矛盾

補習。部活動。学園祭準備。それなりに業務はあれど、校内人口の絶対数が減る夏期休暇は、教師にとっては貴重なリフレッシュ期間だ。


茂田井先生をはじめ部活動指導に当たられる先生の前では、流石にこんなことは言えない。だが生徒や保護者、時には教師といった予測不能分子に翻弄されている身としては、本来の業務に没頭できるこの期間は、何にも代え難いものがある。


もちろん……休暇がとりやすいという点においても。


そういうわけで、俺は昨日から、自宅で自由放埒に過ごしている。どうせなら彼女と休暇を合わせたかったのだが、彼女の研修やら引率やらで思うようにいかなかった。


最後に彼女が俺の部屋に来たのはいつだったか。散乱した服や資料の山を眺めながら、俺は紫煙を燻らせていた。



***



俺の怠惰な夏休みが始まって早3日。冷蔵庫にはもうロクな物が残っていない。煙草のストックは潤沢にある。そして、部屋にはもう足の踏み場がない。


ふと、壁の本棚が目に入った。もう何年も陽の目を浴びていない本の数々。大学時代の教科書や文献、教則本や専門書、競馬や麻雀その他趣味雑学の本が、雑然と並んでいる。


つま先で適当に道をつくりながら、本棚の前に辿り着く。気紛れに何冊か開いてみると、なんとも懐かしい日々が甦ってきた。


1=2の証明。リーマン予想。深遠なる背理法の世界


教職の道に進む意思が揺らいだことはない。だが数学の世界に、もっと浸ってみたかった気持ちはある。「仮定」という形でしか存在しない、ひどく抽象的で美しい世界。記号と数値の前には、時代も文化も関係なくて、ただ紙とペンがあれば、どこまでも思考の旅が出来た。


さて……君を、君への思いを、記号と数値で表すことは可能だろうか?



***



「今日って夜、空いてますか?」


気付けば夜だった。くだらない思いつきで始めた数学的思考の旅は、生身の恋人の存在を一瞬忘れさせてしまうほどに……つまり、そのメッセージの受信に気付かなくさせてしまうくらい……罪深いひとときをもたらしてくれた。


ゼロとイチが織り成す「返信」ではなく、声を交わせる「通話」を選ぶ。


「えっ、今メッセージ見たんですか!」


ほぼワンコールで飛びついてきた声は、一瞬にして呆れた調子になった。


「まぁ……そうだな……」


俺も苦笑せざるを得ない。


「それで……今からそっちに伺ってもいいんですか?」


……よくないわけがないだろう。君を思い、打ち明けるのも気が引けるような確率を計算したり、関数をこねくり回したりしていたんだ。君が来なければ、生身の君が来てくれなければ、俺のこの空虚な旅路は……。


「……頼む」


雑然とした部屋の真ん中で、通話を切る。数値や記号をどんなに並べたところで、君という温度を導きだすことはできない。君という解がなければ、俺の抽象世界は、どこまでも無意味な思考の集積体でしかないのだから。

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