三千世界に此の糸ありて

大学時代の後輩が店に来ることになった。正直かなり気は進まないし、万が一にでも通われたら困る。ぼんやりと策を練っているうちに出入り口の鈴が鳴った。身構えたが、いつもの常連だった。


「どうも」

「2の糸ちょうだい。もうあかんわ」


近所で三味線の師匠をしているという、先代からのお得意様だ。いまどき絹糸にこだわって、こうしてちょこちょこ買いにくる。


「せやけどな、やっぱし絹糸はちゃうで」


こちらの考えを見透かすように言う。


「父からも死ぬほど聞かされました」


ふっと笑みが零れる。同期からは散々就職を薦められたが、多少不自由でもこうして好きな世界で生きていく方が、俺の性には合っている。


「ほな、また来るわ」


そう言うと、その常連はくるりと背を向け、退店した。そして……いつの間に入り込んだのか。件の後輩が、入り口付近で、こちらの様子を伺っているのが見えた。


「……いらっしゃい」


先客のお陰で、警戒心はすっかり解されてしまった。だが久々に見るその顔は、思いのほか落ち着いて見えた。彼女ももう就職したんだったか。結局あのサークルで未だに自由を謳歌しているのは、俺だけなのかもしれない。


「すごい、本当に店長さんしてるんですね」

「……まぁ見ての通りだな」


サークルは映画研究会だった。部室に集まっては適当に映画を論じ、酒を呑むといった気ままな学生時代。俺が三味線をやっていることは一部の人間しか知らない。ましてやこの働き盛りの年齢で三味線屋の店主をしているなど、同期以外は知らないはずで。


「三味線は昔から弾いてたんですか?」

「……親父が師匠をやっているからな」


そう言って、近くの三味線を一挺手に取った。適当に一曲搔き鳴らし、軽く小話でもしてやれば満足して帰るだろう。そんな打算もあった。


「わぁ……」


果たして、目の前の彼女はわかりやすいほどに表情を変えた。だが、次に口をついて出た言葉はかなり意外なものだった。


「瀧流し……ですか?」


……確かに、今しがた弾いてみせたのは、『勧進帳』は「瀧流し」の一節だった。


「落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水……」


中途な好奇心でつきまとわれては敵わんと思っていたが、こいつは予想外だった。思わず口元が緩み、目が合う。


「お前も弾くのか」

「先輩の前じゃとても弾けませんけど……あ、これお土産です」


三味線の話を切り上げるかのように、彼女は手にしていた紙袋をよこしてきた。


「たぶん先輩好きだと思うんです」


そう言ってよこしてきたのは、親父が中元でよく貰ってくる老舗の饅頭だった。若い女でも、社会人になるとこんなものを買うようになるのか。お前も。


「……時間があるならお前も食っていけ。今、茶を淹れる」


隠居生活が長かったせいか、懐かしい顔を見たせいか。それとも単純に、惹かれたからか。気づけば俺は、彼女を店の奥へと連れ込んでいた。



***



折角上等な茶を淹れてやったのに、話はさほど盛り上がらなかった。だが、この女が三味線をやっていたという事実がどうしても気になって、すぐに帰す気にはなれなかった。


とはいえ、会話を重ねれば重ねるほど、思っていた以上に自分が世間から離れてしまったことを痛感した。今更生き方を変えるつもりはない。だが、いつか眩しげに俺を見ていたお前も、社会という名の別世界に飲みこまれてしまうのだろうか。


会話の間をもたせるように、俺はまた三味線をいじりはじめた。軽く爪弾くだけで、彼女はまたうっとりとこちらを見つめてくる。


「そういえば、お前はいつから習っているんだ」


気紛れを装って、遂に俺はかねてからの疑問を口にした。「瀧流し」の一節をその場で唄えるくらいだ。それなりに本格的にやっているのだろう。


「……最近です」


…………何だと?


「……先輩が三味線をされてるって聞いて、それで……大学時代に習い始めました」


大人びて見えた表情が、不意に大学時代に戻った気がした。かと思えば、腹の内を見せまいとする女の色気が仄かに漂ってくるようにも思われる。


俺が薦めた映画を片っ端から見ては生真面目に感想を絞り出し、それでも何かに怯えるように距離を保ち続けていた、あの頃のお前。こうして再会を果たし、その距離が近づいたのか、遠のいたのか、まるでわからない。


だが……


「……社会人になってからは続けるのも大変だろう」

「いえ……絶対これからも続けます」


その瞳に宿った、奥ゆかしくも強い光に射抜かれた気がした。


「……気に入った」


すっかり翻弄されてしまった。だが、なんと心地のよいことか。


「今度酒でも飲みに行くか」


はやる気持ちを抑えるように、そっと呟いた。彼女は一瞬驚いたような顔を見せると、満面の笑みをたたえ、やがて小さく頷いた。


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