死ぬところだった……」


 頬っぺたがとても熱い。

 鏡がないと自分からでは確認できないが、きっと赤く染まっていることだろう。

 ぺたぺたと頬を触り、息を深く吸い込んでからゆっくりと吐き出す。

 以前、ルプスから気を落ち着ける息の吐き出し方を教わったが、今は思い出すどころではなくて、適当に深呼吸をしていた。

 許して、ルプスさん。うろ覚えになってしまったから今度また教えて。

 早鐘を打っていた心臓が落ち着きを取り戻したところで、イチコは腰をあげ、置いてあるピアノに向かって歩き始めた。

 ピアノに被せてあったカバーを取り払い、慣れた手つきで弾く準備を進める。

 思い返せば、ピアノに触れる事そのものが久しぶりだ。

 楽譜の上で指を動かしていたとはいえ、鍵盤の上で上手く指が動くかどうかはその時にならないとわからない。

 弾くときの感覚を覚えていたらいいなと思いつつ、準備を整えて楽譜を置き、椅子に腰かける。

 何から弾こう。

 鍵盤に両手を置いたまま、イチコは思案する。

 今流行りの曲か、昔から愛されている曲か。

 マリと観に行く予定のミュージカル曲か。

 何度も公演しているミュージカルなので、楽曲の楽譜は既に手に入れてある。

 うんうんと悩みに悩んだ末、やっぱりあの曲かなと思い、指を動かし始めた。

『子犬のワルツ』

 久しぶりに聴くピアノの音色が、ひとりぼっちの部屋に響き渡る。

 イチコが選んだ曲は、生まれて初めて弾いてもらった曲だった。

 カフェオレが、まだお師匠様の養女となって間もないイチコに、息抜きにと弾いてくれた。

 小さな子犬が自分の尻尾を追いかけて、くるくると回っている様子を思い浮かべつつ、指を動かす。

 カフェオレが弾いてくれた曲は他にもあったけど、イチコはこの曲をいたく気に入って、何度も弾いてとお願いした。

 最終的に自分でも弾いてみたくなって、お師匠様にピアノを習いたいと伝えた。

 養女になってから初めて、おねだりというものをしたのだ。

 お師匠様は、おねだりされた事を大層喜んで、二つ返事で了承してから、次の日にはイチコ専用のピアノを買いに行っていた。

 ピアノの先生も、お師匠様が用意した人だった。

 あれから十二年は経っただろうか。

 今では弾ける曲も増えて、あの時のカフェオレを追いこせるくらい上手に弾けるようになったと思う。

 指に馴染んだ曲を何度か弾いているうちに調子が出てきた。

 子犬のワルツを弾き終えてから、指に任せて次々と弾いていく。

 監獄では弾けないから、今のうちに弾いて楽しもうと感情が爆発しているみたいだ。

 リストの『ラ・カンパネラ』『愛の夢』、ベートーベンの『エリーゼのために』、ドヴォルザークの『新世界より』を続けざまに弾いてから、イチコは指を止めた。

 休み無く弾いていたからか、腕が少々疲れ出してきた。

 肩をほぐし、指の関節をこりこりと転がすように揉む。

 束の間の休息を入れてから、再び鍵盤に指を置いた。

 次は何を弾こうか。

 昨年貰った楽譜の曲でも弾いてみようか。

 思い返せば、まだ弾いていない。

 そうと決まれば、早速挑戦だ。

 置いてある楽譜を手に取り、先頭にある楽曲のページを開く。

 いざ弾かんと指を動かそうとしたところで、扉を叩く音が耳に入った。

 びくりと肩を震わせてから、扉の方へ視線を投げる。

 久しぶりに顔を合わせる大男が、仏頂面で開けた扉に身体を預けて立っていた。


「気は済んだか」


「ルプスさん……!」


 扉を叩いたであろう拳が、戸板に触れたままだ。

 目が据わっていて、少々どころかとても怖い。

 もしかして、弾いている間ずっとそこに居たのだろうか。

 扉を叩いても反応が無かったから、中に入って再度叩いたのか。

 慌てて椅子から立ち上がり、大きい彼に駆け寄った。


「何でいるの……!いつから居たの……!」


「……二曲目が始まった辺りから」


「ひぇっ……」


 随分と最初の方から居たんだなと、イチコは度肝を抜かれる。

 長い時間大好きな人を放置してしまった。

 夢中になりすぎて、本当に存在に気づかなかった。

 そもそも、ここに来ると聞いてないし。

 ルプスの方は明け方まで仕事をしていたから、てっきり寮で休んでいるとばかり思っていた。

 久しぶりに二人で会っているのに、いきなり粗相を起こしてしまって申し訳ない気持ちになるイチコである。

 犬の耳が生えていたら垂れていただろう。

 気まずい空気が二人の間に流れる。

 しょんぼりとした様子で項垂れていると、ルプスの手に握られている風呂敷包みが目に入った。

 可愛らしい色合いの風呂敷なんて持っていただろうか。


「ルプスさん、その包みは……?」


 問いを投げた瞬間、盛大な舌打ちが返ってきた。

 気づきやがったと言わんばかりの舌打ちだった。

 また何か地雷を踏んでしまっただろうか。

 はらはらとしながら言葉が返ってくるのを待っていると、持っていた包みを胸に押し付けるように渡される。

 中身はなんだろう。とても柔らかい。

 首を傾げて包みを受けとると、ルプスは一度息を吐いてから口を開いた。


「お前の友達と姉代わりからだ」


 曰く。前々からその三人が用意していた物で、中身は全て手作りなのだとルプスが教える。

 なぜ今それをと思ったが、彼の眉間のしわが深まっているので、聞かない事にした。


「ほうほう……。開けてもいい?」


 黙って頷かれる。

 包みを解いてみると、中から出てきたのは赤いワインに似た色をした一着のワンピースと同じ色のケープだった。

 友達と姉代わりからと聞いて、フリルやレースが大量に散りばめられた物だったらどうしようと思ったが、このワンピースは装飾も控えめでシンプルな形だ。ケープも、この先の季節で役立ちそうである。

 身体に軽くあてがってみると、サイズもぴったりだ。

 以前、お風呂上がりに身体のサイズを測られたのだが、もしかしてこの為に測られたのだろうか。

 疑問は色々浮かぶけれど、このワンピースなら許容範囲内だ。日常生活でもお出掛け着として着用できるだろう。

 本当に手作りなのかと疑いたくなるほどの出来だ。市販されている物だと言われても違和感が無い。

 さすがは元お針子。本気出しました感が服からひしひしと伝わってくる。後で、ルプスが言う友達と姉代わりにお礼を言わなければ。

 ピアノを弾いていた時とは違う嬉しさが胸に広がる。

 胸が弾むとはこういう時に使う言葉なのだろう。

 せっかく貰ったのにこのまま風呂敷に戻してしまうのは勿体無い気がしてきた。


「着てみていい?」


「着てもいいが…………この部屋からは出るなよ」


「はーい」


 許可が出たので、いそいそと着ている服の胸のリボンを解く。

 リボンの下にあったボタンを外そうとしたところで、不意に手が止まった。

 視線を感じる。

 ルプスの方を再び見ると、彼の視線とかち合った。

 彼は、こちらを向いたままだ。

 状況を理解するのに、数秒はかかった。

 イチコの落ち着いていた頬の熱が、急激に上昇する。

 大股で彼に歩みより、大きな背中を押して扉の方を向かせた。


「いいって言うまで、あっち向いてて!」


「何故?」


「何故じゃない!」


 危ない、危ない。

 彼の見ているところで服を脱ぐところだった。

 ルプスが扉の方に身体を向けているのを確認してから、イチコも彼に背を向けて着替えを進める。

 衣擦れの音が広い部屋に静かに響く。

 見られてはいないけど、人が居るとわかっている上で服を脱ぐのは緊張する。さっさと終えてしまおう。

 貰ったワンピースに袖を通し、詰襟のホックを留める。

 袖の長さも、丈も丁度良い。

 肩と首回りも苦しくない。

 締め付けられている感じもなく、ぶかぶかでもない。

 裾の捲れがないか確かめてから「いいよ」と向けられている背中に投げた。

 ルプスの視線がゆっくりと戻って来る。

 イチコを視界に入れた目は、直ぐにそらされてしまった。顔も背けられてしまう。

 その反応を見て、イチコは首を傾げる。

 もう少し驚いた反応を見せると思っていたのだけど、何かおかしい部分でもあっただろうか。気にくわない所でもあるのか。デザインが趣味じゃないのか。

 思い当たる節が次々と浮かんでは消える。


「……どっか変?」


「普段と変わらない……」


「そう?」


 普段と変わりないなら、まあいいか。

 服一つで何か変わるなら、恋する女の子は苦労しない。

 髪型一つで変わった事はあった気がするけれど。

 会話が終わってしまって、また静かな空気が漂い始める。

 いつもならもっと話が続くのに、放置してしまった事を怒っているのだろうか。

 この空気をどうやって打破しよう。

 ルプスは仏頂面のまま、だんまりを決め込んでいる。

 むむむと、思考を全力で回転させて、何か破れるきっかけがないかと探す。

 くるりと踵を返すと、夕日に照らされるピアノが目に入った。

 エラの家には昼から来て居たが、もう日が沈む時間になったのかと思うと同時に、昨年貰った楽譜を弾こうとしていた事を思い出す。

 頭の中にある琴線に思いついた物が触れてピンと揺れた。

 弾こうと思っていた楽譜をくれたのは、そこに居る大きな狼だ。

 昨年貰った誕生日のプレゼントの一つで、ベッドの上に置かれていた。

 買おうと思っていた物だけど、一度も彼の前で口にしたことはなくて、包装紙から取り出した時は何でわかったのかと、とても驚いた。

 誕生日が終わった翌日に、家に帰ったら弾いてみると約束もした。 

 ここは実家ではないし、音楽に興味があるかもわからないけど、約束を果たすなら今かもしれない。

 小走りで部屋の隅に移動し、積み上げられているパーティー用の椅子を一脚取り出す。

 重たい椅子を引きずって運び、ピアノ用の椅子の隣に置いた。

 再び小走りでルプスの元へ戻って、彼の手をひく。


「何だよ」


「まあまあ、いいからいいから!」


 散歩を嫌がる大型の犬を引っ張るようにして、ぐいぐいと引きながら共に歩く。

 ピアノの傍まで来たところで、用意した椅子に押し付けて座らせる。

 眉根を寄せられたがそれは無視して、イチコはピアノ用の椅子に腰をおろした。


「まだ弾くのか?」


「もち!」


 椅子の位置を直して、置いていた楽譜を手に取りページを捲る。

 収録順に弾いていこうと思って用意していたけど、彼の前で弾くなら一番練習した、一番好きな曲が良い。

 彼の目に視線を戻す。


「ルプスさんから貰った楽譜をね、ちょうど弾こうとしてたんだよ。貰った時に、弾いてみるねって言ったでしょ?」


 イチコの思惑に虚をつかれたようで、ルプスは目を僅かに見開いた。

 そんな彼を置いてきぼりにして、イチコはピアノと向き合い直す。

 身内以外でイチコの隣に座る男は、この男が初めてだろう。

 それに気づいたら、少し緊張してきた。

 二人っきりでするピアノの発表会みたい。

 鍵盤に指を置き、最初の音を弾いた。





 小さくではあるが、広間の方から流れて来たピアノの音色に、紅茶のカップを口に当てていたマリが、ピクリと身体を震わせる。

 つられて、コーヒー牛乳を飲み干したエラも、僅かに流れる音を捕まえようと耳を傾けた。

 イチコと、彼女を迎えに行ったルプスを待つマオ、そしてピスィカもクッキーを食べる手を止めて耳を澄ます。

 ピアノの音色が一度止まったから、二人ともそろそろ戻って来ると考えていたのだが、まだまだかかりそうだ。

 ピアノの音が聴こえやすいようにと、セワシがリビングの扉を開けた。

 聞き覚えのある旋律が鼓膜の奥を刺激して、マリはうっとりと目を細める。


「イチコさんの美女と野獣ですわー」


「マリちゃん、耳がいいね」


 二階の広間と今居るリビングは距離がある。

 音を立てず耳を澄ませていても、音を拾い取って曲のタイトルを当てるのは至難の技だろう。

 マオが誉め言葉を送ると、マリは胸を張って誇らしげな表情を見せた。


「親友ですから、当然です!」


 それに、つい最近イチコと二人でこの作品のミュージカルを観に行ったばかりだ。

 幾度も公演されている作品の一つだが、この度歌詞が一新されたり、追加のシーンが加えられたり、ダンスシーンの振り付けが変わったりとリニューアルされたのだ。

 イチコの誕生日も近いし、二人とも好きな作品なので、いい機会だから観に行こうという運びとなった。

 親友が今弾いている曲は、一新されたダンスシーンで使われた物だろう。作品の主題歌にも設定されている。

 主題歌の方は劇中の物を編曲した形となっているが、巡り会う奇跡を表現した旋律はどちらも華やかだ。

 イチコが弾くピアノの音色も、軽やかで華がある。

 難しいと言われている曲も、ピアノを使って初めて弾く曲も、苦労を感じさせず何度も弾いてきたかのように奏でるイチコを、マリは尊敬していた。


「私も、一昨日セワシと観に行った」


「どうでした?」


 エラの向かいに座るピスィカが問う。

 エラは淡々とした声音で答えた。


「舞踏会のシーン、良くできてる。観に行くと良い。カップルとファミリー率高い。良い席のチケットは、貴族のばばあたちが争奪戦繰り広げてる。顔のいい役者が出てるから」


「私たちもチケット取るのに苦労しましたわー。やっと取れた席も、劇場の四階席でしたし」


 一階席はお金持ちの貴族たちで毎日売り切れだ。

 それでも十分に楽しめたのだから、あの歌劇は凄いのだという証拠になる。

 エラが言う、貴族のばばあたちの熱狂ぶりも凄かった。凄い言うより、怖いと言った方が正しいかもしれない。

 劇中にある舞踏会の場面は、何度見ても華やかで優雅だ。

 いつの時代も、お伽噺の舞踏会は貴族子女の憧れだ。

 マリもイチコも戸籍の階級は貴族なので、貴族の夜会くらいは行こうと思えば行ける。

 が、実際の舞踏会や夜会は、政治的思惑や貴族のぼんくら息子ばかりで積極的に行こうと思えない。お見合いの話も蹴っ飛ばしている。

 観劇の後で、いい男と巡り会えたヒロインが羨ましいと、マリはイチコに吐き出していた。

 本当に、何故貴族の子息たちは鼻持ちならない下心丸出しなアホばかりなのか。

 見た目とか細かい所は見逃すから、普通に性格の良い男と出会いたいものである。

 マリの意見に、隣に座るエラが「全くである」と深く頷いた。

 ぼんくら子息さえ居なければ、フィクションと同じ雰囲気で楽しめるだろうに。


「たまには気兼ねなく、舞踏会に行ってみたいですわ。ご飯は美味しいし、華やかだし、綺麗だし」


「ダンスとか踊ってみたいですよね」


 ピスィカがうっとりとした様子で言葉を返す。

 ピクリとマオが反応して、口角をつり上げた。


「じゃあ、今から踊ってみる?」


「えぇ?」


「ちょうどイチコちゃんが曲流してくれているしね!ほら、立って立って!」


 話に追い付いていないピスィカの手を取り立たせると、彼女の手を引いてリビングの空いている広いスペースへと連れ出す。

 向かい合わせに立つ二人を、エラとマリはきょとんと首を傾けながら見つめていた。

 ピスィカは、いささか頬が赤くなっているように見える。


「ダンスって……マオさん踊れるんですか……!」


「うーん、なんとかなる!」


「またそんな調子のいいことを言って……!足踏まれても知りませんからね!」


「わかってるって!はい、動きますよー」


 適当なステップで二人が動き出す。

 振り付けも即興的な物だが、踊る二人はどこか楽しそうだ。

 ピスィカの固かった表情も、ほぐれてきている。

 こんな事なら、一階にある小広間を解放して、そこでハロウィーンパーティーを開けば良かったかもしれない。小広間にもピアノを置いてあるし、イチコに頼めばワルツでもなんでも弾いてくれただろう。

 くるくると回るネコたちを、マリが目を細めて見守る。

 エラはコーヒー牛乳をおかわりして、口をつけていた。


「素敵ですわねぇ……」


「……マリちゃん、何故彼氏いない?」


「なぜでしょう?」


 私が一番不思議です。


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