凛と咲く花の蜜は

「やばいやばいやばい。何処にもない」

蜜は焦っていた。家中を探し回るが、どうしても見つからない。

それは、蜜の一番お気に入りのアーティストの写真が載った葉書サイズの写真集だった。初回限定版のCDを買うとついてくる特典で、大変希少なものである。いつもは学生鞄に入れて、不意に虚しくなったときに見つめては負の感情を紛らわしていた。これがないと、私は私じゃいられないのに。

「……あ、もしかして」

蜜はふと何かに気づき、虚空を見つめたまま立ち上がる。

「あの公園に忘れたのかなあ」

昨日、妖艶で柔い笑顔の男性と出会ったあの公園。あの時は闇も濃かったし、もしかしたら落としたことに気づかずに帰ってきてしまったのかもしれない。そうと決まれば探しに行こう。幸い今日は休日。今からでも走れば十分ほどで公園に着くだろう。

蜜は黒のパーカーに白いショートパンツ姿で、ショルダーバッグを引っ掴むと駆けだした。


ない。ない。見つからない。

蜜は地面に這い蹲ってベンチの下を探る。頬が汚れても気にする様子はない。そばを通った母娘連れが、不審そうに蜜の背中を見ていた。

「ここじゃないのかなあ」

低い声で呟くと、悲しげに目を伏せる。もう諦めるしかないのだろうか。はあ、と大きくため息をついて、帰路に着こうと踏み出したその時。

「探し物は、これ?」

聞き覚えのある声がして、振り向く。そこには、蜜より頭二つ分くらい背の高い、明るい髪の男性が立っていた。襟の伸びたТシャツに、ジーンズ姿。笑う彼の右手には、蜜がずっと探していた写真集。

「あ、あー!それ!!どこにあったんで……」

「ベンチに落としていってたよ。君の物だと思って」

左手をズボンのポケットに突っこんだまま、はい、と写真集を蜜の手に優しく乗せる。

「大事な物なんでしょ。今度はなくしちゃだめだよ」

「はい、あ、ありがとう……ございます……」

「ん。よかったよかった。じゃあ、僕はこれで」

去ろうとする男性をぼうっと見つめていた蜜だったが、唐突にその背中が愛おしく思えて、声をかける。

「あの!!!ちょっと待ってください」

「ん?」

その声を待っていたかのように振り返る男性は、なんだか怪しげに笑っている。

「お、お、お礼……お礼させてください……?」

蜜も笑ってみるが、死んでいる表情筋を無理やり働かせたからか、うまく笑えている気がしない。寧ろ気味の悪い表情になっているのではないかと冷や冷やした。

無理に笑うなんて、やめとけばよかった。

後悔したその瞬間、男性が噴き出す。やっぱり変な顔だったか。ずん、と重たいものが圧し掛かるように暗い気分になる。と、つかつかとこちらに歩み寄ってきた男性が目の前で立ち止まると、蜜の頬に触れた。

「可愛いね、ほんと」

蜜はまた心臓がどくんと音を立てたのを認識したが、きっとお世辞だろうと軽く流す。

「お礼かあ。そうだなあ……じゃあ、」

男性はぴっと三本指を立てた。

「三つ、お願い」

「み、三つ?三つも……?」

「大したお願いじゃないから。危ないことはさせないし安心して」

そう言うと、男性はベンチによいしょ、と腰かける。

「一つ。今日から僕のことを凜って呼ぶこと。

二つ。これからはできるだけ毎日ここで僕と会うこと。

三つ。その長すぎる前髪を切ること。表情がよく見えないんだよね」

指折り数えてそう笑う男性、否、凜。蜜は二つ目まで同じように指を折って聞いていたが、三つ目のお願い事を前にしてぶんぶんと首を横に振る。

「む、むりむりむり。前髪だけは無理。これは俺の中の縛りだから。これがないと俺死んじゃうから」

自分の喉から漏れる声が低すぎて嫌になる。

「うーん、切ってほしいけどなあ。まあ昨日初めて会った男にそんなこと言われても嫌よね……」

何かぼそぼそと呟く凜。蜜は凜が何を言っているのか聞き取れない。

「まあ、いいや。じゃあ最初の二つは承諾してくれる?」

「あ、え?ああ、はい」

一生懸命に独り言を聞き取ろうとしていた蜜は、凜の唐突な問いかけに半ば適当に頷く。凜はこれまでにないほどに輝く笑顔を見せると、

「じゃあ、決まり。そしたら明日の夕方、ここで待ってるから」

とだけ残して、さっさと立ち上がると去っていった。蜜が、自分が彼と約束したことの内容をしっかりと考え直して冷や汗を垂らしたのは、また別のお話。

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