本と猫と冒険譚

Kuzunoha
@kuzunoha_ff

本と猫と冒険譚/3

 明けても雨はやまなかった。雪にならないだけまだイシュガルドよりはマシだと思いながらも、底冷えする寒さにアバルウィルフはため息を落とした。

 店が開くなり窓際の席に居座り、店員が眉をひそめない程度には注文を繰り返しながら、かれこれ半日。もう午後も終わろうという頃だ。

 一方的に告げただけの言葉を、エル・トが聞く理由はない。それでもエル・トは来てくれそうな気がするのだ。

 すっかり冷え切ったコーヒーを一口飲み、読み飽きるほど読んだ本を開く。物語の中の英雄譚は、いつだってめでたしめでたしで終わっている。物語だからそれでいいのだ。その後の英雄の辿る道や人生など語られない。だからこそ人々は英雄に憧れる。

 そしてアバルウィルフも、めでたしめでたしで終わる物語が好きだった。

 ハッピーエンドの物語を、エル・トが楽しげに読み終え、その感想を語る姿が好きだ。本人以上に雄弁な耳と尻尾が、いかに広い世界の物語かを教えてくれる。

 ぺらりとページを捲り、眉間の疲れを感じてメガネを外す。軽く目頭を揉み、訪れない待ち人の席を見やった瞬間、彼は息を呑んだ。

 窓の向こうに佇み、そっとこちらを伺っている人影がいる。細く小さなその姿を視界に捉えた途端、胸が痛いほど脈打った。

「お連れ様ですか? 先程からずっとあそこにいらっしゃいますが」

 店員の言葉に、エル・トがそこでどれほどの時間迷っていたのかを知り、目眩すらした。こんな肌寒い日にあんな場所にいたら、健常な人間でも風邪を引いてしまう。

 店の中を伺ってはそっと隠れるような仕草に、エル・トが迷っているような気配を察し、アバルウィルフは目を凝らした。今どんな顔をしているのか知りたい。身を乗り出した瞬間、ぱちりと黒い瞳が瞬くのが見えた気がした。

 目が合ったと分かるなり、エル・トは慌てて踵を返し、その場を離れようと走り出す。傘を放り出して逃げる姿に、アバルウィルフは食事代には多すぎるほどの硬貨を置き、本を掴んで慌ただしく店を飛び出した。

 大柄なルガディンが追えば、必死で走るエル・トなど容易く捕まってしまう。細い手首に手を伸ばし、一瞬、握ることをためらった。

 握りつぶしてしまいそうだ――迷いを振り切って肩に手を伸ばし、アバルウィルフは抱きすくめるように小さな体を腕に包んだ。

「っ……放して!」

 細い手で抗われても、ルガディンのそれも屈強なナイトの腕を振り解けようはずもない。アバルウィルフの腕から逃げようともがくエル・トの身体は雨に濡れ、ひどく冷えていた。

 ここで濡れながら話している場合ではない。エル・トの手に本を持たせ細い体を軽々と片手に抱くと、有無を言わさず走り出した。

「下ろして、どこへ行く気……?!」

 急に変わった視界に驚き、たくましい腕にしがみついたエル・トは、頭がぐらりと揺れるのを感じた。渡された本を濡らさないように抱きしめてみても、目の前がゆらゆらと揺れる。

「私の部屋だ、濡れたままでは話もできないだろう」

「いい、帰る……!!」

 部屋と言われ、咄嗟に拒絶の言葉が口をついて出た。たった少しの距離にすら隔たりを感じてしまった英雄の部屋に突然招かれて、なにをすればいいのかわからない。住む世界が違いすぎる人だと知ってしまえば、話す言葉すら選び方がわからない。

 アバルウィルフを待たせていることへの罪悪感で足を運んでみたものの、今まで当たり前のように座っていた向かい側に座る勇気が出せなかった自分は、これ以上この光の戦士に深入りしてはいけないのだ。

 言いようのない距離感が、気まずさが、言葉にならない。

 この人はきっと何人もこうやって助けてきたんだろう。それを重ねて、重ねて、英雄と呼ばれるようになった。自分もその沢山の中のひとりなのだ。ただの、そんな一人。そう思うと身の置き所のなさにズキリと痛みがこみ上げた。

 どうしてこの人にはそんな痛みを覚えるのか。自分でも理解できずに胸を本を抱きしめるエル・トに、優しい声が落ちてきた。

「ここだ、すぐ風呂を用意するからね」

 ミストヴィレッジの片隅。小さな家のドアを開けられて、エル・トは驚いた。決して安くはないこの区画に家を持つアバルウィルフは、やはり違う世界の住人なのだ。

 できるだけ小さく身を縮めたエル・トを、大きな手がそっとソファに座らせた。柔らかなタオルを渡されておずおずと受け取り、エル・トはようやく、抱きしめていた本が雨に濡れてよれよれになっているのに気付いた。

 大切な、貴重な本。人から見れば他愛もない物語だけれど、エル・トにとっては叶わない冒険譚の夢をくれる本だった。

「ごめんなさい、これ……」

 濡れたシャツのまま暖炉に火を入れるアバルウィルフに、エル・トは震える声で本を差し出した。自分が傘を投げ捨てて逃げたばかりに、借りた本がひどい惨状になったことを、なんと言われるだろうか。

 耳を伏せた黒猫に、アバルウィルフは小さく笑い、目線を合わせるように膝をついた。

「少し、熱があるようだね」

 片手で簡単にエル・トの頭を包むほどの大きな手が、労るように頬に触れた。壊さないようにそっとそっと撫でる指に耳がびくりと震える。小動物を怯えさせたような罪悪感に眉を下げたアバルウィルフに、エル・トは眼差しを揺らし、タオルを抱き寄せた。

 ここにいていいのかわからない。直ぐ側にいるのに、この間まで知ったつもりでいた知人が、ひどく遠く感じる。言葉が喉につまり、自分が今なにを言いたいのかすら理解できずにエル・トがやっと吐き出したのは、一言だけだった。

「帰る……!!」

 ソファから立ち上がろうとする体が、濡れた服に絡んで足をもつれさせ、ぐらりと揺れた。バランスをくずして倒れ込む細い体を、太い腕が抱きとめた。

「せめて濡れた服を着替えて、体を温めてからにしなさい」

 背中を支える手の大きさに、どきりと胸が跳ねた。そして自分の中にある寂莫とした感情の輪郭を掴み、エル・トは迷い、嫌々と首を振った。

 唐突に現れたアバルウィルフの存在は心地よかったのだ。同じ本を愛する知り合いとして、その距離も声音もエル・トにはとても気持ちよかった。だからこの人があまりに遠い存在だと知って、取り残されたような悲しさがこみ上げるのだ。

 けれど、今まで誰にも持ったことのないこの駄々をこねる子供のような悲しさの理由を、エル・トは言葉にするすべがなかった。

「エル・ト? どうした?」

 帰るとごねながらむずがるエル・トを抱き上げ、アバルウィルフは額を手で覆った。

「熱が上がってきたな、今夜は泊まりなさい」

 いや、とぐずるエル・トは、自分がひどく幼い子供のようだと恥ずかしさを自覚しながらも、熱のせいか、頬に溢れる涙が止められなかった。抱き上げてくる腕に揺られながら、黒い猫は次第に遠のく意識にあらがい、細い腕でアバルウィルフを押しのける。

 濡れた体はひどく重く、気を失うまいとする意志を裏切るように、体は意識を手放した。



   +   +   +



 細くて小さい。アバルウィルフはベッドに寝かせた猫から濡れた服を脱がせながら、改めてその体格の違いを感じた。

 片手で簡単に抱けた軽さを思い出し、何故か火照る頬を押さえて、くたりとシーツに沈むエル・トを暖かな毛布でくるむ。細い手足は下手につかむと簡単に折れてしまいそうで、男同士なのにあまりに違う体の作りを意識するほどに、どうしようもなく鼓動が跳ね上がる。

 綺麗だと、眠る頬をタオルで拭いながら思った。

 長いまつげが縁取る目元をなぞり、湿気を帯びた髪を撫でるように拭きながら、眠ると少しあどけなさのある顔を眺めた。

「……男だよな」

 脱がせた時に確かに確かめた。男だった。けれど、男でもいいと思わせるほどの静謐な美貌に、アバルウィルフは口元を押さえて唸った。

 相席する少し前まで、エル・トのことは女だと思っていたのだ。そしてあの日、間近で見たこの猫の姿に、どうしようもなく惹きつけられた。ずっと見ていたい、できるなら、触れてみたい。

 髪に、肌に、指に。

 まさかそれがこんな形で叶うとは思わなかったが、病人の看病を口実にベタベタと触る気にはなれず、涙のあとを拭うように指の背でそっと目元を撫でるのが精一杯だった。

 帰ると言い張るエル・トの反応は、アバルウィルフには意外だった。もっと淡々と冷静な答えをするかと思いきや、熱に浮かされてみれば子供のような顔で駄々をこねる。もっと違う顔が見てみたいと、素直に思った。

 どんな本を読ませればこの猫は笑ってくれるだろうか。考えるだけでこみ上げる思いは、幸せな痛みを孕む。

 ずっと世界を背負わされてきた光の戦士とて、一人の男でもあるのだ。ただ目の前の人の笑顔が見たくて歩んだ道の先が修羅だっただけで、今も最初の思いは変わっていない。

「エル・ト……君は、私の日常なんだ」

 どんな戦いを乗り越えたあとでも、あのカフェのテラスに座る猫の姿を見つければ、ただの男だった自分に戻れる。この思いを、なんと名付ければいいのか、まだわからない。

 エル・ト、ともう一度呼びかけ、そろりと耳を撫でた手の影で、ぼんやりとした目が薄く開いた。

 自分を映す黒い瞳と目が合った瞬間、言いようのない胸の疼きを覚え、歴戦のルガディンは息を呑んだ。すぐに閉ざされた眼差しを惜しむような、それ以上見つめられていたら何かに気付いてしまいそうな――。

「明日、雨が止めばいいんだが……」

 違うことを考えよう。窓の外を見やり、アバルウィルフはあてもなく天気を気にして呟いた。