乙女の箱庭

夏藍堂
@kalan_do

セイントナイトに涙のトワレを Chiaki reiko

 女のカラダはヴァイオリンのようだ。私を捨てていった男はそう言っていた。

 年末の六本木は青や白の光であふれていた。十二月二十四日は、恋人たちが愛を確かめ合う特別な日。寒さ極まるこんな季節だからこそ、人は温もりを求めるのだろう。黒坂レイコは、気に入りのチャコールグレーのコクーンコートをひるがえし、そんな甘い世界から目を背けた。

 六本木を象徴する大型商業施設を右手に見ながら、乃木坂の方に向かう途中の道に馴染みのジャズバーがある。異国情緒ある店のドアを引くと、重々しいその身からはとても想像がつかない軽い音が鳴る。真鍮製のドアベルが来訪を合図すると、カウンターの向こう側にいた壮年の男性がレイコを一瞥し、軽くお辞儀をした。

「おや。お久しぶりですね」

「ええ、マスター。お久しぶり……ちょうど一年かしら」

 マスターがカウンター最奥の「ご予約席」の札を外し「どうぞ」と席をさした。この時期になると必ず来るレイコの為に空けられていた。それくらいここには長く通っている。

 一年ぶりの席は、まるで昨日も座ったような感覚だ。懐かしさよりも安定感。ここに私の場所がある。そういう感覚に近かった。マスターがグラスに氷を浮かべ、その上にバーボンを注ぎレイコの前に差し出した。これも毎年注文しているものだ。

「ありがとう」

 受け取り、しばらくそれを眺める。まだ飲むには早すぎる。いつかここで彼からもらった有名ブランドの腕時計をちらりと見る。時刻はまだ二十時半だった。落ち着かないそぶりで、ハンドバッグからスマートフォンを取り出し、通話アプリを開くと待ち合わせの相手はどうやらあと三十分後に来るようであった。

「ねえ、マスター。今日は人と待ち合わせなの」

「そうですか。珍しいですね?」

「ええ。そうね……この時期は、」チェイサーとして出されていた水を飲む。「この日は、感傷に浸りたい日、なんだけどね……」

 ちょっと、ね。と濁すと、眦に皺を寄せてマスターは優しく笑った。

「お飲み物はなにを用意いたしましょうか?」

「私と同じのを――ストレートで」

「かしこまりました」

「あ、あと。もうこれだけだから、お会計させて?」

「承知いたしました」

 伝票を出されると、レイコはブラックの長財布を取り出した。中央にゴールドのブランドロゴが入っている。新札の万札を一枚抜き取り、

「お釣りはいらないわ」

 と、そのままマスターに渡す。

「頂戴いたしました。ありがとうございます」

「私こそ。毎年ありがとう、マスター。好きよ?」

「老人をからかってはなりません。あなたみたいな美女に口説かれたら、それこそ死期が近づきますよ」

「嫌だわ。悪いご冗談を」

 バーボン――レイコはワイルドターキーを好んで飲んでいる――をショットグラスに注ぐと、店の奥にある古時計が渋みある音で二十一時になったことを告げる。それと同時にドアベルがなる。レイコの目の前に置かれていたグラスの中で、バーボンの熱で溶けた氷も鳴った。

 一七〇センチほどの長身の女性が入って来た。シャープな顔つきで、襟足が短く、長めの前髪を右に流している。柔らかい髪質だからか、流した前髪がパーマをかけたようにくしゅりと動いている。一瞥しただけでは、女性とはわかりづらい風貌だがその人物はレイコのよく知る人物であった。

「千秋」軽く手を振る。

「麗子! ごめん、遅くなった」

 隣のスツールを引いて、着ていたグレータータンチェック柄のロングコートを背もたれに二つ折りにし掛け、席に着く。黒のリブ生地のハイネックに、胸元を飾っていたのはゴールドのネックレス。席に着こうと身を前に傾けるとそれが薄暗い店内で静かに光を放った。

「それ……つけてくれたのね?」

 それ、と指を伸ばし、レイコは千秋の胸元を彩るゴールドをわざと揺らした。

「ああ。気に入ったの」

「嬉しいわ」

「麗子はセンスがいいから」

 マスターが千秋の前に先ほど会計を済ませたワイルドターキーの八年物を置く。ショットグラスの中で琥珀の液体が静かに揺れていた。

「私の趣味、覚えているんだね」

「仕事ですからね。こういうの仕込んだのは、千秋……あなたですよ、先輩」

「ここまで化けるとは思わなかったな」

 千秋――赤坂千秋は、レイコが勤めている東京の中心である日本橋に本店を構える大手百貨店外商部の一つ上の先輩だ。年の瀬である今は、年末商戦で忙しさは火を見るよりも明らかである。レイコは国内の富裕層に向け、宝飾やその他高級品を売る仕事をしている。日曜である今日も実は出勤日であった。それは隣に座る千秋も同じである。

「そういえば、残業ですって? 貿易会社大丈夫だったの?」

「まあね。先方で少しトラブルがあってね……ああ、穏便に済ませられたよ。納期も間に合いそう」

「そう。よかった」

 千秋は外商部では海外部門のチーム長の地位に就いている。レイコは国内チームのチーム長であった。九月からこの年末商戦に向けたチーム会議で何度も顔を合わせていて、互いの売上や商品情報を頻繁に交換していた。それもあるが、入社時は同じ国内チームであった千秋から、この仕事について一から教えてもらったことで恩義がある。

「接待も大変でしょう? 大阪のIT企業の社長さん……あの若い人、どうだった?」

「ああ、一週間前の。何とか交わしたけど」スマートフォンで個人メールのアプリを開いて見せる。「こんな調子」

「必死ね」

 大阪のIT企業社長は、まだ四十にもならない若い男であった。偶然、業務に空きがあったレイコに白羽の矢が当たり、一週間前に寒中見舞い用のカタログをもって会いに行ったのが記憶に新しい。馴染みの百貨店の外商部からとなると話は早くて、アポも取りやすくすぐに会ってくれた。そこまではありがたいのだが……社長はレイコの容姿を見るなり甚く気に入ったのか、連絡先の交換を迫ってきて今に至るのだ。

「今日も逢いたいって迫られてね……仕事って断ったけど」

「大変ね。麗子は」薄暗い店内でも陰ることないレイコの白い頬を、千秋のほっそりとした指が撫でる。右指の薬指にはシルバーのリングが嵌められている。「これ、付けて仕事したら? せっかくプレゼントしたんだから」

「指輪付けたら、この武器が使えないでしょう? でも、今は付けている。あなたと二人っきりだから」

 一回り小さくなった氷が浮かぶバーボンを一口煽る。喉を焼くその液体が心地よい熱を身体にもたらした。

「楽しんでるね?」

「そう、楽しんでいるの」

「悪い子だな」

「悪い子よ、虐めてくださる?」

「それはできないね」

 レイコの左手を包み込み、あやすように撫でた。

「そうだ。プレゼントがあるの」

「プレゼント?」

 千秋が気に入っているブランドの秋冬の新作トートバッグから、長方形の薄墨のような黒さの箱が出てくる。赤いリボンが十字に掛けられていた。それは勤めている百貨店の本店一階に入っている、有名な香水専門店のものであった。

「……オードトワレ?」

「そう。麗子に似合うと思ってね」

「せいぜい、コロンくらいしか付けたことなかったけど?」

「あの清涼感もいいけど……私と二人で逢う時はこれを付けてほしいな?」

 箱から出されたトワレは、赤い壜でリンゴと薔薇の香りと書いてあった。

「……私、きっとこれを付けたら眠れないわ」

「いいの。悪い夢を見るようなら、寝かせないために買ったんだから」

「すごい人。千秋のそういうところ好き」

「それは光栄」

 もう六年前に別れた男は、女のカラダヴァイオリンのようだと言った。このジャズバーのカウンターの後ろにあるステージで、チェロを荒々しく弾いている姿が瞼の裏に焼き付いている。それが、何度も揺さぶられた私の體と重なる。

 跳ねた音はE線のようだと言う。確かにか細いこの声は、あの人の柔らかいところを揺さぶると思う。どこか虐めたくなるような、加虐心を呼び起こす音だ。その男の一句一音思い出して、涙を酒に溶かす。馴染んだ重低音が聞こえないステージに背を向けて。隣に居なくなった彼を忍んで、飲めもしなかったバーボンを煽る。そんな日々に色を付けたのは、入社後に会った千秋であった。

「もともと寝かせるつもりはなかったの。今夜、それをまとって寝てくれるね?」

「もちろん。……でももう少しだけ、あの日の自分を酔わせたいの」

「かまわないよ」

 ショットグラスに入った液体を、千秋は一気に煽った。

「私も、理性を捨てちゃうから」

「千秋のそういうところ、好きだわ」

 熱い雫が氷の上に落ちると、からんと涼しい音が響いた。

著作者の他の作品

落乱五年鉢屋と六年立花の話。