夜にサヨナラ

夏藍堂
@kalan_do

 お願いが聞けないから、もう彼女は自分のもとから離れると言った。女神が消滅した世界で、願い事が聞けなくなったから旅に出ると言うんだ。彼女は戦神なのかもしれない。

「そう……どうしたらいい?」

 薬学の本をめくる手は休むことがなかった。一瞬だけ止まると、またパラ、パラとページがめくられていく。当然、彼の目はあたしを見ないで文字を追っている。

「どうしたらって言われても。あたし、もう決めたからお願いが聞けないんだ」

「そうだね」本を机に置くと、読んでいたページに栞を挟むことなく閉じてしまった。

 わからなくなると指摘すると、彼は夕焼け色の瞳を優しく歪ませて、もう何度も読んだからいいんだよ、とやんわり心配の意を振りほどかれた。拒絶、されている。

「……嫌いになったの?」

 彼は目を丸くして、

「突飛もないこと言うんだね」

 と、笑った。

「どうしてかな。嫌いになる要素が、今あった?」

「あたしが、キルロイさんからっ」

 今まで呼ばれなかった名前で、空間に色がつく。埃っぽい傭兵団の砦。晩秋の昼下がり。早く沈みゆく太陽が、アプリコットの輝きを雲の隙間から注いでいる。窓の先に広がる茜色の草原が風でなびくと、三時に飲んだ紅茶を息で吹いて冷ますように、熱さ向こうへ追いやられる。もうじき夜が来る。

 レースのカーテンから入ってくる夕日は、彼女の――ワユのエメラルドの瞳を照らしていた。少しだけ涙の膜が張っているのをみて見ないふりをする。

「僕から、なんだい?」

「は、離れるって言ったから」

「それで君のことが嫌いになる程、この三年間……僕は心の狭い人間に見えたの?」

「そんなっ! 違う……ひどいこと言わないで……」

「そう言われても、事実でしょう?」

 ひどい大人の役は慣れていたつもりだったのに。ワユが泣き出しそうな顔をするから、息が詰まる感覚に襲われる。深海で会話をしているようだ。重圧で頭も、足も、両手も水圧で押されるような圧迫感がつらい。

「ワユさん、泣かないでよ」

 どの口が言うんだ。自分でそう心の中で戒めて、机に置いていた木綿のハンカチを渡す。ワユはそれを受け取ることなく、乱暴に裾で流れる涙を拭った。

「そんなの、要らない」

「女の子が、そんな乱暴にいけないだろう?」

「そんなのより――それが欲しい」

「――えっ……?」

 刀傷と肉刺だらけの白くほっそりとした指が、キルロイの後ろに幾つも刺さっている杖を指した。それはどれも壊れてしまった杖だ。

「こ、これ。壊れているけど」

「いいの。それが、欲しい」

「……仮に、新しい杖を渡したところで、君はこれを扱えない。荷物になるだけのものをどうして――」

「荷物にっ! ならないから、言ってるのっ!」

 遠くの山で夜を告げる鳥が、一斉に西に向かって飛んでいく。レースのカーテンはその影を写した。黒々と大きな鳥が、一斉に空を流れる。ワユの目には強い意志が宿っていた。

「荷物にならないの……」

「うん。ゆっくり……ゆっくり、訳を聞かせてくれないかな?」

「もうお願いが聞けない、ってさっき言ったでしょう?」

「あ……そう、だったね」それなら仕方ない、と思考を巡らす。「同意を求めたい――待ってくれないかな」

 豆鉄砲を食ったように、ワユは大きく濡れたエメラルドをパチパチと三度、まばたきした。

「え? 待つ、って」

「お願い、聞けないんでしょう? ならいいよ、聞かなくて。ただ、聞いてくれないなら待ってくれないかな?」

「……待ったら、どうなるの?」

「やっぱり、ちょっとワユさんって鈍いよね?」

「にぶっ……鈍いかな!?」

 うん、鈍い。とキルロイが柔らかく言う。怒っていない。優しくてどこか諦めたような笑みは何度も戦場で見てきた。これは、治癒が間に合わなかった時の、顔。

「……待てない」それじゃ、駄目だから。待てないのだ。

「待てない、かあ……そうか、じゃあ今晩、連れだして」

 もうじき夜が来る。追いやられた太陽が、濃紺の毛布を引っ張って山裾へ消えていく。

「使えない杖を持っていくほど、なんでしょう? なら、今晩。ここから一緒にサヨナラしよう」

「……だ、だめ」

「どうして?」

「だめだよ、だって、だって。キルロイさん、それじゃあ死んじゃうでしょ……」

 きっと北に行くのだ。導かれている方向は、デインを越えたその先にある。雪深い土地を越えたら死の砂漠だってある。のに、ワユは求め願った。――キルロイという存在を。

「そうだね、僕は死ぬよ。そんなことしたら」

 ガツンと木槌で頭を殴られたように「死」という言葉が思考を直撃する。何も答えられなくなった。

「それでも、いいのかな?」

「いいわけ、ないよ……いじわる、言わないで」

「そう。ごめんね?」

 杖はあげられないけど。キルロイは薬品棚の一番右上にあった三十センチほどの小瓶を取り出した。

「どんな傷もすぐに治る薬。君のために調合したんだよ。傷だらけになる君の身体は、僕が一番分かっているつもりだから」

「――大切に、使う」

「使わないって選択は無しだよ」

 ぐっと息を詰まらせると、キルロイはくすくす笑った。

「たくさん作っておくから」

「うん、」

「いつでも、帰っておいで」

「うん」

「でも、それ三年くらいは持つと思うよ」

「……うん」

「――……ごめんね」

「何が」

「君について行けなくて。身体の弱い僕を許してくれないかな?」

 ワユは一呼吸おいて、キルロイを真っ直ぐ見た。

「……もうお願いは聞けないって、さっきも言ったよ」

「あっと……そうだったね。じゃあ、独り言で」

「独り言なら、聞けるよ」

 コホン、と喉を湿らせて。キルロイは沈みゆく太陽を眺めて言う。

「……あと三年、ここで待っているから。その時、君がちゃんとここへ帰ってきたら――結婚しようか」

 パンッとまた豆鉄砲を食らったような顔をしているから、おかしくてキルロイは笑ってしまった。

「なっ……も、もう一回」

「独り言だから、君の声は僕には聞こえません」

「い、いじわる!」

「ふふ。でも僕は本気。君が帰ってきたら、答えを聞かせて? それまではサヨナラだ」

 夢を追いかける少女の邪魔はできないけど。祈ることはできる。そしてそれを叶えることも可能だ。どんな方向にでも、叶えられる自信がある。

「うん。きっと、帰ってくる」

 手を、貸して。と頼まれたので、ワユはキルロイに比較的傷が少ない左手を差し出した。彼は指先を持ち上げて、手の甲にキスをする。――どうかご無事で。ワユの顔が急激に赤らむのを、くすくす笑いながらキルロイは見ていた。

著作者の他の作品

落乱五年鉢屋と六年立花の話。