はやみ
みやとみえの話
*実矢の場合
今日がいい日だと思えば、そう思えてくるから不思議だ。
わたしは陽の落ちた薄暗い道を毎日歩く。この時間、日本で、最も都会で賑やかなこのまちは、一瞬無人になって、おともきえる。
この瞬間が嫌いではない。
例えば、朝、カーテンを開けた時にのぞく朝陽と鳥の声、昼間の喧騒と賑やかな話し声、夜の虫の音と静けさを守りながら活動する猫。それは、調和だ。調和がいい、バランスがいい、整合がとれている。
自然な形が、朝と昼と夜とに、一瞬訪れる。
わたしの仕事もそんなものなのかもしれない。だから、選んだのかと言えばそれは違うのだけど。
ただ、人間が何かをやりたいと思い、それを選ぶのは、偶然なようでおそらく必然なのだろう。しっくりくる自分の形。それは、整合がとれていると言っても良かった。その形を探すのが簡単なようで大変で、大変なようで簡単だった。自然なものなのだから、素直に歩いていれば見つかるものを、人は意地とプライドによって障害を自らつくりだしている。ああ、なんて不合理的。
その日、わたしを指名してくれるお客様がいつもより多かった。たったそれだけで、人は喜べるし幸せになれるんだなあと思う。お客様にコートと手提げ鞄を渡し、(こんな初夏に、コート?)と思いながらも笑顔で手を振った。その方は最後のお客様で、陽も落ちかけていた。
今日のわたしの仕事は、これでおわり。
さあて、と一息つく。後片付けをして一通りを始末すれば、もう帰れる。独り身のさみしい家に帰っても何もないけれど、気兼ねなくいられる空間と言う意味では一人暮らしと言うのは最高だと思う。
そこで、おや、と思った。
担当していた席の鏡台の前に何か置いてある。それは、櫛のようなものに、見えた。おかしいな、と思う。だって最後のお客様は男だ。しかも、この櫛は上品な赤の色と和の花柄が散っていて、けして安いものではないように見えた。たまに安いし使えれば何でもいいと言う男性がいるが、これはそういう理由で使うようなものには見えない。
わたしは、いちおう実家が名家と呼ばれるような歴史ある家柄だったから、その真贋は間違ってはいないと思った。
だからこそ、これは、間違っていてもあの男性に届くべきだと思った。
そうだ、もしかしたら奥さんの物かもしれないし、そうよ、もしかすると忘れ形見の可能性もある。
わたしは掃除用の箒を放って外に飛び出した。
陽が落ち始め、僅かに生ぬるい空気が流れるこの時間は気持ちが悪い。こんな空間でコートだなんて狂気の沙汰ではない。あの男の人は、帰る時もしっかりと黒いコートを着込んでいた。その姿は今考えたら少し異様だったかも。だが、自然だった。自然に溶け込んでいた。
陽の落ちた薄暗い道、電柱から伸びる影が、わたしにそれを教えてくれる。
目の前には先ほどの黒いコートを着た男性、紳士、といっていい上品な方だった。その後ろ姿を捕えて、わたしはあの、と声をかけた。
とても静かだった。この時間は、一瞬人がいなくなる。すべての音が消え去る。だからこそ、わたしはこの時間が、好き、だった。
「あの、忘れ物……してませんか」
ぐるり、という擬音が近いだろう。そのくらい不自然に、違和感を持って男は首をこちらに曲げた。わたしは一瞬身体を硬直させた。男の目は笑っていないのに、口元がすっと笑みを作っていたので。
「ああ、ありがとうございます。これは、私の大切なもので」
あくまで柔和に男は告げた。固まるわたしの手から、ゆっくりと男性は櫛を受け取って、小さく頭を下げた。
圧倒的な不合理、不整合、不調和、そしてアンバランスさを持って、それはわたしに警鐘を鳴らした。
「しかし……この時間にのこのこ誘い出されてくれるなんて、あなたも人が良いですねえ」
わたしは動けなかった。だって、一般人だ。ちょっと国家資格とったくらいで有頂天になれるような、なかなか結婚できなくて嘆くような、そんな普通の女だ。普通の人間が、この日常を切り取ったような恐怖をどうにかできるわけもあるまい。
男の手が伸びた。わたしに、まっすぐ向かって来る。
いやだ、こわい。
「たっ……」
たすけて、と言おうとした声は途中で切れた。
目を覚ました。
わたしは生きている。そう思うのはおかしなことだ、だって、生きているのは自然なことだし、死ぬことも自然なことだし、いちいち確認する事柄じゃないはずだから。
でも、生きていると思った。そして、その前の事を思い出そうとしたが、はっきりとは思い出せない。忘れ物をお客様に届けようとした、ただそれだけなのに。
「みやさん、こんばんは」
あれ、と思った。わたしは、家に帰っていたようだ。一人暮らしの家に聞こえるはずのない声で、何となく成り行きを察した。
「しろ兄が、送ってくれたの?」
わたしを、と問えばすぐ近くの男とも女ともつかない美しい顔が頷いた。女もうらやむつややかな黒髪が揺れて、さらりと赤にも見える瞳にかかる。
わたしの、兄だった。
「ありがとう……あの、あたし……」
なんて聞いたらいいのか分からず言いよどむ。何があったのかは分からない、だが、気を失ったのは分かったし、この弟が家まで送ってくれたことは分かった。
「みやさん、駄目ですよ。あの時間は、気軽に出歩いていい時間ではない」
祇朗がにっこりと人形のように微笑みながらわたしにそう告げた。
「逢魔が時には、悪いものが闊歩するというので。言い伝えや迷信かも知れなくとも、少し気にされるといいかもしれない」
「しろ兄って、そういうの気にするんだ」
ただ、純粋に驚いた。合理的で何よりも無駄のない兄が、そういう不確定で不明瞭なものを信じる。その矛盾に。
「あの時間が好きでしたか? それは、少し誘われていたのかもしれないですね。以後は、避けた方がいいかもしれませんよ」
兄は、とても丁寧なのである。
そう言いながらわたしの頭を撫でて、「晩御飯は作っておきました。食べられなければ明日の朝にでも」と、にこりと笑いながら兄は部屋を出て行った。妹とはいえ、女のわたしに気を遣ったのかもしれないが、逆効果だ。
「こ、怖くてねらんないわよ……」
と、思いながらも気づけばちゃっかり寝ていた。わたしは結局、そういうがさつな女である。
翌日から、仕事をあがる時間を変えてもらった。
よく考えれば、わたしは他の人よりも早く上がっていた。特に理由もないのに。どうしてだろう、と首を傾げる。
兄の言葉を思い出す。
”誘われていたのかもしれませんよ”
誘われる、それは不思議な言葉だ。聞きようによっては甘美な意味にもとれる。どうしてかはわからないが、ぞくりと背筋を走る何かがある。怖いけれど、近づいてみたい、誘われたい、人間にはそういう本能がきっと、ある。わたしは半ば分かっていながらその誘惑に足を踏み出していたのかも。
だが、あんなことがあってはさすがに懲りた。
兄のいう事は大概正しいことを知っているから、今回は素直に忠告を受け入れることにしようと思う。
夕に誘われる
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