#著作の一部を詠唱して文豪を召喚する司書 あるいは君去りし後

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#著作の一部を詠唱して文豪を召喚する司書




「取り戻せるものと、取り戻せないものがある。それは変えられないことです」

 切り揃えた金髪の下の困り眉を曇らせながら、赤いマフラーの少年が無機質に告げた。


「手にしたものをもう手放さないこと、次の一歩へと繋げることが重要だ」

 緩やかなウェーブの掛かった淡い髪を揺らして眼鏡の奥の緑の眼を光らせ、優しげな風貌の青年が重々しく告げた。


「とにかく戦いは終わった。俺たちの仕事は済んだ。守るべきものを守り、失われるべきものを失った」

 どこか晴れない嘆きを孕んだ声音で精悍な風貌の男が告げ、皮肉気な笑みを勝気な口元に刻んだ。


「てことでおっしょはん、みなさん、さよぉなら~」

 場違いなほど朗らかな声で、三つ編みを肩に垂らした華奢な青年が締め括った。


 男たちの輪郭が薄れる。魂が弾け、戻っていく。歯車の音と洋墨の滴りを伴って現実に息づいた文豪たちの魂が、その著した書へと吸い込まれて溶け合い、込められた思いへと変わる。

 国定図書館に、かつては数多の文豪たちの声と思いが響き合った建物に、侵蝕者たちとの戦いの為に立てられた文学の砦に、柩の中のような押し迫る沈黙が訪れる。


「本日正午を以て、政府は侵蝕現象の終息を宣言」


 この数分の別れを経てすっかり年老いてしまったような枯れた声音で、特務司書はその言葉を無人の図書館に向けて繰り返す。豊かな黒髪が零れかかる口許が戦慄き、きゅっと引き結ばれる。

 若い女だった。だが、その瞳の奥には数多の死を見た老兵のような乾涸びた闇が凝り固まっていた。


「文豪は去った。侵蝕者は死に絶えた」


 胸に手をやる。スーツの襟を留めるようにして飾る、親指の先大の銅製のバッジ。『特務司書』と鏤刻されたその飾りを毟るように取り、埃と足跡ばかりが残る床へ放るように落とす。


「神も悪魔も、もう文学の中にはいない」


 響き渡る硬質な音。小さく弾んだバッジが転がる。

 無名――特務司書とかつて呼ばれた女は踵を返した。背を向ける。歩き出す。

 長い戦いの思い出を置き去りにして、味気ないほど正常になった世界へ向かって。

 蝉が喚いている。煮える石畳。上る陽炎。何もかもが忘れ去られることも食らわれることもなく噛み合い、止まることのない歯車のように回り続ける。






 料亭の一室で引き合わされたその錬金術師は、ただ館長と呼ばれることだけを好んだ。

 帝國図書館の特務司書の話を聞けば、懐かしそうに目を細めていつまでも語った。自分と同じ仕事をしていただけの、まるきり知らない女の話などそんなに長々聞きたいものでもない。自分の失策に舌打ちしたい心地になりながら、無名は曖昧な笑いと共に相槌を打った。

 館長が大振りの扇で顔を仰ぐ。開かれた襟から逞しい胸元が覗く。

「とにかく、終戦処理という訳だ。予算の再編成、国定図書館の閉鎖・移転手続き、特務司書のレポートの分析、経過観察、潜書技術の体系化、その他諸々。長くて細かくて手応えのない仕事になる。あなたのような有能な錬金術師と仕事が出来るのは幸いですよ」

「士気を削ってくれますね」

 呟くように茶々を入れる。館長は慌てたように目を見開き、扇を動かす回数をあからさまに増やしながらしどろもどろに付け足す言葉を探す。

「とぉんでもない。難しい仕事だけれど、と――」

「言ってニャイぞ」

 畳の上に開いた鯖のように伸びていたネコが、厳しく断言した。

「相変わらず迂闊な男だ。お前は」

「噂には聞いていましたが、手厳しいネコちゃんですね」

 うふふ、と口元に手を置いてわざとらしく笑ってみせる。たじろいだように黙り込む館長を尻目にネコが身を起こし、二人が囲む座卓に前足をたし、と置いて顔を出す。

「そうのらりくらりとして何にニャる。見合いと間違えていニャいか、女」

「夫を探すよりも厳しく見ているつもりですよ。本を読むかのように、じっくりと」

 女は居住まいを正した。じとりとこちらを睨んでくるネコとすまなそうに眉尻を下げる館長に向かい合い、笑みを消して静かに告げる。


「私たちの仕事を、始めましょう。そうしないと、終わらないのですから」






 侵蝕現象の初期段階。各地で発見される有碍書に即時に対処するために、国定図書館も各地に作られた。

 その図書館の一つ一つで綺羅星の如き文豪たちが転生し、たった一人の特務司書を取り囲み生活の多くを依存する非対称的で歪な関係性を構築していたという訳だ。

 誰もが楽園の思い出を捨てられる者ばかりではない。ましてや文豪たちは消え去った訳ではなく、その魂を数多の書に残して世を去っただけだとしたら。

 その書が残っている建物すら奪おうという政府が、どうして憎まれずにいられるものか。

「――『西播磨の特務司書』」

 無機質で野暮ったい呼び名を口にして、無名は稚拙なバリケードの向こうにうずくまっている少女へ声を掛ける。


「戦いは終わりました。当該国定図書館の存置は認められていません。速やかに障害物を撤去して、解任手続きを受けるように」

「終わってない!何も!一つだって!」


 喉を絞って、西播磨の特務司書が叫ぶ。

「夏目先生と、パフェを食べるって約束した!独歩先生と一緒に、カメラを買いに行くはずだった!志賀先生は私だけを見てくれた、高村先生も私だけを見てくれた、太宰先生は、菊池先生は――ああ、それに、それに白秋先生は、絶対、あたしのことを……」

 隣に立つ地元職員が動揺したように視線をさまよわせる。無名はそれに構わず、眉根に愁いを過らせた。

 悪者扱い。

 それも自業自得だと、無名は胸中で自嘲する。この上もなく美しい肉体を与えられた知的な若い男ばかりが集まり戦う場で、その命と誇りを一手に握らなければならない。こんな歪な環境に年若い女を放り込んで何年も働かせて、いきなりその環境を取り上げる。

 無策以外の何物でもない。目の前の少女は、紛れもなく被害者だ。

 理性的な理解だ。そこに同情はない。無名は威圧的な間を少し置き、冷酷に告げた。

「我々には法令に従い、実力行使に出る用意があります。あなたはその愚かさで、一秒ごとに公の財産を食いつぶしている。それを自覚することです」

「……あ、」

 少女が顔を上げる。写真で見た限りでは整った顔の少女だったはずだが、今の形相はまるで般若だ。

「あ、あああああああ!」

 金切り声。声を限りに上げたようだが、声量が足りない。不愉快さを表情に出さずに受け流す。

 少女が立ち上がった。幽鬼のような佇まいだった。地団太で踏むのかと思ったが、そうはならなかった。


「わ、れ、は、お、も、ふ……」


 何を言っているのか、最後は判然としなかった。

 西播磨の特務司書は乱れた髪を夏風に晒し、澱んだ瞳を真っ直ぐにこちらへと突き刺してくる。

 細い指がすうっと向けられ、自分の鼻先を指し示しているのだと知った。


「われは思ふ末世の邪宗切支丹でうすの魔法黒船の加比丹を紅毛の不可思議国を――!」


 切れ目なく激しくまくしたてる少女の白い頬に涙が滂沱と流れる。その傍らに薄紫の色彩がゆらりと凝るのを、無名ははっきりと見て取った。


「色赤きびいどろろろを匂鋭きあんんんんじゃべいるるるるるるるるるる」


 その白目が桃色に見えるほど血管が走っている。小さな唇の端にピンクの泡が溜まり、舌が跳ねるたびに飛沫を飛ばす。砂嵐のような雑味を混ぜながら、薄紫の色彩はついに朧な人型の輪郭を結んだ。

 輪郭の手に当たる部分が何かを持ち上げる。何かが輝く。夏の日差しを映して。まるで真鍮の撃鉄のように。

 水をはじく紙に無理矢理絵の具で描いた絵のような醜い輪郭。その銃口さえ、朧な影にすぎなかった。だが、それははっきりとこちらを向いていた。

 少女の指と、同じ向きを。


「なんばんんんのさんとめじまをはたたたたあらららきちんだのさけをぉおぉぉぼぼぼぶぶぶぶ」


 それはもはや声とも呼べなかった。生きた人間の魂を擦り減らして用いる邪術が上げる、おぞましい軋みだった。

 現し世に無理矢理描かれた薄紫の影の名を、無名は悪寒と共に鋭く呼んだ。


「北原白秋――」


「君は」


 場違いに涼やかな、鮮明すぎる声がした。

 懐かしいほどに変わらず堂々とした響きで語りかけて、影はざらざらと乱れる細い指を銃爪に掛ける。


「こういうのがお好みかい?」

「……総員、退避!」


 無名は絶叫して、転がるように図書館の外壁の陰へ飛び込んだ。

 バリケードを突き抜けて放たれた不可思議な散弾が、棒立ちのままの地方職員の頭を粉々に吹き飛ばしながらばら撒かれるのが見えた。






 仕事は日ごとに増える一方となった。特務司書と呼ばれた錬金術師たちの間にいつの間にか広まっていた悪疫の処理は、どう言い訳を考えても自分たちの仕事に他ならなかったのだ。

 全国の国定図書館に、特務司書たちが立てこもり始めた。戦いは終わっていない、私から彼らを奪わないで、そう叫びながら、古書の詰まった急拵えの館舎を必死に守り始めた。

 これははたして、罰なのだろうか。無名はどんよりとした眼を供述音声の書き起こしに投げかけながら考える。

 罰。

 誇り高い魂を眠りから呼び出し、都合よく使役しようとした傲慢への。

 罰。

 未知の存在が齎す苦痛を、自分たちでない誰かに肩代わりさせようとした怠惰への。

 罰――


(楽園を捨て切れてもいないくせに背を向けた、哀れな女への?)


 過ぎた自虐だった。無名は唇をひきつらせて、笑った。

「余程疲れてるみたいだな」

 気遣いの割には大きな声で、館長が書類の山の向こうから言った。笑い声が聞こえたとは思わないが、と無名は眉を寄せて体を横に傾け、そうしなければ妨げられる視線を無機質なデスクに向かう大男へと向ける。

「手が止まってるから。音で分かったんだ」

 皮脂で縺れ気味の顎髭を撫でて、館長はくたびれた笑みを浮かべてみせた。

「疲れてるから、館長殿がとんでもなくいい男に見えますよ」

 呻きながら姿勢を戻す。館長は面白がったような声で軽口を叩く。

「いきなり手厳しいな」

「疲れてなくてもね」

「……本当にマズいみたいだな、仮眠を取った方がいいんじゃないか?」

 本気で心配させてしまったらしい。無名は目を擦りながら思案し、結局曖昧な唸り声でそれを誤魔化すことにした。

 館長はしばらく探るように黙り込み、やがてぽつりと言った。


「まさかこんなことをするとは思ってなかったんだ。彼女が――」


 帝國図書館の特務司書。数多の新技術を物にし、あらゆる転生文豪を従えた、侵蝕者との戦いの立役者。彼女が現実に文豪たちを呼び出し戦わせるための禁忌の術を開発していたことを、誰が知ろう。

 彼女の所在は不明のままだ。例の術が国定図書館を取り上げられようとしている特務司書たちの間に伝播したのは、彼女が最後に人前に姿を現した一週間後。計画的な犯行が疑われている。

 館長もネコも、最初は厳しく詰問された。この邪術の成り立ちに繋がる細い糸を握っているのは、この二名だけと言っても過言ではなかったのだ。小林多喜二にはならずに済んだよ、と憔悴しながら帰ってきた男が口走った冗談はあまりに笑えず、執務の停滞について話をする気になど全くなれなかった。

 無名はタイプライターにインクをセットしながら、極力軽い調子で言った。

「さもありなん。私が彼女なら、館長には教えませんね」

「文豪を呼び出して戦わせるなんて。どうしてそんな恐ろしいことをする気になったんだ」

「今までさんざんやって来たじゃないですか。侵蝕者たちと戦うために」

 館長の嘆きは理解していた。共感してしまえば楽だろうと思った。

 だが、それはできない。自分は特務司書だったのだ。たとえあっさり楽園を捨て去って次の仕事を始めた薄情ものだとしても、あの国定図書館で過ごした戦いの日々は本物だった。

「――それが政府に楯突いた途端に恐ろしいこと扱いなんて、通りませんよ」

「君は」

 長く止まっていた手を動かし始めたらしい。紙がすれるかさかさという音と共に、館長は密やかに尋ねてくる。


「君は、彼らと同じことはしないのか。君にも、出来るかもしれないのに」


 無名はせせら笑った。

 それだけで誤魔化しては、いけないと思った。


「銃が欲しければ、本物を撃てばいい。私には無用の長物。それだけです」


 館長は黙り込んだ。問いはそれきりになった。

 きっと、文学的ではない答えだったのだろう。帝國図書館の館長を興ざめさせるほどに。皮肉交じりに推量しながら、無名は和文タイプライターのキィに指を落とした。






 あの答えは本心だった。

 転生文豪たちの戦闘力は確かに高いが、あくまで個人の範疇だ。対特務司書の作戦というものも、刃物や飛び道具を持った凶悪犯の立てこもり事件と大した違いはない。

 問題は、その凶器を取り上げることが難しいという点だった。

 無名は案内された留置場の床を見下ろして疲れの籠った長い嘆息を吐き出した。床には赤黒い線が長々とのたくり、あちこちがかすれながら文字を形成している。


「のをあある、とをあある、のをあある……」


 勿論単に読み上げるだけならば、何が起きるという訳でもない。とにかくこの文字を自分の血で記した元特務司書の傍らに現われた影は、その願いに応じて拘束された元特務司書の頭を撃ち飛ばしたのだ。

 床中に散らばった生体の組織片はすでに清掃されている。その年若い少女の魂が安らかであることを、無名は無意識に祈っていた。

 祈りながらも、少し邪念が過る。

 

「萩原朔太郎ね。……良い趣味してると思うよ」


 豊かな黒髪の青年の、繊細な横顔が頭をよぎる。美しい男だった。残した作品と同じくらいに。それは、他の文豪にも言えることだったが。

 思い描く。その瞳と見つめ合い甘い言葉を囁き合った楽園に、戻れないことを知った少女。

 あの遠い海の時化のような瞳に見られながら死ぬなら、悪くない。壁に貼り付いたままの灰色の肉片の持ち主が揺れ動く心のままにそう思ったのだとしたら、むしろ祝福して送り出すべきかもしれなかった。






 元特務司書による国定図書館の占拠事件は、ゆっくりと根雪が解けるようにその数を減らしていった。

 備品の万年筆で突発的な自殺を選んだ者。

 呼び出した文豪に自分の殺害を命じた者。

 疲れ果てて投降した者。

 突然錯乱して飛び出してきた者。

 餓えて、あるいは渇いて死んだ者。

 一番多かったのは衰弱死。魂と活力を擦り減らしてでも特務司書たちは文豪の影を呼び出したがった。実際は人員を割かなくとも、特務司書たちは勝手に衰えながら記憶の中の楽園へと旅立っていったのかもしれない。

 仕事はなかなか減らないが、ひとまず増える予定はなくなったということだ。

 無名は疲れ目を擦りながら何十度目かになる良かった探しを終え、思い出したように天井を仰いで目薬をさした。


「不幸になる若者ばっかりだ」


 書類仕事と悪戦苦闘する館長の声には疲れが嫌な軋みを含ませている。無名は警察から上がってきた調書の束へ向けて目を鋭く細めながら、それを聞き流した。


「本当は祝福したかった。俺だって。彼女と、あいつを。だが、どうすりゃ良かったんだ?」


 繰り言。無名は俯いた。調書はひどい癖字だ。頭に入ってこない。


「もっと相談してくれたら良かったんだ。こんな……怨念みたいな術を残して姿を眩ますなんて」

「相談したところで、何が出来たって言うんです」


 呟く。館長がぴたりと黙り込む。

 無名は顔を上げた。泣き笑いのように口元を歪ませて、ねっとりと囁くように続ける。


「文豪はね、凄いんですよ。ほんとうにね、凄いの」

「君は……」


 たじろいだような空気が伝わる。ドン引きという奴だったかもしれない。

 構うつもりはなかった。無名は背を震わせ、笑った。


「どんな大義があったって、政府は取り上げたんです。恋する女から、男を。どこにも話し合いの余地なんてない。あるはずがないんです」


 迂闊な発言かもしれなかった。だが、それを気にする相手ではないということも分かっていた。

 しばらく、会話に空白。やがて諦めたような嘆息が聞こえて、その話題はそれきりになった。






 立てこもり事案がなくなってから出張はしなくともよくなったが、今度は仕事場と家の往復ばかりだ。気が付けば色々な生活必需品が切れたり不具合をきたしていたりする。

 背骨にみっしりとつまっている疲労の予感から目を背けながら、無名はサンドイッチと乾電池が入ったコンビニ袋を指に引っ掛けるようにぶら下げて帰途を急ぐ。曲がり角の街灯の光は、もう一週間近くちらちらと危うく点滅している。

 その下のどろりと溜まるような影の中に、一人の少女が立っていた。

 地味な服装をした背の低い少女。分厚い眼鏡を掛けて、立てた襟に口許を隠している――

 通り過ぎようと踏み出した足が、凍ったように固まった。無名は儘ならない呼吸を押し固めるように息を詰め、少女の顔を食い入るように見た。

 見覚えのある顔。知っていなければならない顔。


「はじめまして」


 少女。

 帝國図書館の特務司書が、夜の静けさの中にも消え入るような小さな声で言った。

 少女が潜む影と同じ色をした眼が、じいっと無名を見上げた。


「そろそろ、私に聞きたいことがあると思ったので」

「……あなたは、……あ」


 何を言っている。何を考えている。なぜここに。私は何をすれば。

 混乱の極みだ。

 頭がうまく働かない。うわずる声で、呼びかける。

 少女はそれを気にする様子もなく白い瞼を片方だけ微かに下ろし、意地の悪い光をその艶消しの瞳に宿した。


「ねえ、あなた、少し意地悪すぎると思うんです」

「意地悪……?」


 喘ぐように聞き返す。誰かに親切だと思われたことも意地悪だとも思われたことも、ここしばらくはない。仕事漬けの日々は、そういった感情の起伏さえ奪って久しい。


「同じ男たちを愛した同志じゃないですか、私も、あなたも、彼女たちも。なんで、優しく出来ないんです?」


 ゆらりと揺れるように、少女が歩を進める。その背後に背の高い男の影が従えられていることに、ようやく気付いた。

 銀色の光。影の中に潜む。刃のきらめきだ。


「隠せると思ってたんですね。自分は愚かな小娘とは違う、頭が良くて綺麗な顔でうっとりするような声で強くて過去と悲しみを秘めてるだけの素敵な男のことなんか好きじゃないって、自分に言い聞かせていたんでしょう」


 少女は早口言葉のようにまくしたてる。呪文じみていた。無名は取りつかれたように激しくかぶりを振り、後退した。

 違う。

 そんなつもりはなかった。好きだった。心から。

 ただ、それは任務に優先されるべきものではないと思っていただけのことで――


「ねえ、寂しがってますよ。聞いたんです。本人から」


 帝國図書館の特務司書。特務司書たちを次々に破滅させた邪術の創造主。

 無名は退ける腰をみっともない思いで意識しながら、そのあどけない顔を睨んだ。

 聞いた。本人から。

 ただのカマ掛けだと思えれば楽だろうが、そう思わないだけの材料はある。


――君は、こういうのがお好みかい?


 脳裏に蘇る声。

 思えばあれは、西播磨の特務司書に向けた言葉ではなかった。見えさえすれば――不敵さといたずらっぽさを湛えたあの瞳は、自分を見ていた。知己に語り掛ける親しさで目の前の女に呼びかけて、北原白秋は引き金を引いたのだ。

 文豪たちは記憶を共有している。全ての特務司書の事を知っている。

 いつからのことかは分からない。少なくとも一度書に還り、無理矢理呼び出されている今は。


「誰だと思います?」


 問い。そのまま、少女は近寄ってこない。

 無名は立ち尽くしたまま歯を食いしばり、闇の中に目を凝らす。


「あなたが彼を愛していなかったなんて言わせません。彼もあなたを愛してた。あなたは彼のことを呼び出しもせずに、愛した男と会いたがる彼女たちの邪魔ばかりしているんだから」


 少女は地味な顔に恍惚の様相を宿らせ、両手の細い指をゆっくりと組んだ。


「怖がらないで。ねえ、大丈夫、私は愛を肯定したいんです。過去から呼び出された文豪たちと、今を生きる私たち。その間に生まれた愛も本物だったってことを、文学の歴史に刻みたい」


 桃色の舌が、少し厚めの唇を舐めた。


「でも原稿は、まだ執筆中なんですけど」

「……イカれてるね、バカ女」


 わざと強い語気で吐き捨てる。影の中の男の手がぴくりと動いたのが分かった。

 足を踏みしめる。そうでもしないと、ふらりと少女の方に寄っていきそうな気がした。

 幾度も考えたことだ。過去を生きる文豪と、これから生きていかなければならない自分たち。心を通わせることは悲劇にしかならない。考えた結果、自分に言い聞かせた。これは恋ではなく信頼だと。愛ではなく責任感だと。

 それを聡く気取って、あの男は悲しそうな眼をしていた――

 思い出す合間にも、少女の眼はゆっくりと見開かれていく。

 怒りの滾った子供の眼の光。うんざりするほど見慣れてしまった。


「話したってわかってくれないんですね。あなたみたいな無粋な人がいると、私たちの愛の証明に支障があるんです」


 結局は、そういうことらしかった。少女は嗜虐的な笑みを歪めた口許に浮かべ、静かな光を束の間眼の底に過らせる。


「もっと可愛らしいことを言ってくださいよ、……同じ男を愛した二人なんですから」

「……」


 同じ男。

 影の中から男が姿を現す。緑色の瞳が愁いを帯びて細められ、その大きな手に握られたバルディッシュがいかにも切れ味良さそうにぎらぎらと光った。

 佐藤春夫。

 胸中で、そのフルネームを呼ぶ。いつも呼んでいた、相手は少し恥ずかしがっていた愛称を、記憶の果てに必死に押しこむ。


――俺たちの仕事は済んだ。

――守るべきものを守り、失われるべきものを失った。


 あの時残した言葉は、自分への皮肉だったのか。自分が彼を失ったように、彼も自分を失った。この世には二人といないだろう、最高の男を。


「あの時」


 少女が涼やかに声を上げる。黒い瞳の奥に暗い法悦が渦巻く。

 白い手が闇を泳ぎ、無名の鼻先を指し示す。

 夜闇を鳴らす金の琴のような、耳に心地よい少女の声が続く。


「『あの時、おれがあの女、あの純潔な素直な娘と一緒になれさえしたらば、あの人が私をよく統一して』――」


 『田園の憂鬱』の一節だ。その声の微細な響き一つ一つに力を得たように、春夫の輪郭に燐光がちらちらと走った。鋭い刃がぐんと持ち上がり、無名の胸元を指示した。

 春夫の口許が震え、涙が出るほど聞き覚えた声で続きを諳んじる。


「『おれは今ごろ、いろいろな意味でもっと美しいもっと善い生活が出来て居ただろうに』――!」


 恨み節。あるいは後悔。どちらにしても、骨身に重く響いた。

 後ずさる。自分の鼻があった位置まで、美しい刃が進み出る。


「男の趣味は……」


 他の特務司書たちとは比較にならないほどにはっきりと像を結んでいる春夫と、目を合わせることはできなかった。無名は頬を炙る烈火のようなその男の存在感を感じながら、帝國図書館の特務司書へ視線を向けた。


「悪くないね」


 少女の横顔にはうっすらと疲れが刷かれている。デスクを共にするあの大男と同じ翳りだ。

 春夫に全ての会話を聞かせるために、わざわざ前もって呼び出していたのか。愛の肯定とやらをしたいという言葉は、その点だけを見ても疑いないように思えた。理解しがたいリスクを冒しているのなら、理解しがたい目的があってもおかしくはない――

 それなら、自分も理知を超えなければならない。

 振るわれる刃。揺れるようにスウェーしてそれを躱し、無名は走り出す。


「あっ、」


 少女の呻き声。即座に自分を追って走り出すこの足音は、少女のものではない。膝などもう砕けんばかりなのだろう。

 背に迫ってくる。春夫の気配。

 きみ、足は速い方だったっけ?ああ、思ったより遅かったんだ――図書館きってのいたずらっ子とたっぷり追いかけっこをさせられて、へとへとになっていたことを今更のように思い出す。

 笑いが零れた。今更だった。共に戦う仲間だった時に、この顔を見せるべきだった。

 愚かだった。聡くあろうとしていただけだ。だが、恋をしていた。強く、鋭く、深く、彼の言葉と同じくらいに。


「しんじつふかき恋あらば」


 まだ息は切れない。走りながら無名は呟き、自分の奥底に眠っているさび付いた錬金術師の素質に火をくべる。

 回路に電気が通うように、血を巡った力が唇から漏れる言葉の中に複雑な文様を刻み込む。


「わかれのこころな忘れそ」


 忘れたことなどなかった。いつも思い出していた。頭の隅がちりちりと灼けるように切なかった。

 喉が鳴る。目頭が痛む。目をぎゅっと閉じたまま走るのはかなりの危険を伴うが、開けていられない。


「おつるなみだはただ秘めよ――」


 頬を涙で撫でられながらも、気付いていた。

 気配。

 後ろに迫る男の気配は衰えたように削れていき、代わりに隣に熱と色彩が集まり始める。

 血のにおいがする熱い息と共に、無名は叫んだ。


「ほのかなるこそ吐息なれ!」


 隣に、男が立つ。

 薄暮の色をした衣を夜闇に翻して、ディテールがあいまいな顔に静かな決意の表情を漲らせる。

 その手に持たれているのは、銃。

 詩人としての春夫が、そこには立っている。

 引きちぎって奪われたかのようにあちこちを欠落させたまま、刃を持った春夫が武器を振りかぶる――


 銃声は、一度きり。

 少女が胸に空いた穴を不思議そうに見下ろし、そして打ち捨てられたように倒れる。


 その後には、何もいない。小説家としての春夫も、詩人としての春夫も。

 全て過去の作品の中に戻り、跡形も残さない。

 夜風の中に光が遊ぶ。羽虫が電灯を反射しただけのそれを魂の残滓だと思い込めるだけの詩情が自分にないことを憎みながら、無名は道路の上に膝を突いた。






 面会室のアクリル板の向こうの館長は、今までにないほど静かな瞳をしていた。

 無名は頬杖を突いて笑い、揶揄うように言った。

「仕事は順調ですか、館長」

「……」

 館長は瞼を伏せて考え込み、結局その話題に乗ることにしたようだった。

「大きく人員が入れ替わってな。でも仕事はそのままなんだ、何が何やらだよ。君に戻ってきてほしいくらいだ」

「戻れるわけないじゃないですか」

 帝國図書館の特務司書が残した悪名高い邪術。それを使って、人を殺した。

 正当防衛の範囲は明らかに逸脱している。その日の内に出頭して拘束され、それからは延々と特高まがいの尋問が続いた。拘束された元特務司書にしては冷静すぎる態度も、警察の不信を煽ったらしかった。

 後は、沙汰を待つ身という訳だ。

 いくらかの不満はあるが、これも全て報いだ。自分がしたこと、しなかったこと、全てへの。


「なあ、彼女を……」


 ふと、館長が呟く。続く言葉を探しあぐねたように少し首をひねり、そのままかぶりを振った。


「いや、やめよう」

「恋をしてる女を救えるのは、恋をされてる男だけですよ」


 釘をさすように、言う。怒らせたかとも思ったが、館長は寂しく笑うばかりだった。


「ねえ、館長」


 代わりに、無名は明るく話しかける。


「あの術を、邪術だとか、禁忌だとか――恐ろしいことだとか、怨念みたいな術なんて、言わないであげてくれますか」


 少女の眼。間違った狂熱に浮かされながらも、ひどく澄んでいた。

 自分の心。何度も読み返したあの詩を口ずさんだ時、心は恋を取り戻していた。


「好きな人が残した作品を口ずさむ時、特務司書はみんな幸せだったんです。くらくらするくらい、幸せだったんですよ」


 暗い面会室。傍らにデジタル時計が置かれて意地悪く時を刻んでいる。

 面会時間はあと一分もない。

 館長はその数十秒を待つこともできないほど居心地悪くなったのか、視線を彷徨わせながらそろそろと腰を上げた。


「わかんないなって、今ちょっと思いました?」

「……君は鋭いな」


 厳つい顔に、誤魔化し笑い。

 不思議と小狡くは感じない。無名も、笑った。


「よくわからせてあげるから、今度は手紙を持ってきてください。とびっきりの文才を振るって、素敵なお返事を書いてあげますよ」

 刑吏が威圧的に踏み込んでくる。

 無名はするりと席を立って、寂し気に佇む男へちらちらと手を振ってみせた。

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