迷い道 SSまとめ

沙羅/和葉@年1ディズニー
@aobiyori_sara

迷い道 イベント2 「夏のはじまり」


「八知(やち)、千世(ちよ)。支度は出来たか?」


「はい、兄様(あにさま)!」


 障子の向こうから、既に出掛ける支度を整えた兄の声がする。

 丁度、膝に座る幼い姪の髪を縛り終えた八知は、大きく声を返した。

 今日から、毎年江戸の中心部で催されるお祭りが始まるのだ。

 太鼓と笛の音に乗って人々は心から踊り、川では橙色に灯った灯籠が流される。

 露店も数多く並び、美味しそうな匂いに通りは包まれるのだ。

「祭りも始まるし、時間が出来たから久しぶりに外へ出掛けようか」と、外出に厳しい兄が言い出して、八知と千世は直ぐに「行く」と返した。

 外に出掛けるのは、久しぶりだ。

 義姉が人斬りの被害にあってから、兄から不要不急の外出を控えろと言われているのだ。

 そんな過保護な兄が、外に出掛けようと誘ってくれた。八知は素直に嬉しかった。

 この日の為に、八知は屋敷にある浴衣を全員分引っ張りだし、兄と姪にはどれを着せよう、自分はどれを着ようと頭を捻った。

 悩みに悩んだ末、八知自身は白色に大ぶりの青い花が刺繍された浴衣を選び、兄には紺を、四歳になる姪には以前から用意されていた青の浴衣を選んだ。

 妹の声を聞くと同時に障子が開かれ、兄の融(とおる)が姿を現す。

 兄は汚れてもいい仕事着ではなく、夜空の色を溶かしたような浴衣に身を包んでいた。

 真っ黒というよりも、夜明けが近づいている時の東の空を思わせる少しだけ明るい黒に近い紺。

 着ている者の黒い髪、そして黒い瞳と比べれば色の違いが顕著だ。

 父親の姿を視界に入れた小さな姫は、「ととさま!」と舌足らずな声音で呼びつつ、八知の膝からおりて両の手を伸ばしながら駆け寄る。

 その小さな身体を、男は容易く抱き上げた。

 大好きな父親に抱き抱えられて、きゃらきゃらと笑い声を上げる。

 幼い娘を前にして、普段からよく見えている眉間の皺が消えていた。


「青に朝顔の浴衣か。小さい時に八知が着ていた物だな」


 昔を懐かしんでいるのか、兄の目が細められる。

 覚えていてもらえた事が嬉しくて、八知の口角が痛いほど上がった。


「そうなの。小姫が着れるようにって、義姉様(あねさま)が繕い直してくれてたのよ」


 義姉は、兄の妻だ。江戸の中心部から少し離れたところにある峠の先から、無駄にお堅い性格の兄の所へ嫁いでくれた、優しく穏やかな女性だった。

 とてもよくできた女性だと、同居する祖父母が褒めていたのをよく覚えている。

 一年程前に人斬りの事件に巻き込まれて亡くなってしまった義姉だけど、その事件を除けばとても幸せだったはずだ。

 お正月に雪が降った時も。桜を見に行った時も。夏になってお祭りに行った時も。赤く色づいた葉を見に行った時も。時が経って、小姫が生まれてからも。義姉は笑っていた。

 幸せそうに、今の兄のように目を細めて。今の八知のように頬っぺたが痛くなるくらい、口角を上げて。

 義姉が最後にどういう表情をして亡くなったのか、八知は兄に見せてもらえなかった。が、過ごしていた日々と笑顔を思い返せば、幸せだったはずだと思える。否。そう思いたい。

 義姉との思い出を思い出していると、住んでいる屋敷からそう遠くない所で、笛の音が響き始めた。

 家に引きこもっている人間が、ついつい気になって外に出ていきたくなるような、軽やかな音色だ。

 通りに出たら何を買って食べよう。お蕎麦か、お団子か、お寿司か。天麩羅はあるだろうか。飴も捨てがたい。小さい頃は、細工飴をよく買ってもらっていた。

 まだ外にも出ていないのに、八知の心はそわそわとして落ち着かない。

 口に出ていたのか、兄から向けられている視線に気づいて、我に返る。

 苦笑を見せる兄が、口を開いた。


「さすがに、そんなには食えないだろう」


「た、たしかに……」


 大人になったとはいえ、八知の胃の大きさは人並みより少し小さい。

 屋台のお寿司は握り飯のように大きいから、一つ食べただけでお腹が満たされてしまうだろう。お蕎麦の入る隙間がない。

 何かを食べたければ、何かを我慢しなければ。

 一緒に食べてくれる人がいれば色々と食べられるのだろうけど、千世の胃は八知よりも小さいし、兄も大食いではない。

 八知の悩みを知って知らずか、千世が口を開いた。


「こひめは、おそばがいいなあ。ととさま、おそばたべていいでしょう?」


「そうだなあ。じゃあ、今夜はお蕎麦を食べよう。お寿司はまた別の日に食べればいい」


 娘に甘い兄は、二つ返事で意見を取り入れる。

 そして、八知の事も忘れない。

 今日はお蕎麦で、次はお寿司。

 これは、また外に出掛けようという兄からの約束だ。

 その事に気づいて、八知は笑みを深くした。

 お祭りに行くのは疲れてしまうからという祖父母に留守を任せて、三人は屋敷の外に出る。

 空を見上げると、雲を照らす橙色が美しい。青い部分も残っているが日は落ちているので、墨色に変わるのも時間の問題だろう。

 千世の歩みにあわせて、兄と三人で道を歩く。

 祭りの会場に近づくにつれて、提灯の数が増え、通りを照らしていた。

 江戸の人々の喧騒も大きくなっていく。

 会場に着いたら、まずは兄が班長を勤めている部下と合流だ。お蕎麦はその後だろう。

 屋敷の外に出るのも久しぶり。お祭りに行くのも久しぶり。

 久方ぶりに感じとる外の空気を、祭りの喧騒と共に胸いっぱいに吸い込んだ。





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