ボーイズ・イン・ブルー

星野しの
@hoseeeno

通り雨の日-後

「…あのさ、千尋。何か悩み事でもある?」


 このままでは埒が明かない。静は単刀直入に切り出し、言葉を続けた。


「この間梶ヶ谷に言われて気付いたんだけどさ、最近ちょっと落ち着きがないというか…」


 そこまで言い掛けたところで、それまで黙って静の言葉を聞いていた千尋がぐわっと身を乗り出し、明確な焦りが漏れ出している声を上げた。


「待って、かっちゃんオレのこと何て言ってた…!?」

「え?いや、千尋がなんか悩んでるみたいだって…」

「それだけ?」

「うん、それだけ。それ聞いたのも本鈴鳴る直前だったし、詳しいことは何も」


 静の返答を一通り飲み込むと、千尋は大きく「よかった~~…」と安堵の息を吐き出した。

 

 全くもって話が読めない。静の脳内で、目の前の状況に対する疑問符ばかりが浮かんでは消える。

 千尋の様子がおかしい。梶ヶ谷がそれに気付き、自分にその情報を共有した。この流れのどこに千尋が取り乱す要素があったのだろうか。


「…あのさ、シズ。この間の昼休みに言い掛けたことなんだけど」


 バツが悪そうに、千尋がおずおずと口を開いた。その声に、過去へ飛んでいた静の思考が呼び戻される。


「あ、うん。あれ、結局何だったの」

「いや、うん、あのさ。この間、駅向こうにでかいCD屋できたじゃん」

「?そういえば宣伝してたっけ」

「そんで、来週の日曜日、オレ練習休みになって」


 そこまで言って、千尋は静から目を離し、露骨に視線を泳がせた。

 明後日の方向を見つめた千尋から、蚊の鳴くような声が絞り出される。


「…………良かったら、一緒に行ってくれないかなー、なんて……」


「……は?」


 一体何を言われるかと身構えていたところに随分と控えめな誘いを寄越されて、静は思わず頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。


「え、それだけ……?」

「……それだけです…………」


 恐らく、今自分は「きょとん」という擬音がぴったりすぎるくらい間抜けな顔をしているだろう。千尋はと言うと、何やら耳まで真っ赤になって、顔を覆った指の隙間から静を見下ろしていた。


「緊張して損した。そんなの行くに決まってるし、そんなに溜める必要ないと思うけど」

「いや、この間のタイミングで誘ったらさ、かっちゃんも一緒に……ってことになるかもしれないじゃん」

「……? 俺は別に梶ヶ谷が一緒でも構わないけど」


 こうして千尋に追いつけないでいると、何だかこの場所で初めて出会った春の日のことを思い出す。脳内に疑問符ばかりを並べたまま返事をすると、千尋が「だから~~」と足をばたつかせて落ち着かなさそうに前髪をいじる。


「オレはシズと二人で行きたかったの!かっちゃんとは別にいつも会ってるしさ~……」

「二人で……」


 感情が置いてきぼりになったまま鸚鵡返しするばかりの静を、千尋はやや恨めしそうに見つめていた。

 千尋がここまで大げさな反応を見せる理由は掴みかねているものの、その申し出は素直に嬉しく思う。

 

 梶ヶ谷と三人でいる時と、千尋の言うように二人で、という場合とでは、何と言うべきか、楽しさの質や種類みたいなものが違うような気がする。確かに、これまで千尋とどこかへ出掛けたりしたことはなかったし、一日掛けて二人でゆっくりぶらぶらするという休日は魅力的だった。


「ありがとう。楽しみにしてる」


 そう言いながら目線を軽く上げると、まだどこかぐらぐらとしているように見える千尋と目が合った。自分でも気が付かないくらいに自然な方法で、静の唇がやわらかな弧を描く。

 すぐに気恥ずかしくなって視線を戻し、あとはただ窓を打つ雨の雫の音を聞いた。とっとっ、と規則的に鳴るその音の合間に、不意に小気味のいい破裂音が響く。カメラのシャッター音だ。

 

 まさかと思い顔を上げると、スマートフォンのカメラを向ける千尋が「あっ」と声を上げた。


「ごめん、何か反射的に撮ってた」

「何それ……」


 当の本人の戸惑い交じりの表情に毒気を抜かれ、脱力した声が出た。瞬間的に強張っていた静の肩からふっと力が抜ける。


 写真を撮られることは、あまり得意ではない。

 幼稚園のお遊戯会も、小学校の林間学校も、中学の修学旅行の時も、レンズの前でうまく笑えた試しがないのだ。屈託のない笑顔で写っている同級生の隣のぎこちない表情を見ているうちに、すっかりシャッターを切る音に敏感になってしまった。


「……撮られるの、あんまり好きじゃなくて。後で消しといて欲しいんだけど」

「えっ、なんで?」

「写真写り、悪いから。俺、目つき悪いし。そのせい」


 ややぶっきらぼうに吐き出された静の自虐的な発言は、どうやら千尋には少しも響いていないらしい。ぱちぱちと不思議そうに目を瞬かせて、千尋は静の目の前にずい、と液晶を突き出した。


「これ見てみ。ちゃんとキレーに撮れてるよ」


 半信半疑のまま、差し出されたスマートフォンの画面に焦点を合わせる。四角いフレームに映っていたのは、初めて出会う横顔だった。

 

「……誰?」

「いや、シズしかいないから!」

「俺、こんな顔できるんだ。知らなかった」


 鏡の中では終ぞ見たことのないような、自然な笑顔を浮かべる自分の姿。全くもって見慣れないその面差しに、恥ずかしさの前におかしな感心が先に立った。

 きっかけは、あの日たまたま選んだに過ぎない一曲だ。そんな細やかな出会いから、今、見える世界がどんどん新しくなっていく。


「オレらと一緒の時、わりとよく笑ってると思うけどなー」

「そういうの、自分じゃ分からないし」


 そう答えながら口角をむにむにと両手でこねると、千尋が「何してんの?」とけらけらと笑った。ただそれだけのことなのに、胸の奥の方に明かりが灯ったような心地がする。

 体の内側から突き上げるようなこの感情を、一体何と呼べばいいのだろう。遅れてやってきた含羞を誤魔化すように、静は自身のスマートフォンの液晶を覗いた。

 

「来週、どうする?さっき言ってたCDショップは決定として……」

「うーん……シズ、どっか行きたいとことかある?」

「今ぱっと思いつくのは駅前の文房具屋かな……。あそこ、店長さんの趣味でちょっとだけ画材置いてあって」

「へー、知らなかったわ。じゃ、そこ追加ね。オレの方でもちょっと考えとく」


 合意の合図として小さくひとつ頷くと、二人の間に再び沈黙が戻った。


 この十分かそこらの間に、校舎に打ち付ける雨音はその強さを増している。気温は落ち着いているので窓を締め切っていても暑くはなかったが、高すぎる湿度のせいで、室内の空気はぬめりを帯びているかのようだった。 

 中途半端に伸びた後ろ髪が湿気を孕んで、それが首筋でもたついているのが気持ち悪い。肌に張り付く毛束を払おうか、と腕を持ち上げかけたその時、感じていた不快な感覚がふっと軽くなった。

 

「……髪、伸びたね」


 千尋の硬質な指先が襟足を掬ったのだと、その事実を受け入れるまでに時間が掛かった。振り向いた先で静を見つめていたのは、先ほど廊下で目にしたあのこぼれるようなまなざしだった。


 目が合うと同時に、千尋の手がぱっと離れていく。


「それ、暑くない?」

「うん、切りに行くの忘れてて。つい後回しにしちゃうんだよね」


 いつもと同じようなペースで会話が続くことにほっとしながら、静は窓の外を見る。

 水滴が滴る窓ガラス越しでは、見慣れた風景がまた違った見え方をする。それが面白くて、意図せずじっと目を凝らしてしまう。まるで、大きな箱の中に閉じ込められているみたいだ。

 今なら水族館の水槽の中の魚たちの気持ちも少し分かるかもしれないな、と空想に片足を突っ込んでいたところで、「雨、いよいよヤバいな」という独り言のような千尋の声が聞こえた。


「もっとひどくなる前に、今日はもう帰ろ」


 机から降りた千尋が、荷物を抱えながら言う。それに頷いて、静も腰を上げた。


「なんか、世界から俺たちだけ切り離さてる感じがする」

 

 誰に言うでもなくぽたり、と落ちた静のささめきに、千尋は曖昧に笑うだけだった。