本と猫と冒険譚

Kuzunoha
@kuzunoha_ff

本と猫と冒険譚/2

 いつしか海風は凪の時間を迎えていた。橙に染まる波が反射し、白いテラスをオレンジに染め上げる。

「それじゃ、またしばらく先」

 名残を惜しむように席を立ったアバルウィルフを見送り、遠くなる軽く手を振る。

 空席になった向かいを見やり、エル・トはぱたりと小さく耳を揺らした。喋りすぎて少し顎が痛い。あのルガディンがやってくるといつもそうなのだ。

 同じような趣味を持つ友人はいなかった。そも、友人と呼べるほど親しい存在がいない。

 一人でいることに苦痛も苦労も感じたことがなく、必要なことは互いに補える知人がいればそれで充分だった。互いを深く知り合う必要はなく、その時に必要なものを提供し合えばよい。

 だから、誰かの助けが必要ではない読書という余暇に、あんなに入り込んできた人間はいない。

 アバルウィルフという名前しか知らないルガディンが置いていった本を一冊取り出し、ぱらりとめくる。冒険記の体裁を取った各地の郷土料理を紹介する本は、エル・トが足を棒にして古本屋を探しても見つけられなかった一冊だ。ずっと読みたかったものを差し出す手を思い出し、エル・トはそっと本の縁を撫でた。

 あれは剣を持つ人の手だ。それも歴戦の。戦いとはまるで無縁のような穏やかな物腰のルガディンは、眼鏡越しにいつも優しげに話し掛けてくる。でも手を見れば分かる。何度もまめを潰して分厚くなった皮膚、傷だらけの甲、歪んだ爪。ただの海賊ならああまではならないはずだ。

 アバルウィルフは、一体何者なのだろう。

 突然の自分の頼みを快く聞き、ただ希少な本を貸してくれる人という認識しかなかったのに、最近、その手に目が行ってしまう。

 お互い好きなものを頼み、本を読み、文字に満ち足りた頃にどちらからともなく話し始める他愛もない時間。エル・トにとって今までなかった時間の過ごし方は、孤独な猫にぽつんとひとしずく、あたたかなものを落とした。

 重ねた本の表紙に手を触れ、あの大きな手で器用にページをめくる光景を想像すると、少しだけ口の端が緩む。

 旅路の先にいることが多いというアバルウィルフが、次いつ訪れるのかわからない。だが、彼のチョイスはエル・トの好みを外したことがない。彼が旅の空の下にいる間、これを1ページずつ読み進めるのが、エル・トの楽しみになっていた。

 凪の終わりの風に顔を上げ、弄ばれる黒髪を押さえて、黒い瞳が遠くへ旅立つ帆船を映す。あの人は、今日、またすぐに旅立つと言っていた。一体どこへ行って、なにをしているのか。

 個人に興味を持った自分に驚き、一つ瞬いたエル・トは、ぱたりと耳を寝かせて本を開いた。



    +   +   +



 街の中にちらほらと流れる噂を聞きながら、エル・トは読み終わった本を携え、白い石畳を急いでいた。

 遠いイシュガルドで竜と人が対話を果たし教皇が退いて新しい時代が来たと、光の戦士、エオルゼアの英雄による改革が訪れると、そんな話で沸き立つ人々の声を聞き流し、ミズンマストへと急ぐ。

 どこかの遠い国の話など、ラノシアの一帯からほとんど離れることのないエル・トには無関係な世界の話だ。それよりも今は、もっと切実なことがある。

 ほんの30分ほど前、エル・トはアバルウィルフから耳打ちをされたのだ。これからミズンマストに向かうから、よかったら少しお茶をしようと。

 こんなことは初めてだ。いつも約束などせず、ただ相席しているだけなのに――疑問を抱く胸の片隅が痛み、上がった息を整えるために白壁に寄り掛かる。こんな時、丈夫とはいえない自分の体が恨めしかった。

 少しのことですぐ熱が出てしまう体は、必然的に家の中に娯楽を求め、たどり着いたのが読書だった。占星術を修めたのに、他の冒険者たちのように野山を走り回るほどの体力がないエル・トにとって、少しでも冒険者らしさを感じられる世界がページの中なのだ。

 もっと幼い10代の頃は一端の冒険者を目指して旅の仲間と歩んだけれど、エル・トの体の弱さは歩調を合わせるには足りず、いつしか置いて行かれる背中を見ることしかできなくなっていた。

 遠ざかっていく同輩の背を見送り俯いたあの日、エル・トの旅は終わってしまった。

 アバルウィルフを待たせているかもしれない。思い出を振り切るように首を振り、息を整えて歩き出したエル・トは、ふと足を止めた。

 待っていたからと言って、だからどうだというのだ。自分の中に湧き上がった思考を不思議に思い、手にしている本を見る。会ってすることは借りた本を返し、本の感想を交わすだけだ。

 なのに、あのルガディンの声が残る耳が、なんだかくすぐったい。

 柔らかな毛に覆われた耳をパタンと揺らし、エル・トはミズンマストに向かう橋を急いだ。吊橋を渡れば、すぐに店のテラスが見えてくる。見れば既にあの大きな背中はいつもの席に座り、本を読んでいた。

 いつもと変わらない光景に、普段通りでなにも変わらないことへの安堵がこみ上げ、自然と歩調が緩む。

 店員に待ち合わせを告げてテーブルに向かおうとしたエル・トは、不意に飛び込んできた他愛もない話し声に耳を疑った。

「だろ、やっぱり件の英雄様じゃないか?」

「あー……でもエオルゼア内では指名手配されてたんじゃないの?」

 英雄――誰が?

 何気なく店の中の気配に意識を向けてみれば、みな、アバルウィルフをちらちらと見てはなにかを囁き合っている。好奇心、憧れ、畏敬、尊敬、ちょっとした嗤い。

「英雄って何の話」

 思わず問いかけたエル・トに、唐突な言葉に驚いたテーブルの客は、少し苦笑いを交えて眼鏡のルガディンを見やった。

「噂になってんだろ、光の戦士様だよ。イシュガルドでなんだっけニーズヘッグを倒したとか、偽りの歴史をどうとか。さっきから店ん中で話題になっててさ」

 アバルウィルフが? ゆっくりとした口調で穏やかに話すルガディンと、人々の話題に登る勇猛な英雄の姿が一致しない。けれど、あと数歩で席にたどり着くのに、エル・トは急に距離を感じたように思えた。

 この人は遠く知らない場所まで旅して帰ってきたのだ。自分では到底行けない場所で、戯曲のような冒険をしてきた。

 その間自分がしていたのは、ただ、本を読んでいたことだけ。それだけ。

 今までの会話で旅をする人だと分かっていたのに、急に湧き上がってきた実感に衝動的に踵を返し、エル・トは本を抱えたまま走り出していた。言葉にならない透明な隔たりがある、物語を作る英雄と、それをただ見るだけの自分。意識したこともなかったのに、あの人は本の中の人で、自分はただそれを本棚から出して開くだけの存在――。

 いつの間にかポツポツと落ち始めたにわか雨を振り切って、黒い猫は必死で自分のねぐらに逃げ込んだ。



   +   +   +



――急だったから、別の用事があって。

 雨を避けて店内に入り、しばらく待ってみても訪れなかった猫からの返事に、アバルウィルフはぽつりとため息をついた。

 いくつも戦いをくぐり抜けて、やっと取れた束の間の休息だったのだ。その時間をエル・トとの語り合いに使いたかった。だが急に言われても、彼とて日々の暮らしがあるのだろう。

 諦めて重ねた本に手を置いた。これならきっと喜んでくれるだろうと思って選びぬいた数冊は、あの手に届かなかった。

 耳や尻尾の動きだけでない、表情の変化も見れるかもしれない。そんな淡い期待さえも抱いていた自分に気付き、アバルウィルフはメガネを外して苦笑いした。

――忙しいのは仕方ない。また今度新しい本を貸そう。雨が降って冷え込んでいるから、風邪を引かないようにね。

 耳打ちに返事はなく、ただ沈黙だけがあった。

 エル・トはあまり丈夫には見えない。ただでさえ小さく見えるミコッテの中でも、最初は細身の女性かと思ったほどだ。同じパーティのミコッテは女性だが、男のエル・トよりも随分と頑強に見える。

 急な雨の冷え込みと忙しさで体を壊していないだろうか。

 気遣いたくても、アバルウィルフはあの猫の名前しか知らなかった。どこで暮らしているのかすら知らない他人の距離を実感し、思わず目元を押さえて唸る。

 人と距離を置くようになったのはいつからだろうか。まだグランドカンパニーに所属したばかりの頃は、出会いの一つ一つが嬉しくて、楽しくて、誰かと知り合えることの全てが自分の世界を広げていくような感覚すらあった。

 なのに、気づけば旅先での出逢いは全て別れを前提にしていた。この人もまた先に逝くのだろう、その不安を拭えないのだ。

 多くの眼差しと、立ち止まって二度と歩まない仲間たちに見送られ、気づけば英雄と呼ばれていた。誰よりも先頭に立ち盾をかざして戦う自分の隣には、今、誰もいない。

 もう一度声を掛けてみようか。明日はどうだろうか。忙しいのだろうか。

 ためらいと戸惑いがひどく唇を重くする。二度、三度、ため息混じりの唸りをあげて、アバルウィルフはリンクパールを手に取った。

――エル・ト、明日もあの店にいるよ。君がよかったら来てくれないか。

 返事はない。忙しいのか、それとも聞こえていないのか。それでも届いていることを祈り、リンクパールをポケットに戻す。

 外を見れば雨は激しさを増し、夜はやがて、嵐になろうとしていた。

(つづく)