虞美人草の怪談

かずひ@かたひゃく 水塵晶
@kazuhittttt

虞美人草の怪談【中編】

森沢家を出て街灯の下まで来る。

すっかり暗くなってしまった。母親に連絡していないが遥は大丈夫だろうか。

清美の親は放任主義の為、理由を話せば怒るような事はないだろうが。

「遥、送っていくよ。」

これだけ顔色が悪いのだから、帰り道で体調が悪化して少し治るまで待っていたと言っても大丈夫だろう。

「清美さん、逆方向ではありませんか……」

「いーよ、私は。遥、顔色めちゃくちゃ悪いよ?自分でなんかしんどかったりしない?」

「これは………体調が悪いとかではない、ので………。それに、今は家に親もいないので怒られることも…」

遥の父親の短期出張に母親もついて行っている。遥は1ヶ月単位で日本を飛び回る父親の方が自分が1人で暮らすより心配で、母親についていくように自分から頼んだ。

気楽に1人過ごせることを知っているし、実際気楽なのだ。料理もそれなりにできて、悪いからと言って多めにお金を振り込んでもらえて、ホラー映画をリビングの大きなテレビで独り占めで視聴できる。

出張中だと清美に伝えれば、拍子抜けしたような声が帰ってきた。

「なーんだ、じゃあうちきなよ。」

「えっ」

「遥んち行って明日の着替え持ってきて、そんで私んちから行けばいいじゃん!怖い思いしたのにわざわざ1人で寝ることもないよねー」

「えっ、えぇ〜…」

遙が驚いて戸惑っている間に話はどんどん進んでいく。

気付いたら明日の荷物を持って清美と夜道を歩いていた。

「遥はさ、今日1人で寝れそう?私は嫌だなぁ。やっぱり怖いよ」

遥は清美の方を見ない。しかし明らかに動揺していた。

「話しようよ。お互いにどんな事があったか。どうせ明日聞くことになるんなら、私は森沢サンより早く知っときたいな」

清美の恐怖と遥の恐怖ではまったく質の違う恐怖だろう。遥はそれを隠したくて、清美はそれを共有したい。

「私たち、オカルト研究会でしょ。誰かが体験した不思議な出来事を研究するんでしょ。

いつもみたいに話したら少しでも他人事にできるかも。」

清美の言葉に遥はただ頷いた。暗い夜道で表情こそ見えないが、清美の気持ちは伝わったのだろう。

会話少なめに清美の家までたどり着く。

清美の両親に紹介されガチガチに固まっていた遥がやっとのことで話し始めたのは、お風呂まで済ませて2人で布団に潜り込んだ時だった。並べた布団に横向きに寝ながら顔を合わせる。

「なんかお風呂入るのも怖かったよねー」

少し話し始めて相槌が返ってきはじめたことを確認すると、清美は本題にはいった。

「髪とか洗うときに目を瞑るじゃん。その時の背後とか鏡とかなんとなくゾッとしちゃった。リアルで体験すると違うね」

「そうですね。今度から怪談をするときはもっと雰囲気出せそうです。」

「いーよ、これ以上ー」

軽口を叩けるくらいには遥も立ち直ってきているようだ。

起きた事がなくなるわけではないが、必要以上に気負うこともなくなっただろう。

「話せる?」

清美の優しい声に遥は頷く。

「取り憑かれた人が何度も自分の死ぬ瞬間を見て衰弱状態になり、実際に行動に移してしまう。それが虞美人草の怪談の正体だと思います。」

前置きとして、遥は導いた結論を話し始めた。

「取り憑かれる原因……起因が何かは明日森沢さんに確認しないとはっきりしませんが、自殺方法がすべて身投げなのは虞美人草の怪談の本質が身投げで死んだから……」

「虞姫が投身自殺したってこと?」

遥は首を横に振る。

確かに調べても自殺の方法は出ない。そもそも虞姫自体の伝承が少なく、自殺をしたかどうかも定かではないのだ。あくまで通説。怪談になるには弱すぎる気がする。

「詳しくはまた明日以降調べるつもりですが……虞美人草の怪談の1番最初と言われている人は怪談のせいではなかった、と今の所は考えてます。」

「怨みを持って死んだ人が虞美人草の怪談を作り上げた…?」

遥は頷く。それから深く息を吸って吐いて。

意を決したようにもう一度顔を上げる。

「私は2度、森沢さんの死を見ています。」

「1回目は学校…」

「2度目は森沢さんの部屋、ですね。」

「でも森沢サンは助かったって言ってたね。」

遥は首を横に振った。

森沢が助かったと言っていたことは事実だ。遥もよく覚えている。それでも遥は首を横に振る。

「私が森沢さんを見つけた時、彼女は首を吊っていました。その苦しみから逃れようとカッターを使って首ごと切り裂き落ちようとしていたんです。」

「どうしてわざわざそんな事を…」

「痛みを伴う、かつ不可解な自殺を……ということだと思います。通常かなり高いところから身投げをする場合、人は落ちている間に意識を失いますから最初の恐怖さえ乗り越えれば痛みも感じず死ぬ事ができます。」

それを許さないのが今回の事象。

わざと記憶に残るように。わざと同情心を煽るように。

誰かの記憶に鮮明に残る為だけに色々な自殺方法を見せつけるような。

「私は……止められませんでした。駆け寄ろうとしたら、幽霊………といっても良いのかもしれません。幽霊に足を…」

遥は律儀に持ってきていたタオルで巻いた枕に顔を押し付ける。

吸い込まれそうなほど深い闇を抱いた目にあらぬ方向に曲がる関節。その時感じた恐怖がじわじわと遥を追い詰めていく。

清美は遥に、1人で眠れるか、と聞いてきた。

答えることはできなかった。怖い、と感じる自分が信じられなかったから。

例えば清美が同じ事を体験したとして、自分と同じように恐怖しただろうか。

自分が持つ感覚と人が持つ感覚は明確に違う。その差によって、迷惑をかけないだろうか。

1人で耐えなければ。

そう思っていた。

だからこそ、清美から出た「怖い」という言葉に心底安心したくせに、清美を怖がらせてしまったという後悔と果たして本当に同じ気持ちだろうかという猜疑心が湧き上がって、ただ目をそらすことしかできなかった。

(清美さんを疑うなんて、私らしくない。)

断言できるほど信頼しているのだ。

遥は枕から顔を上げて、もう一度清美の方へと向きなおる。

遥が話すまでずっと待っていてくれたようで、布団越しに清美の手のひらのぬくもりを今更ながらに感じた。

心が弱くなると周りが見えなくなると言われるが、まったくもってその通りだと思う。

「足を掴まれたんです。得体の知れない何かに……。怖くて足がすくみました。だから、届きませんでした。」

これから死にゆく目を今でもはっきりと思い出せる。この世に味方はいないのだと諦めきった目。自分がそうさせたのだと繰り返し後悔している。

許されたいのか、窘められたいのか、責められたいのか、同調してほしいのか。

遥は自分の感情がよくわからなかった。

ただこの状態の遥が何を言っても『遥は悪くない』と言われて終わりだろう。同情で救われる感情はどのくらいあるだろう。

そんなものは望んでいなかった。自分がどうしてほしいかは分からないが、同情されて流されて、それで終わるのは耐えられなかった。

いっそ責められたほうがいいのかもしれない。

遥は来るであろう同情の言葉を待って黙り込む。

「そっか、目の前で森沢サンが死んじゃった、か……。」

「……。」

「よく話したね!すごいよ、遥は。」

遥は暗闇で目を見開く。

何故褒められているのだろう。何故同情されないのだろう。

「そりゃ自分が見殺しにしたって思っちゃうよ。もう少し黙っててもいいよ。落ち着くまでそのままで…」

いや、同情はされている。言葉の選び方が違うだけだ。

『かわいそう』『遥のせいじゃないよ』『気にしないほうがいいよ』

他人事のように同情されたくなかった。そうだと気付いた瞬間に、清美の言葉が脳まで届く。

受け入れてほしかっただけだ。遥自身も、自分一人でどうにかできる状況ではなかったと頭では分かっている。

それでも一度飲み込んでほしかった。目の前で手が届かなかったこと、足が止まってしまったこと、自分が見殺しにしてしまったと後悔する気持ちを。

「清美さん、私……あんな風に目の前で人が死んでいくのをはじめてみました。」

声が震えてくる。

「うん…」

清美は遥の背中に手を置いて静かに話に耳を傾けた。遥の鼓動が掌に伝わり、漠然と遥が生きているという実感を比較的穏やかな感情で受け止める。

「足が動かない私の目の前で、ごみを捨てるように簡単に。」

「うん……」

「森沢さんが落ちる瞬間、目があいました。どうして助けてくれなかったのと責められているようで、頭から離れないんです。

なのに、森沢さんは助かったって言いました。ありがとう、とも。」

自分をただ責めるだけの感情に、一滴の白い絵の具が落とされた。

謝りたいという感情も助けられなかった後悔もなかったことにされて、罪悪感だけが遥の中に残ってしまった。

あの世界の事を知るのはこの世界でたった一人しかいないかのように思えて、重い、重い気持ちが鎖で雁字搦めにしたように体を締め付ける。

ふと手のひらを見ても穴など開いていないのだ。至って正常。心だけが磔にされている。

「どう考えればいいのでしょう。どう思えば、救われるのでしょう。重いんです。身体がまるごと押しつぶされそうで…」

遥の話をただ聞いていた清美が急に起き上がる。寝ころんだまま見上げればどこかやる気のないいつもの目ではなかった。光に透けて明るい髪が金色に輝いている。

綺麗だ。その分この世の物ではないようにも思える。

遥はわずかに布団を口元へ引き寄せた。

「遥はなんも間違ってないよ。だからダメ、押しつぶされたらダメ」

「清美さん……」

「あんさ、まだ辞められるんじゃない?これ以上危ない事になる前にさ」

清美の言葉は正しいと思う。それは遥を心配した清美の心からの助言だ。

それに、遥自身も清美をこれ以上巻き込みたくない。

ただそれにも勝る好奇心が消えていないことも確かだ。あれだけ怖い目にあって今もまだ苦しむ自分がいるのに、怪奇に遥自身が出くわしている事実が『退場』という選択肢を鈍らせる。

枕に顎を乗せて何もない壁をじっと見る。

「気になって………寝れやしない…」

勝手に口が動いていた。はっとして口を塞ぐ。

遥は恐る恐る清美を見上げてみた。

呆れられてやしないだろうか。それとも予想通りだろうか。

逆光になって表情は読み取れない。

遥が眩しげに目を細めたのとほぼ同時に、清美はオーバー気味にため息をついた。

「やっぱり??わかるなーそれ!」

「え?」

清美の言葉に遥は間の抜けた声を上げる。

「遥とはちょっと違うかもしれないけどさ、怖い話を聞くと真相を知るまで安心できない…みたいなことあるじゃん?

それにもう巻き込まれちゃってるし、遥も目をつけられたみたいだし……このまま放置しても危険な気がするんだよね!」

「そ、そうですよね…。」

危ないことはやめるべきだ。一般的な意見だと思う。

だからだろうか。清美も当然止めるものだと遥は思い込んでいた。

それなりに清美のことを知ったつもりだったが、遥にとってはまだまだ予想外の動きをする友人だ。思えばたった二人のオカルト研究会にずっと入り浸るような人間だ。

これが当然の反応なのかもしれない。

「清美さん。こうなった以上、私はやっぱり最後まで見届けたいです。オカルトは解決するものではありませんが真相はきっとある。そう思うんです。」

「うん。やろう、最後まで」

危険だと言われて引き下がらないのは自分も一緒だ。清美にだけ危なくなったから関わるな、など言えなかった。

もちろん清美が怪我でもしたら今後ないくらい後悔する覚悟もあった。

それでも。

それでも、と遥は枕元に置いた自分のカバンを引き寄せる。ノートとシャーペンを取り出すと、清美と自分の間にノートを置いた。

「今の私の虞美人草の怪談に関する予想をお話します。」

清美はもう一度寝転んで遥と視線を合わせる。

「今日は夜更かしだね。」

「ですね。」

ひひ、と楽しげに笑う遥。内心ほっとしながら遥のおかしな笑い方につられて清美も真似して笑った。

「取り憑かれた人が何度も自分の死ぬ瞬間を見て衰弱状態になり、実際に行動に移してしまう。虞美人草の怪談で人が死ぬ原理は最初に話した通りです。」

小学生が描くような兎と熊の絵がノートに並ぶ。それに几帳面な字が添えられて中々面白みのあるノートが出来上がっていく。

「……ハードな内容なのにめっちゃ和むんだけど…」

「え、絵は苦手なんですが少しでもマイルドに書こうかと思いまして…」

その目論見はまんまと達成されている。清美はなんとなく身構えるのをやめ、遥に続きを促した。

「この場合、兎が虞美人草の怪談の本質。熊が被害者と考えてください。

怪談の全てがそうとは限りませんが、今回に限って言えば熊側に何らかの隙があってそこを兎につけ込まれた……のだと思います。」

「その隙ってのは…」

「自分がいない現在、または未来…『自分がいない方が良いんじゃないか』と一度でも考える事…」

ノートの上の熊が泣いている。

「兎は虞姫ではありません。虞姫の伝説が本当だとしたら、誰かの死を追いやるような怪談にはならないはずです。

一緒なのは未来を憂いたという点と、そして虞美人草が使われている点…」

血だまりに浮かぶ花。

恐怖で朧げな画面の中で妙にはっきりとその形を思い出す。

とん、とシャーペンを持つ指に触れる気配で、遥は目を覚ますかのように首を横に振った。清美の指が遥の指に触れている。

「とにかく、虞美人草の怪談を作り出した人は他にいたんです。」

血が通った人の手は暖かい。その暖かさに何度も救われる。

「森沢さんを通して以外の方法で兎と接触したい。明日調べることの1点目はこれです。」

ノートに犬が描かれる。1.という連番とともに犬から兎へと矢印が伸びていた。

「犬は遥?」

「清美さんは猫です。」

犬のすぐ下に猫が書き足される。

「怖いでしょうが接触は2人で行います。お互いを意識した方が恐怖から耐える事もできると思いますので……。」

「オッケー。」

遥は1人で突っ走るつもりはないらしい。清美は目を細める。

「2点目は、原因となった心情の確認。」

「森沢さんが取り憑かれた時の気持ち…か………。しんどいね。」

清美の言葉に首をわずかに落とす。

同意と諦め。このまま森沢の事を良かったねと終わらせることもできる。むしろ人道的にはその方がいいのかもしれない。

「今回は助かりましたけど、今後虞美人草の怪談が森沢さんに付きまとわないという確証はありません。

確証が持てたら……放っておいたままのほうがベストかもしれませんが…」

清美は遥に合わせて視線を落とす。

「ぼんやりと検討はついてる感じ?」

「森沢さんの部屋の斜め向かいにご兄弟のお部屋があるの、みましたか?」

首を横に振られる。当然それどころではなかっただろう。

森沢の部屋とその兄弟の部屋の位置関係を示す。新たに猫と犬が書き足されていき、遥は一呼吸置いた後に猫のそばに「妹?」記した。

「森沢さんは妹さんのことで何か思うところがあったのかもしれません。初めて話されて、どう思われました?」

「ん?んー……そういえば、すごい責任感ある子だね」

思い出したのは、森沢が自分が死ぬあの世界に遥が巻き込まれたと知った時だった。極限状態だった森沢が真っ先に口走ったのは謝罪だ。

自分のせいで他人に迷惑をかけた、そう思ったのだろう。異常に取り乱すほどに、そのことを気にしていた。

それが責任感という言葉で片付けてしまっていいのかはひとまず置いておいても、森沢が他人を気にする性質という推察はあっているように思う。

初めて話した遥を巻き込んだ事実でさえあれほど強く反応していたのだから、自分の母親を巻き込んでいると知っていた彼女の心境はどれほどのものだったのだろう。

想像するに難くはないが、軽々しく同情するには壁が厚い。

布団のしわを目で追いながら、清美は別れた時の森沢家の顔を思い浮かべていた。どちらかともなく短く息をつく。

「妹さんのことで家族がつきっきりだった事があるとか、とにかく森沢さんが『自分は家族の邪魔になってはいけない』と常々考えていた可能性はあります。」

「それじゃあ、虞美人草の怪談に憑りつかれる条件って……」

苦虫を噛み潰したような遥の表情。枕に居場所を求めて何度か頭を動かす。

清美も遥と同じように、全身の居心地の悪さを感じていた。

やがて諦めたようにもう一度短く息をついて清美の方を向く。

「虞美人草による幻覚……いえ、夢を見るようになるきっかけ……それは、一度でも自分はいらない存在なんじゃないかと感じてしまう事。」

「森沢サンが母親が自分の事を心配してるとはっきりと分かったから、これ以上の現象は起きない?」

「恐らく…。希望的観測かもしれませんが。ただ……」

言いかけて遙は天井が見えるように寝返りを打つ。壁紙が貼られた天井には星が散らばり、清美の部屋とは思えないほどメルヘンチックなものであった。

聞けば親が子供の時に設計時に貼ってくれたものだとか。

「羨ましいです。」

そう笑う遙の表情は安堵のそれだ。

「笑わないんだ?」

「何故です?親御さんの愛情を笑ったりしません。大事なのは清美さんが親御さんの愛情を信じているかどうかです。

虞美人草の脅威はそれだけで防げますから。」

なるほど、そう呟きながら清美は同じように天井を見上げる。

「虞美人草の本体がこれからどのように動くかは想像がつきません。だから、戻れるように心の準備をしておかないと…」

「本体ねぇ…」

遙が夢の世界で襲われたと言う虞美人草の本体。意思を持って邪魔をする者を排除するべく姿を現したのだろうか。

遙の考えを聞きながらぼんやりと清美はその姿を想像するが、途方も無い非現実な生き物の形を思い描くほどの力は自分にはないようだ。遙にもう一度聞いて寝る前に恐怖を思い出させるわけにもいかない。

清美はもう一度遙側に寝返りを打った。

「すー…」

「い、いつの間に寝たんだろう…」

起き上がって布団をきちんとかけ直して、遙の寝ている顔をじっと見た。

安心出来ているのだろう。寝る事ができているのだから。もちろん疲れもあるだろうが。

「………眠ってる時くらい、嫌な事は忘れなよね。」

もう一度天井を仰ぐように倒れる。

(私はあの夢の世界に行っても大丈夫かもしれない。でも、遙は?)

自信があるのかもしれない。一人で無茶して突っ走る事はあるが、本当にできない事はやらないタイプだ。

いざとなれば今まで通り清美が引っ張り出す事もできるだろう。そう安易に考えて無理矢理安心する。

心の中が霞がかったようだ。

思考をどう着地させてもそれは晴れる事はなかった。

やがて疲れが勝って清美も暗闇に沈んでいく。

喉元に刺さる小骨を取り払わないままに、深く、暗く。

まるで落ち窪んだ誰かの目のような暗さに。

まるでひしゃげた体躯のような違和感のある世界に。

引きずり落とされながらも自分は夢の中に入ったのだと清美ははっきりと分かった。

明晰夢と言うには自由がない。

やがて落ちる勢いが急に止まり目の前にはだだっ広い土気色の地面が広がった。どうやら這いつくばっているらしいが、起き上がる事はできない。いや、本来動かせるはずの場所に手がない。

足と肩をつかって僅かに前には進めるが、状況を確かめるには至らない。

気持ちが悪い。こんな身体で何故まだ生きているのだろうとさえ考えてしまう。

消えたい。消えてしまいたい。

(だけどそれじゃあ……この胸につっかえたままの気持ちはどうするの。)

清美の意思とは関係なく思考が進む。

土と鉄の味。本来の味覚ではなく脳内で味がしたかのように錯覚する。

(誰かに押し付けられるなら……この苦しみを誰かが持ってくれるなら…)

土だと思っていた地面は脳がみせている映像らしい。ふと自分の目が見えていない事に気付く。

滲むように現れたのはスーツを着た女性だった。顔がない。全身に切り傷を受けて、足は打撲のせいか青黒くなっている。

口元を抑える手も動かすことができず、清美は見たものに対する素直な反応を胃の中でぐるぐると消化し続ける。

(……あの女だ。あの生きた女に全ての苦しみを…)

また視界が変わった。

床だ。周囲には可愛らしいぬいぐるみが飾ってある。窓からの風を感じながら、清美はまた床を這う。

もはや自分の意思ではない事は重々承知していた。ただ見せつけられる為だけに存在する。あるべき場所に帰ろうとしても、やはりこれは明晰夢と違い自分ではコントロールできないらしい。

(あの女……邪魔をした……私の器をタスケタ…邪魔だ…邪魔な女…………あいつも私を……)

考えたつもりもないのに脳に声が響く。あいつとは誰のことだろう。

見覚えのある制服が滲み出す。

きっちり着込まれたブレザーに濁りない黒の髪。

次第に心臓の音で頭がいっぱいになっていった。

歪んだ首が捉えたその姿に清美は心臓と化した脳を必死で取り戻そうともがく。

痛い。全身の打撲の痛み、血を失う感覚、生きている心地の喪失、全てひっくるめて痛かった。

それでもこれだけは。あの子だけは。

叫ぶつもりで喉を開く。

折れた箇所から血が噴き出したかと思うほど目の前が真っ赤に染まっていった。喉を掻っ切るとこんな風景なのだろうか。そんな考えが脳裏を過って清美は確信した。

自分の思考がコントロールできるようになっている。

身体は依然身動きが取れず床を這うだけの生き物だが、思考ははっきりとしてきた。

目の前の漆黒の大きな瞳が恐怖に歪んでいる。嫌だ、そんな顔は見たくない。

(あの子はダメ!やめて!!)

叫んでいるつもりだ。たとえ血が出ようとたとえ痛みで目の前が白黒になろうと、捻じ曲げるまでは。

この化け物の 矛先を変えるまでは。

「ダメ!!!!遙はダメぇぇぇぇぇぇ!!!」


自分の声で清美は目を覚ました。背中を伝う汗が気持ち悪い。

息を乱しながら周りを見渡すと、自分の見知った部屋と寝ている遙が確認できた。重く息をつく。

遙が苦しんでいる様子はない。おそらく清美と同じ夢は見ていないのだろう。

(本当に夢……?)

痛みも恐怖も現実味を帯びていた。俄かに夢とは信じられず、遙を揺り起こしてみる。

「……遙、…はるか………」

「……ぅ…、清美さん?」

遙はずっとここにいたらしい。となるとさっきのはやはり夢だったのか。

「ごめんね、起こして。不安になる夢見ちゃってさ。」

深い呼吸の音。

余程恐ろしい夢をみていたのだろうか。遙も身体を起こして清美に向き合う。

遙の黒い瞳が月明かりで少し浮かんでいた。清美の明るい茶色は、今は月の影で落ち窪んだように漆黒だった。

「どんな夢だったんですか?」

努めて優しい声になるように、聴く者が落ち着くように話す。

沈黙の後、清美は首を横に振った。

遙はずりずりと膝を床に滑らせて清美の隣に座る。自分も月明かりを背にして、部屋に落ちる影を見つめた。

何分か、体感的には何十分と二人して影を見つめる。先に口を開いたのは、珍しく遙だった。

「当てましょうか…?」

「うん………」

素直な返事の後、今度は遙が深く息を吸う。ゆっくり吐き出しながら膝を抱えた。

「兎が犬を殺そうとした…」

恐ろしい程冷静な声だった。自分でも意外で口元だけ笑む。

「こ、殺してない…!…から……」

一方で、清美は遙の方へ身体ごと向き合う。

日本語のおかしさに気付いたのか、まだ混乱しているのか、月明かりで半分照らされた清美の顔から焦りの色は消えていなかった。

遙も笑みを止めて目を細めて、膝を抱えたまま顔だけ清美に向ける。

「ありがとうございます」

清美の使った言葉でなんとなく内容を察したらしい。

しかし清美は頑なに首を横に振る。

「ごめん…遙を殺そうとしたのは私じゃないって言い切れない。言い切るには……リアルすぎた…」

遙を邪魔だと考えた脳はまだ白い靄がかかったようで、この身で遙を葬ろうとした事実だけを強調する。

「清美さん、大切なのは結果です。

あなたは拒絶して目を覚ました。そして私の安全を確認してくれた。それだけで十分です。」

「……ほんとに夢だったのかな…」

「夢だと思います。でも………、ある意味では正夢になるかもしれませんね。」

恐ろしい事を平然と口にする遙に清美はだんだんと自分の思考がはっきりとしてきたのを感じた。当事者が落ち着いている以上、自分が混乱する必要はない。

「遙は狙われるってこと?」

「狙われたとしても助かるということではないでしょうか?」

「……………。そっ……かぁ…」

いけしゃあしゃあと自分の生を信じる遙に、清美は脱力しながら後ろに倒れこんだ。

布団が引かれていないひんやりした床がこの時期心地よい。同時に頭が冷えていくのを感じた。

「ねぇ、虞美人草の怪談の夢ってさ…」

「はい……」

「誰かが自分の事を大切に思ってくれてるってはっきりと分かってれば避けられるんだよね」

「そうですね。そもそも寄ってこないと思います。ただ今回は特別に私にターゲットが来るかもしれませんが……」

「んー…その点ラッキーだったとしか…」

おそらくその夢の中に入っても2人がお互いを信じていれば死ぬことは回避できるのだろう。

「今何時だろ」

今考えても仕方がない。そう思いながら時計に手を伸ばす。ボタンを押して表示画面を明るくするとまだ遙が寝落ちしてから1時間も経っていないようだ。一炊の夢とはいうが、実際に体験するのは初めてだ。

「寝よっか。まだ3時間くらいは寝れるし…」

清美の家からだと学校まで10分歩くだけで着く。7時に起きても余裕で準備できるだろう。

「大丈夫ですか?」

「ん?うん、多分大丈夫。遙と話して安心したら眠くなってきたし。」

そう言いながら口元まで布団を被る。遙も真似して寝転んだ。

「今度もきっと大丈夫です。私も清美さんも……」

最後の方は消え入るような声だ。はやくも眠りの世界に入ったのだろう。

疲れているにしても寝付きがいい。元からだろうか。

そう考えているうちに清美も少しずつ眠りの世界に入っていく。遙も自分も安らかに眠れるように、そう願いながら。



次の日の赤江家の朝は騒々しかった。

清美は仲が良い友達も多いが家に連れてくることはなかったらしい。元からパーティ好きで人が泊まることを大歓迎するタイプの清美母に食べきれないほどの朝食と弁当まで貰ってしまい失神寸前の遙。

清美はというと止められないことを悟ってかとりあえず小慣れた様子でそれを眺めていた。

学校へ行く時間が差し迫ってやっとの事で解放されて二人して学校へ急ぐ。

「おつかれおつかれ!」

「こんなに歓迎されたのは初めてです…… 私、誕生日なのかと思いました。」

ははは!と楽しそうに笑い飛ばされて遙もつられて笑う。嫌だったわけではない、と付け加えてすでに高く上り始めた太陽を掠めるように上を見上げた。

「昨日のことがただの悪い夢のようだと…思ってしまいました。」

「そーだね……」

「とりあえず昼休みまではお互い普通に授業を受けましょう。森沢さんにはその時に少しだけお話を聞いて、放課後図書館で調べ物をします。」

頷く清美を確認した後、何気なく、後から思えば誘われるように通り過ぎた電信柱の影を見やる。

そこには確かに誰かいたという確信があるのだが、実際その姿は見えなかった。良いものではない。そんな予感に頭を過ぎる昨日の影。

先を急ぐように清美より半歩先を歩き出す。

朝の日差しに透かされた黒い細い髪が半歩先で揺れている。人の後ろを歩きがちな遙が前を行った事で、清美も習って少し先を急ぐ。

学校に入ってしまえば、その日常感と喧騒に悪いものを忘れられるはずだ。

逃げるように学校の門をくぐって、言葉少なくそれぞれのクラスへ別れる。遙は早足のまま廊下を進んだ。

登校時間がいつもよりも遅かったせいか、廊下に人が多い。学校に入ってから悪いものの影もなんとなく付いてきていないような気がした。

教室の扉の前で時々無意識に止めていた息を吐き出して、遙はようやくゆっくりと辺りを見回した。

ここは日常だ。友達とふざけあったり一人静かに本を読んだり、朝から部活をしていたり。声が多い場所は暗い悪い物を覆い隠す。

その事を遙は知っている。

そそくさと教室に入って自分の席に座った。

いつもの風景にいつもと違う人だかり。教室のちょうど真ん中くらいにクラスメイト達が集まっている。

(森沢さん、来れたのですね。)

それは森沢の席だ。隣には依頼者でもあった水上も嬉しそうに座っている。

普段なら近づきもしないその人だかりに自分から近づいていって、下をくぐるように森沢の正面に入った。

クラスメイトに若干のどよめきが起き、次いで、じゃあね、無理しないでね、などと森沢に言葉をかけて人だかりは消えていった。

「お昼休みにお話があるのですが…」

遥は通常運転で話を続ける。森沢は遥の言葉に頷くと、水上の方を少しの間見つめた。

「朋絵も一緒に居ていい?」

視線を遥に戻す。

「私は、…構いません。内容が内容ですから、森沢さんが決めてくださる方が。」

「朋絵…、ちょっと怖い話になるかもだけど居てくれない?」

森沢がもう一度水上の方を向くと、水上は笑顔を向けた。それは遥にも向いている。

首を傾げながらその笑顔を横目に、事の成り行きを見守った。

「大丈夫だよ。昼休みに用もないし!」

邪気のない笑顔だ。日常から切り離された昨日とは全く違う、それはとても眩しくて何気なくて不安定でさえあった。

話はまとまった。

遥は予鈴がなる前に席に着く。

(森沢さんの側にいるのを先生に見つかるわけにはいかないですよね…)

我ながら素行はいい方ではない。

成績も優秀で宿題も欠かさないようにはしているが、授業中答えを解答するよう言われたとしても声が小さくて怒られ、オカルト研究などという教育に影響が出そうなサークルを立ち上げている生徒だという自覚はある。

あらぬ噂を立てたなどと職員室に呼び出されては時間を食うというもの。

身から出た錆とはいえ反省するつもりはさらさらないが、昼休みにしろ放課後にしろ時間を取られては行動が出来ない。

がらりと扉が開いた。素知らぬ顔でいつも通り外の世界を眺める。

森沢が戻ってきた事で少し嬉しそうな声。担任としては実に良い教師だとは思っていた。

とはいえ今は授業だとか担任の機嫌がどうだとか、そんな事はどうでもいいのだ。

清美が言っていた夢の事を考える。

(なぜ清美さんがあれの夢を見ることになったんでしょう…。私と清美さんがリンクした……?いや、怪談の本質は私と繋がろうとしていたはず。)

思えば最初に森沢のあの世界に巻き込まれた時も遥1人だった。怪談の本質は森沢越しでしか遥と接触したことがない。そして虞美人草の怪談の性質上、今もまだ遥に直接繋がることはできないだろう。

彼女が引き寄せられるのは『死を望んだ人間』だけなのだ。

(意識下で私を守りたいと思っていた清美さんが、どうにかして私の夢に入るはずのあれの障壁になったのでしょうか…)

これは都合がいい考えかもしれないが、思考回路の穴をすとんと塞ぎ次の思考へと駒を進めてしまった。今はこの結論を是として進めるべきか。

授業の内容はまったく頭に入ってこなかった。途中教師に当てられただろうか。その記憶さえ曖昧だ。いつも隣のクラスメイトが教えてくれる為助かっているが今日はそれにさえ気付いたかどうか分からない。

思考は深く潜り、いくつかの答えを導き出した。

そして午前の時間はあっという間に終わってしまい、教師が教室を出ると同時に遥は森沢の元に向かった。

「お昼だと美術室が空いていますので、そこで待っていてください。」

昼休みに解放されているものの、ほとんどオカルト研究会の昼休みの集まり場になっている美術室。放課後はさすがに部活をしているようだが、昼休みは使い放題だ。

実際は美術の教師がオカルト好きの為、気を利かせてくれただけなのだが。時折教師も混ざって秘密のオカルト談義をしている。清美と遥、そして美術の先生だけの秘密だ。

といっても今回はさすがに怒られる可能性があるため、話に混ぜるわけにはいかないが。


遥は清美を呼びに行くため、森沢に声をかけた後すぐに教室を出た。

いつになく機敏な遥の姿は、なんとなくクラスメイトの視線を集めている。森沢と水上もそんな遥の後ろ姿を見送ってから教室を出た。

その遥は早足で清美の教室に向かっていた。頭の中で何回も清美を呼んでもらうシミュレーションをしているが、一歩近づくたびに心臓の音が大きくなって息苦しい。

扉を掴んで開ける決心がついた頃には、指先まで心臓になってしまったようだった。

「あ、遥!!」

廊下側から清美が遥に呼びかける。

反射的に扉から手を離し、遥は半歩後ずさって清美の方へ向き直した。

「出て待っててくれたんですね。」

「こんなところで遥が疲れる必要ないしね。気づくの遅くなってごめん」

清美のこういった素直なところが付き合いやすい。

遥が首を横に振りながら感謝の意を伝えると、人好きする笑顔で清美は返してきた。

2人どちらともなく歩き出す。

美術室までは真っ直ぐ行けば5分と少し掛かるくらいの距離だ。だが遥は意識的に歩幅を小さくして遠回りの道を選ぶ。

森沢や水上には言っておいたのだが、美術室で話す前に清美に話しておきたい事があるのだ。それを察して清美も遥から半歩遅れて歩く。

「朝、なんとなく悪いモノがついてきている感じがあったのですが……清美さんはどうでした?」

遥が少し早く歩き出した時のことだと思う。

思い出してみても、清美にはそんな気配は感じられなかった。

「いや、私は特に感じなかったかな。遥が早く歩き出したからついていったけど」

「そうですか…良かったです。」

本心からホッとしたように遥の声は落ち着いていた。

「この学校、…いえ多分下駄箱…?その辺りからぱったりと気配がなくなったんです。」

「人が多いところを嫌ったとか?」

「んん…どうでしょう……。まるで壁があって進めなくなったみたいに、瞬間的にいなくなったように思いました。」

人が多いことや活気があることに気付いて去ったのだとしたら、もう少し残滓があって良いはすだ。

「なんだろ、結界的な?こんな身近にそんなオカルティックな事あったのかなぁ…」

清美は首をかしげるが、概ね遥も同じ考えだと言う。

「この学校、妙にオカルト関係に厳しいですよね?もしかしたら何かあるのかもしれません。」

とはいえ、それを調べるのは今ではないだろう。

「とりあえず本当に危険なことになりそうなら、校舎内に逃げ込もうって事ね。」

「はい。」

清美が代弁してくれた言葉に頷いた後、今度は携帯の画面を見せる。

「なに?」

「色々調べていたのですが…」

「また授業中携帯触ってたの?ほんと、よくバレないよねぇ…羨ましい」

さすがに慣れてきたが、最初の頃はいつか遥が怒られないかとヒヤヒヤしたものだ。遥の授業態度の悪さは清美には真似できないレベルだ。清美は見た目の派手さも手伝って、授業中などは特に目をつけられているから仕方がないのだが。

遥はその真面目そうな外見と、テストの点数で教師の目を逃れているらしい。

ぼーっと窓の外を眺める事を注意されても、ノートや本を凝視していると見せかけて携帯で調べ物をするのは意外にバレないのだと、本人から聞いた事がある。

「私の特技かもしれないですね。自慢できたものではないですが…」

苦笑しながら清美が遥が示した画面を読み終わるのを待つ。

「虞美人草の元になったかもしれない事件?」

「そういう情報に詳しい方がいて、私の考えを話したら教えてくれたんです。」

メールでのやり取りをしているのだろう。なるほど、遥が異様にオカルトに詳しいのはその人のおかげらしい。

「虞姫の伝説と花言葉、そしてその事件の内容……。全て合わせて考えた私の結論を言いますね。」

聞きたいことはあったが、清美は今は黙って遥の言葉の続きを待つ。

携帯を受け取りながら、遥は直線上に見えた美術室の扉を見つめていた。

「誰かに愛して欲しい……。虞美人草の怪談は、強い承認欲と悲しみを持って『死にたい』と思った人が取り憑かれてしまう怪談。取り憑かれた人は、人に忘れられないような酷い自殺の幻を繰り返し経験させられます。自我が崩壊し自ら命を絶つまで、怪談の脅威は続く……といったところでしょうか。」

虞美人草の怪談の本質となった事件は、1人の女性の自殺だった。ベランダで頚動脈を切った後、人通りの多い道に落下したという。目撃者は元カレと多数の通行人、それに家族だった。

女は虞美人草を握りしめていたらしい。

「花言葉は色々ありますが、彼女は白い花とオレンジの花を握っていたそうです。」

怪談だからといって、虞美人草が意味するところは複雑なものではない。むしろ本質となった女性が調べた程度の内容が具現化してるといえる。

「白い虞美人草は、『忘却』」

「虞美人草自体の花言葉に『別れの悲しみ』ってあるね」

清美も調べたらしい。遥の言葉を引き継ぐように続けると、無言の同意が返ってきた。

美術室の前までたどり着いた2人は、足を止めて深呼吸をする。

「どこまで話そうか…」

「原因と、対策だけ…でしょうか。詳しいところは伏せましょう。申し訳ないですが、虞姫のせいにするのが一番だと思います。」

虞姫にとってはとんだ濡れ衣だ。それは2人にもよくわかっているが、本質となった事件の事まで森沢が知ってしまうとショックが大きくなるだろう。

「オッケー」

言うと同時に清美は美術室の扉を開ける。

森沢と水上は一足先に来て、弁当も食べずに待っていてくれたようだ。

「待たせてごめんね!ま、食べながら話そうよ。かたっ苦しいことは抜きにしてさ」

清美が遥の代わりにのびのびとそう話せば、森沢も水上も少し笑みを見せて席を詰めてくれた。

森沢と水上、2人にとっては清美の存在は異質に感じるだろう。所謂、グループが違う、というもので。

昨日今日でそのイメージは覆っただろうが。

むしろクラスメイトにも関わらず、清美の後ろで相槌を打つ遥の方が普通なら話しにくい。

ともあれ比較的和やかな昼食会が始まったことに変わりはない。

「じゃあ、んーと…何があったか聞かせてくれる?」

会話の口火を切ったのは水上だ。

助かった、そんな気持ちで清美が頷く。

「一応予想してたとは思うんだけど、森沢サンが学校を休んでいたのは虞美人草の怪談のせいなの。この街ではまだ噂レベルだったけど、運悪く巻き込まれてしまった…。」

あくまでも森沢のせいではないと言外に示す。遥も大きく頷いて、やや前のめりになって話し始めた。

オカルトスイッチとでも言おうか。いつもは自分から話したりはしない遥の珍しい行動に水上と森沢が目を丸くしているのが清美には面白かった。

「怪談なんてあやふやなものです。本当に噂のものもあるし、噂の力を借りて人に害をなすこともある。そんなものなんです。

虞美人草の怪談は、たくさんの被害者と多くの人の口を通してこの街までたどり着きました。たまたま条件の一致した森沢さんが被害にあい、学校を休まざるを得なかったんです。」

「その条件って…」

森沢が口を挟む。薄々勘付いているだろうに…。遥はその気持ちを察しながら改めて森沢に向き直った。

「誰かを羨ましいと思う心……、この世に自分は要らないのではないかという心、でしょうか。寂しさにつけいるのが、虞美人草の怪談の本質です。」

水上の方を向く勇気はない。森沢にとって水上がどれだけ大切な友人だとしても、ほんの一瞬、水上が居ないところで抱いたその気持ちに付け入れられたのだとしてもだ。

そしてその事をこの場にいる全員がわかっていたとしても、だ。

森沢以外が森沢の気持ちを代弁できはしない。

時計の音が美術室に響く。弁当を食べる手は止まり、やがて穏やかな街の音が聞こえてきた。

「妹が身体弱いのは知ってるよね。手のかからないお姉ちゃんでいなきゃって思ってたからなぁ…。やっぱそれが原因だよね。」

声は明るい。これだけ明るく振る舞えるようになるまで、昨日どれだけ練習しただろうか。普通に振る舞えるようにどれだけ掛かったのだろうか。

「死にたいまで考えてたのかな…。今はもう覚えてないけど。

心配してくれる友達もいるのにね!ほんと、………ごめん」

途中まで勢いよく早口で話す森沢の気持ちは、遥には痛いほどわかる。ずっと死にたいなんて思い続けていたわけではないのだ。

ふとした瞬間に、それは深呼吸をするのと同じくらい意識的で、常に気持ちの奥深くに沈んでいるものかもしれないもの。

森沢だけではない多くの人が持っていてもおかしくない気持ちだ。ただその気持ちは一時的なことで、森沢が例えば虞美人草に取り憑かれていなければ、次の日には忘れていたかもしれない気持ちだ。

その瞬間だけの気持ちにつけ込まれた。

それを無理矢理こじ開けられた。

そして遥も目撃した、自ら死を選ぶ幻を見続けることになったのだ。

森沢が今、早口になっていたのは恐怖心を隠したいからで、謝るのは自分のせいにした方が楽だから。

遥はその気持ちがよくわかる。

それでも水上は森沢の影に覆いかぶさるように前のめりで話をする。

「いや、そういうところだよ。裕ちゃん!

私にまで悪いなって思っちゃダメ!家族は家族、友達は友達じゃん。友達いたって寂しく思う事はあるって。私だって裕ちゃんいるけど恋人できなくて寂しいからね?」

「いや、それはまた別じゃない?」

ちち、と外で鳥の声がする。遥がつられて外見ると。そこには見事な青空が広がっていた。

どこまでもこの青空は続くんだ、そんな夢にあふれた主人公のような事は考えないが、自分の見える範囲くらいはこの平和な瞬間を青空で飾ってほしいとは思う。

それと共に校庭で自分が見たものを思い出して、遥は身震いした。この教室が校庭に面していなくて良かった。

森沢と水上はもう大丈夫だろう。森沢は家族が自分のことを考えていてくれることに気がついているし、水上も事情を知っているから相談相手もいる。

遥と清美は少し視線を合わせて頷きあった。


「2人はこれからどうするの?」

和やかな談笑が一通り終わった後、水上がまた尋ねてきた。

「んー、いやまぁ…この件は解決したし、いつも通り放課後ホラー談義するかなぁ」

まさか怪談の矛先がこっちに向いたとも言えるわけがなく、清美はさらっと嘘をついてみせる。

遥の顔に出る前に先手を打って良かった。明らかにほっとしたような息遣いを隣から感じて、清美はすまし顔が引きつってしまわないように笑いをこらえる。

「好きだねぇ。でもなんか、オカルトってこうして実感してみると危ないし、気をつけてね?」

「うん、そうだね!それは気をつけるよ。」

水上の言う事は正しい。清美は笑って言うが、実際今回のように危険な目にあう可能性があるのが霊的現象などの欠点だろう。

遥の表情が曇る。

本当は清美もこれ以降自分に関わらせるべきではないかもしれない。

(でも好きな気持ちは否定できないですよね…。私がオカルトの話を探求する事を辞められないように、口で言ったところで清美さんが辞めるわけがない……)

当事者であった森沢はどう思っているだろうか。何気なく視線を森沢に向けようとする。

「っっっ!」

しかしその視線が森沢を捉える前に、背筋を撫でるような冷たい風が遥の後ろを通り過ぎていく。

いや、正確にはそんな感覚があった、というだけだ。それでも遥が立ち上がって椅子を倒すには十分な衝撃で、一斉に集まる視線にも気付かずに窓の方へ駆け寄った。

清美が後に続いたのを肌で感じながらも、それどころではないと視線だけで外をあちこち追いかける。

中庭には何もなかった。

森沢と水上は見たことのない遥の機敏な動きに呆気にとられているようだ。

「ここから、ここから一番近い……校庭が見える場所って……」

早口が遥の焦りを象徴する。

渡り廊下のお陰で5分で移動できる美術室だが、遠回りをしてゆっくり歩けば10分かかるほどには少し離れた位置にある。校舎自体も離れのようなものだ。

校庭からは見えない。

地図を指して中庭側、といえばだいたいの人は分かるかもしれないが。

遥は焦りからか頭の中にうまく地図が描けていないらしい。

清美は遥の背中に手を置きながら質問に答える。

「窓越しがいいなら渡り廊下使って教室棟に戻った方が早いよ。」

背中に置かれた手がゆっくりと上下する。

その動きにつられるようにして遥の呼吸が整っていった。

「森沢さん、水上さん…少しここにいてください。」

いつも通りの口調に少しだけ焦りを滲ませて、遥は早足に美術室を出ようとする。清美が再び後につくが、それは特に止める様子はないようだ。

水上と森沢の返事を聞いて、走って目的の場所に向かう。

「どうしたの、遥!」

周りに人がいない事を確かめて、清美がそう聞けば、遥は青い顔をしながらスピードを落として横に並ぶ。

「森沢さんの方を見ようとした時、朝感じた嫌な気配がしたんです…。学校に入れないことを想定すれば、もしかしから校庭にいるかもしれないと思いまして……!」

「遥、今回の経験で霊感ついたんじゃない?」

「願ったりかもしれません!」

たしかに声がはしゃいでいる。顔色と声色が全く一致していなかった。

それでいいのかと一瞬まともに考えたが、遥が喜んでいるから良いのだろう。

「でもどうして森沢サンの方を見ようとしたら気配を感じたのかな?急に湧き出すことってある?」

前例を知らないだけに、どの発想も突飛ではない状況だ。

「私が最初に虞美人草の幻を見たのは校庭でしたよね?虞美人草の幻は、幻の中心となる本人……今回だと森沢さんの命を心配した人まで巻き込むものなんです。」

息が上がってきた。

校庭が見える窓はすぐそこだ。

「森沢さんに取り憑くのは辞めたけれど、もしその余波が残っていたら?」

遥はある窓の前でぴたりと止まる。言葉も止まってしまった。

昼休み、全力で球技に興じる一部の生徒と穏やかな街が視界に飛び込んできた。息を整えながら、校庭を隅々まで見る。

いや、穏やかだと思ったのは一瞬だけ。

その中心、つまり校庭の中心はどす黒いモヤのようなモノの吹き溜まりになっていた。

「これは想像ですけれど、私は森沢さんの幻に巻き込まれていて、森沢さん越しにアレの影響範囲の中にいます。」

清美もあの黒いモヤが見えているという確信があった。震えを止めるようにぴったりと寄り添う。

「そして清美さんは私を通してアレの影響範囲に……。」

「他の人が見えていないのは、影響を受けていないから?」

「えぇ。

清美さん、戻りましょう…。見つかっていないようですし、長居する理由もありません。」

「だね。」

森沢も心配だ。幻を見るほどの影響は受けてはいないのが救いだと思う。

足早に美術室まで戻る。

それから後のことは段取り通り進んだ。

表向き明るく取り繕う遥の頑張りもあって(むしろその事が余計な心配をさせたような気もしているが)昼休みも早めに解散する事ができた。

「森沢さん」

用があるといって清美と遥は美術室前で森沢と水上を見送ることにする。

教室に戻ろうとする2人の背中に、弱々しい声が届いた。

追って、緊張したような照れたような遥の声がこの時間誰もいない廊下に響いた。

「忘れないでくださいね。あなたの味方はたくさんいますよ」

言葉の選び方が合っているのかどうか、それは遥にも分からない。伝われば、とは思う。

森沢は水上、遥、清美、そして家のある方角に順番に視線を向ける。

やがて昨日今日と今まで見る事ができなかった笑顔で答えた。

「オッケー!忘れないよ!」

もう大丈夫だろう、そう信じられる笑顔だった。

教室に戻っていく2人を見送って、その背中が見えなくなった頃。

遥がため息をついた。

「森沢さんはもう大丈夫でしょうが……、私への影響は森沢さんと虞美人草の繋がりが完全に消えるのを待つしかないですね…。」

「それなんだけど、森沢サンを通してなら虞美人草と接触できるってこと?」

美術室はがらんとしていて居心地がいい。

「試してみないと実際のところは分からないんですけれどね。」

昨夜虞美人草の説明に使ったノートを取り出して、遥はまた緊張感のない動物を描き始めた。

「兎は熊を襲っていました。熊にはまだ兎の爪痕が残っています。その状態で私……犬が熊の心配をしたとしましょう。

一番最初、校庭で幻に巻き込まれた時と同じです。兎は犬まで影響を及ぼすことができる…。」

「そっか。森沢さん…や、熊はもう死んでしまったかもしれない、とか熊が幻を見ていないだろうか…を考えればいいわけね。」

「さっきもそうだったと思うんですよ。一番虞美人草と関係が深くて、影響を受けやすい森沢さんを私が心配したから、校内の……謎の結界?的なものを突き破って私への殺意を向けることができたんです。だと…思います…。」

要領を得ない話だ。これだけ非現実的な現象を目の当たりにしているのだから、要領を得ない方が一高校生として正しいのかもしれないが。

遥はペンを置いて窓の外を見た。ここから見えるのは中庭。今にして思えば神聖で、妙に空気の澄んだ場所だったように思う。

好奇心が頭をもたげるのか、口元が緩んでいる。遥は意味もなく咳払いを一つした後、清美に向き直った。

「放課後、少し調べ物をしたら早く帰りましょうね。」

「そうだね。あんまりあいつと関わるのもよくないし…。でもお互い1人の時にあいつと会っちゃったらどうする?」

支配するのは沈黙。ほんの少し森沢を心配しただけでこれだけの影響を受けるのだ。昨日の今日でまったく考えるな、という方が無茶というもの。

学生達の声が聞こえてくる。街の音も鳥の声もだ。次いで聞こえたのは、ごくり、と生唾を飲み込む音だった。

「誰も巻き込まないように私達2人だけで入れる場所、知って、ますよ?」

指がこそこそと円を描く。清美はその意味のない手遊びをなんとなく目で追った。

「わ、私の家なんですけど……」

「そっか!!ご両親今はいないんだもんね!!」

遥の申し出に食い気味に飛びついてきた。

「昨日は私んちで今日は遥んちかぁ〜。なんかいいね、連続お泊まり会だ。」

「嬉しそうですね…」

遥の緊張などなんのその。清美はこの状況でも泊まりの事を楽しみにしている。

たしかに放課後すぐに実行に移したとしても夜遅くなる可能性の方が高い。明日は休みである事を鑑みても、今日は遥の家に泊まる方がいいだろう。

まず友人の家=泊まる事ができる、という発想が前提である事が清美の家族の育て方がよくわかるポイントだ。

生憎、遥は清美が遥の家に行けることを素直に喜ぶ清美に照れてしまってそれどころではないが。

「では調べ物の後、清美さんの家に寄りましょうか。」

「そうね。あ、そういえば調べ物って具体的に何を調べるの?」

虞美人草の本質については、遥の知り合いから得た情報も含めるともう調べても出てくる情報はないだろう。

清美の問いに少し視線を泳がせる。

「端的にいえば、除霊方法…でしょうかね。」

除霊は出来ない、と自分で言っただけに遠慮がちな声だ。清美も不思議そうに首をかしげる。

「付け焼き刃ですけど、まぁ自分の身を守れるものくらいは用意した方がいいかと思いまして。」

「そりゃそうか…。塩撒いとけー、みたいなことね?」

その後放課後の簡単な打ち合わせをして、2人は午後の授業に戻ることにする。

清美に授業を聞くように釘を刺されると遥は少し笑うだけで約束はしなかった。

遥の自分に正直なところも付き合いやすい理由の1つだが…。自分たちの正反対な容姿と性格は毎日一緒にいても面白いものがある。 清美がその程度にしか思っていないのがわかっているのか、遥もしらばっくれるだけだった。

清美の教室にたどり着く頃、ちょうど予鈴がなる。

「じゃあ遥……とりあえず授業中は森沢さんのこととか考えたらダメだかんね。ここは校庭も近いし」

「はい。いつも通りオカルトのことを考えてますね」

「……勢いで虞美人草の事考えすぎないようにね?」

授業に集中するのが1番の回避方法じゃない?そんな言葉を飲み込んで、清美は笑う。 遥の言葉は予想通りだ。

ひとしきり笑った後、2人は放課後改めて清美の教室前に集合してから図書室に向かうことを約束する。

立ち去る遥の後ろ姿を、見えないものを見ようとするように目を細めてみた。

揺らぎを感じる。といえばいいだろうか。

霊感があるかどうか、それはこうなってしまった今関係はない。今2人の日常は歪んでいる。見えないものが見える世界にいる。

(遥は、オカルト的現象に実際に遭うのは初めてだって言ってたけど、多分それは嘘……)

清美は陽のあたる自分の席に座りながら思考を巡らせた。遥と同じように午後の授業は上の空だ。

(嘘ってか、オカルトに興味を持つ前だったのかも。私と同じで……)

校庭には体育教師が仁王立ちで立っている。等間隔に並ぶハードルをゴムのような動きで乗り越える生徒達。自分や遥が同じ動きをしているイメージはまったく頭に浮かんでこないが、上から見下ろせばこんなものなのだろう。

清美の思考は複雑だった。日常と非日常が交差しあってぼんやりする。清美は短く嘆息した。

清美も遥も特別な人間というわけではないのだ。今この状況にいるのは、怖い思いをした後に引き下がるのか食らいつくのか、その違いのせいだ。

自分と周りの人間にあった違いはそれだけだった。遥はそれがもっと顕著だった。

(聞いてみよっかな……隠してるわけじゃあないだろうし)

先ほど遥の背中に見えた蜃気楼のような揺らぎは昼休みに校庭でみたどす黒いあの塊とは違うものだった。頭の中にこんこんと湧き出た発想であって確証はないのだが。

考え事をしているうちに一つ目のチャイムが鳴る。

(はは、人のこと言えないな)

真っ白なノートを畳んで次の授業はなんだったかと天井を見上げる。新しくはない校舎(それでも道とトンネルを越えた先にある旧校舎よりは綺麗なものだが)の天井には何で浮き上がってきたのかシミがたまにみられた。

よくある話だ。そのシミが時折顔に見える、というだけ。

黒板の上、教室の窓側にそのシミは得意げに存在していた。あれは笑った顔だとクラスメイトの意見は一致していた。

そのクラスメイトも、あと1時間で授業が終わるという事実に浮つく者と、もはや疲れ切って最初から居眠りを決め込む者、淡々と授業をこなす者に分かれて日常を繰り返す。

最後の授業開始を知らせるチャイムが鳴った。清美はまた白紙で終わりそうなノートを一応開いて続きを考え込む。

自分の金色の髪がさらりと目にかかる。透けたその髪の隙間から、教師が流れるように黒板を埋めていく様をただ蚊帳の外で見つめた。

下手に混ざった紫と黒のような波紋。ゆっくりと広がっていく。

(遥は大丈夫かな……)

孤独。言葉で表すならそれがぴったりかもしれない。

別れ際の遥の背中を揺らいでいた蜃気楼、孤独感、教師の声、生徒の声がどんどん閉じていく。

清美は違和感を感じていた。

時計の針はどんどん進み、やがて今日最後の授業終わりのチャイムが鳴る。あまりにもあの時計ははやく動きすぎではないだろうか……?

チャイムの音も妙に間延びした、遠くで聞こえる救急車のサイレンような不安感を煽る響き。

ノートも教科書も手元から消えている。机の横にかかったカバンも友達とお揃いのキーホルダーも、声も、寝息も、その姿さえも。

清美はゆっくりと立ち上がった。夢なのか、夢ではないのか。それを確認する術はない。

頬をつねってみようか。

その発想自体がここが現実だと言っているようなものではないか。

ぐらりと陽が傾いた。


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身内の創作の2次創作的に書いている話