本と猫と冒険譚

Kuzunoha
@kuzunoha_ff

本と猫と冒険譚/5

 二回目に起き出した時には、エル・トの意識はすっかり戻っていた。

 ずるりと長いシャツを見て驚き、おろおろと周りを見回してみれば、部屋の中は相当な量の本が並んでいた。

 昨日は確か雨の中で揉み合って、アバルウィルフの家に連れてこられたはず。その後の記憶が途切れ途切れで、エル・トは込み上げる恥ずかしさと所在なさに、毛布を手繰り寄せた。

 病み上がりで気だるい身体に、よく洗濯された軽い毛布が心地よい。またぞろ疲れがこみ上げて、エル・トはヘッドボードのクッションにより掛かった。

 大事にされた本のにおいがする。並んでいる背表紙を眺め、借りたことのある本を見つけて、不意に親近感がこみ上げた。

「おはよう、だいぶ具合が良くなったようだね」

 穏やかな声に顔を上げると、アバルウィルフがトレイを手に立っていた。焼きたての香ばしいパンの匂いと、空腹をくすぐるコンソメの香り。途端にくうとなった腹を押さえてうつむくエル・トの傍に、アバルウィルフはそっとトレイを置いた。

「一昨日からなにも食べてないだろう、少しお腹に入れて休みなさい」

「え、一昨日って……俺、そんなに?」

 一度だけ目を覚ました記憶はあった。どこだかわからないままぼうっとしているうちに傍にあたたかな存在があるのに気付き、心地よくて、安心してもう一度眠ってしまったのだ。

 だがまさか、2日も眠っていたとは。

 すぐにずるりと肩から落ちるシャツは、明らかにルガディンの大きさだ。慌てて引っ張り、手繰り寄せて袖を折ると、大きな手が差し出すコップを受け取った。

 新鮮なラノシアオレンジを絞ったジュースを一口舐めた途端、喉の渇きを思い出し、エル・トはもう一口ジュースを飲んだ。

「私は庭をいじってくるから、ゆっくり食べるんだよ」

 答えるより先に席を立った大きな背中を見送り、スープを一口、口に運ぶ。野菜と鶏肉を丁寧に煮込んだ澄んだスープは体に染み渡り、美味しいというよりも心地よい。ぬくもりが残るパンをちぎり、浸しながら齧るうちに、エル・トは次第に状況が飲み込めてきた。

 あの雨で冷えて熱を出した自分を、アバルウィルフは自宅まで運び、着替えさせ、今日まで看病してくれたのだ。

 自分が勝手に距離を感じたばっかりにすっかり世話になってしまった状況に、ぺたんと耳が伏せる。尻尾の先が力なく、パタンと一つシーツを叩いた。

 病み上がりの体にちょうどいい量の食事を終えて、エル・トはベッド脇の本棚を見た。借りた覚えのある背表紙を見つけてなぞり、そっと一冊取り出してみる。アバルウィルフはいつも、こうしてここで本を読んでいたのだろうか――唐突に縮まった距離を持て余し、ぱたりと本を閉じたエル・トに、庭仕事を終えたルガディンが声を掛けた。

「君の服も乾いていたよ、私のシャツだと大きすぎるだろう?」

「ごめんなさい、ありがとう……」

 綺麗にたたまれた服は、少しだけ潮のにおいがする。ここは海沿いだったと思いだしたエル・トが窓の外を眺める横顔に、アバルウィルフは思わず笑みをこぼした。

 膝の上に置かれているのは、彼が一番好きな物語の一冊だ。エル・トもこのシリーズを気に入ってくれていることは知っている。色々な差し引きは抜きにして、この猫は本当に純粋に本が好きなのだ。話すたび、いつもそれが伝わってくる。

 毎回数冊ずつ貸していたが、もしエル・トが続きが読みたくなった時、探すには難しくなった著者の本を求めて歩くのは大変だろう。

 一瞬ためらい、そして驚かせないようにそっと、アバルウィルフは提案を持ち出した。

「この家を、シェアしないか」

 唐突な言葉に、猫の目が丸くなる。いきなり何を言うのかとぽかんとするエル・トの顔は今まで見た中で一番愛らしく、くすりと笑いを漏らしてしまった。

「意外と失礼なんだな、貴方は」

 ムッとして耳を伏せた黒猫に、アバルウィルフは慌てて違う違うと手を振った。

「君が想像以上に表情が豊かだったから驚いてね。――私は旅ぐらしだから、あまり頻繁に本の虫干しができないんだ。君がこの本たちを気に入ってくれているなら、好きなだけ読んでいい代わりに本の管理を頼みたいんだが、どうだろう?」

 本たち――言われて見回し、エル・トは改めて、この家が本に埋もれていることに気付いた。アバルウィルフは几帳面な性格なのだろう。シリーズ、サイズ、背表紙の色、出版社。丁寧に分けてしまわれている本は壁面を覆うだけでなく、均等に並べられた本棚からも溢れ出しそうだ。

 これだけの本があれば、手入れも大変だろう。だが、エル・トが知る範囲でもいつも旅の空の下にいるアバルウィルフには、確かに管理が難しいのかもしれない。

「成り行きで連れてきてしまったが、元々一昨日は君を招待するつもりだったんだ」

「だから、会えないかって……」

 頷くルガディンを見て、エル・トは膝に置いた本を撫でた。雨に濡れて倒れた自分を看病してくれた恩は返さねばならない。それに、本は頻繁に風を通して手入れしてやらないと、すぐに虫がついて駄目になってしまう。

 だが、個人の家をシェアすると言われると、どうしても敷居を感じた。ましてやそれが光の戦士、英雄と呼ばれる人の家だ。

「家を、シェア……」

 ためらい迷うエル・トの答えを、アバルウィルフはじっと待った。エル・トは思慮深い。そして人から一歩も二歩も離れた場所に距離を持ちたがる。急いでは駄目だと心を抑えながら待つ時間は、たった数秒でもひどく長い。

 やがて薄い唇がそっと開いた。

「いいよ、本の世話、してあげる」

 了解の答えに、アバルウィルフは満面に笑みを浮かべた。

「ありがとうエル・ト、君に鍵を渡しておくよ。家の中は自由に使ってくれ、家というものは使われないとすぐに傷むからね。私が帰ってきたら読んだ本の感想を聞かせてくれるかい?」

 思わず早口になるアバルウィルフに、エル・トは面食らった。この人はこんなにたくさん話す人だっただろうか。いつもおっとりと言葉を選び、エル・トを驚かせないようにゆっくりと動いていたはずだ。

 けれど、わかりやすい人だと思った。そわそわと書斎机から予備の鍵を取り出し、革紐を通すルガディンの横顔は、嬉しさ一色に染まっている。

「よろしく頼むよ」

 銀の小さなチャームと鈴をつけた鍵が、エル・トのほっそりとした手に載せられた。りんと小さな音を立てる鈴をつつく猫のような仕草に、アバルウィルフがまたぞろ笑いを漏らした。そして急に慌ててトレイを取り上げると、綺麗にたたまれたエル・トの服を膝に載せた。

「着替えたほうがいいね、そんなに足だの胸だの出ていると……その、また風邪をひくかもしれない」

「ああ、少し寒いから……そうする」

 それにシャツから覗く脚は少し目の毒だ。それを言えずに背を向けたアバルウィルフの反応に首を傾げながら、エル・トは洗いたての肌触りを楽しみながら、元の服に着替え直した。


   +   +   +


 夕刻まで本の話で盛り上がったエル・トをリムサ・ロミンサまで送った翌日、アバルウィルフは再び旅に出た。

 今回もまた、混乱が続くイシュガルドからの救援要請だ。加えて先日機能を止めたはずの機工城アレキサンダーの一部が新たに律動を始めたという。詳しい事情は分からなかったが、ただそれがひどく危険な旅になるということだけは、エル・トにもわかった。

 その話を聞いていたからだろうか。いつもなら一人で発つモードゥナに、その日はエル・トの姿があった。

「見送りなどしなくてもよかったんだよ、遠いだろう?」

 第七霊災で一度崩壊し、ロウェナという女の商売で復興した街は、エオルゼアの三国からは均等に遠い。チョコボに鞍をつけて出立の準備をしながら、アバルウィルフは久々の遠出となったエル・トを気遣った。

「俺がしたかったから」

 素っ気ない答えと、変わらない表情。けれどぱたんと揺れる耳に名残を惜しむ気配を感じ、アバルウィルフはありがとうと素直に笑んだ。

「いつ戻れるかはわからないが、帰りが分かったら伝えるよ。それまで家の世話を頼む」

「本のね」

 いつの間にか家の管理まで話が昇格しているのをやんわりと訂正したエル・トは、手にしていた包みを差し出した。

「これは餞別かい?」

 さあ、と嘯く猫の涼しい顔に首を傾げながら油紙を開いたアバルウィルフは、思わず目を丸くした。あの日、雨に濡れてひどい有様になったはずの本が、まるで新品同様に綺麗に手入れされていたのだ。

 そしてページを開いてみれば、美しい萌黄の羽根がブックマーカーとして挟まれていた。小さな天球儀を模したチャームが美しく、中でエル・トの瞳と同じ黒い石がくるくると回っている。

「ありがとう、素敵な餞別だ! 大切にするよ!」

 なんと嬉しい心遣いか。どういたしましてと涼しい顔で尻尾と耳を揺らしてみせるエル・トに手を振り、アバルウィルフは名残惜しげにチョコボの鞍を蹴った。

 待ち合わせに間に合うために旅立つのがこんなに惜しいのは、光の戦士と呼ばれ始めて以来、初めてだった。

 いってらっしゃいと小さく手を振る細い姿が遠くなるまで何度も振り返り、手を振り、叶う限り早く帰ろうと胸に誓いながら、アバルウィルフは鞍上の人になった。