消魂奇譚

2.錯日

 曖昧な光源。風の音も地を踏みしめる音も耳には届かず失せる。においも味も、その世界は伴わない。夏の日の川底で、痛む眼を開いて見た景色のように。

 左右に広がるのは緑深い森ばかりだった。褪せた写真のように、視界は一定の色彩に統一されている。味気なく、虚無的で、肝心な部分ばかりが不完全な風景。至る所で欠落した事物は歪み、捻じれ、裏返った文字に不自然に置き換わって無機質にゆらゆらと蠢いている。

 牧水は瓢から口を離し、わざと、ぷは、と道化た声を立てた。

 隣を歩む仲間たちの表情は硬い。鉄球に打たれ負傷した志賀の長身を支えながら歩む武者小路の横顔には、疲労の白い筆が衰えの色を刷いている。その円く澄んだ瞳の奥には不安定に揺れる光すらある。深刻な侵蝕の兆候だった。

 なんであれ、声を掛けてやらなければならないようだ。転生文豪の侵蝕は自然治癒しないが、多少なりとも思考をこちらに留める程度の努力なら出来る。牧水は掛ける言葉を探しながら、自分たちを先導する男の細い背に視線をやる。

 優美なライフルを片手に軽々と提げて歩む男。白い頬を縁取るように流れる薄桃色の髪。緩く波打つ艶やかなその髪を踊らせて己の武器をあまりにも的確に敵へ突きつけた時の、その男の表情を牧水はぼんやりと思い出す。

(こっちは、元気づける必要は……ねぇみてえだな)

 優しげな瞳の底に灯った冷静な光。文学を食らう侵蝕者を、奴らが齎す命の危機を前にした男の決死の敵意はそこにはなかった。どこか安堵さえしているような場違いに穏やかなものすら、牧水は感じていた。

 高村光太郎は、確かに冷静で穏やかな青年だ。だが、さすがに妙な話ではあった。有碍書の中。さまざまな情報が欠落した歪んだ世界。新緑のにおいすら伴わない不垢の風の中を歩みながら、あれほどまでに心を落ち着かせられるというのは。

「おめぇさん、酒はやったっけか」

 銃剣が溶接されている牧水の銃。適した装具もないため手を空けることはできない。片手に生暖かくなりつつある銃把を掴んでぶら下げたまま、武者小路に声を掛ける。唇が震えて答えになりそこねた音が帰って来る気配を感じ取ったが、細かくは聞き返さずに能転気な声で言う。

「かなり前なんだが……洋酒を買ったんだ、気紛れでな。帰ったら一緒に味を確かめてくれねえか?」

 禍々しい洋墨の霧が、ふわりと視界を黒く染める。それは幾つかの点に向かって収束し、渦を巻きながら侵蝕者たちの異様な姿を構成していく。高村が振り向きもせずに決然と手を横に突き出し、後続へ止まれの合図を出す。

 牧水は武者小路へ視線をやった。口端を軽く吊り上げて悪だくみの笑みを向け、邪魔にならないよう瓢を下げる紐をきっちりと手首に巻き付ける。

「俺一人じゃ善し悪しが分かる自信がなくてな」

「……ご相伴します」

 無理やりにでも笑みを作ったらしい。武者小路の声が微かな柔らかさを帯びる。牧水は力強く頷いて、手にした銃を洋墨の粒子の収束点へと向けた。結ばれようとしている像は想像以上に大きい。散発的な攻撃では仕留めきれない――会派筆頭の高村も同じ判断をしていることを、牧水は信じた。

「よぅし、合図をくれよ、高村!」

「ああ、早く終わらせようか」

 やはり、揺れのない平静な声。金色の歯車に飾られた薄青い銃身がきらめく軌道を残して行く手へ突きつけられる。磨かれた白檜のように優美で固そうな指が無機質な空気をすぱりと切るように決然と泳ぎ、無音で吼え猛る醜悪な獣を引きずる巨大な侵蝕者の像を指し示す。

 高村は無言のまま。牧水は、短く吠えた。

 影も残さずに突き刺さった二つの銃弾が、侵蝕者の歪な影を抉るように削り飛ばした。




 ささやかな戦勝祝いは夜中まで続いた。

 上機嫌で礼を言い、生真面目に礼を言われながら、牧水が武者小路の部屋を出た頃には日付も変わっていた。

 まだ半分以上残っている洋酒の酒瓶は、部屋の主に押し付けた。武者小路は決して下戸ではなかったが、少ない酒を楽しく飲むことに楽しみを見出す性質のようだった。牧水もそれに合わせて自分なりに行儀よく飲んだ。

 小鳥が水を飲むように慎ましくグラスを傾けていた武者小路の横顔を、記憶によく刻み込む。微かに笑みがこぼれた。何かと理由を付けてでも、こうして仲間たちの酒の飲み方を知っていくのは有意義なことだと思えた。

 宿舎の廊下のすり切れた絨毯は石の床に固定されており、響く足音は見た目より硬い。点在する常夜灯の薄赤い光の中を進むと、夕暮れの海を泳いでいる魚のような気分になる。瓢を手に提げたまま、牧水は酒に温もった思考の端に脈絡のないものをちらちらと走らせる。酒の味。酒の入った武者小路の控えめな蘊蓄。補修室に運ばれていく志賀の険しい横顔。そして、やはり冷静すぎる高村の感情を見せない口許。

 特筆すべきなのは、その態度が有碍書の中にいるときに限られるというものだった――死地から帰ってきたその男の眼は、時が経つにつれてゆっくりと冷静さを失い、所作は何かに狙われているような動揺をじわじわと滲ませていた。特務司書による簡単な帰還後の検診を済ませた後はろくに他の仲間と会話を交わすこともなく、逃げるように自室へ引き上げていった。腰に巻いた深草色の布が翻るほどの、はっきりとした急ぎ足だ。

 有碍書の中。不垢にして無臭の、何かが欠落した異質な空間。高村があの中にのみ安らぎを覚えているというのなら、それは不自然なことだ。それ以上に、不幸なことであるかもしれなかった。

「……ん」

 いつの間にか階段を上がっていたことに、牧水は気づいた。足を止めて今まで登った階段の数をおぼろげに思い出す。今思えば目的の階を通り過ぎていた。おそらくここは、宿舎の六階だ。居室の数は五階までで足りているため、現時点では使われていない。

 軽く頭を掻く。すぐに引き返せばよいものを、なんとなく弾みのついた足に任せて二歩、三歩と前へ踏み出す。帝國図書館の庭園を臨む六階の窓。一目覗いてから、階段を下りて行こうと思った。

 澄んだ金属音が一つ、耳に届いた。

 牧水は足を止めた。常夜灯の頼りない光が丁度より少し足りない程度に散在している暗く長い廊下の向こう。白い背が揺れながら、仄赤く色づいた薄闇の向こうへ消えていく。長身の細身。左の頬に寄り添うように掛かる束ねられた退紅色の髪の房。すっきりと細い腰に掛かる飾りベルト代わりの二本の金属環が、その歩みに合わせて不規則な音を立てている。

 いつも通りの装いの、高村光太郎の後姿だった。牧水は怪訝さに耐えきれず、眉を寄せた。

 換気の効いていない六階には、湿気た建材の古びたにおいがごく薄らと漂っている。それを掻き分けるような心地で、牧水はその後ろ姿に向かって足を踏み出した。

 高村の歩みにはそれなりの指向性が感じられる。どこかを目指しているように、足取りは真っ直ぐだ。四つ目の常夜灯の下を通り過ぎて曲がり角へ向かい、角を曲がらずに傍らにある片開きの開戸の取っ手に手を掛けるのが見えた。

 大時代の掛け金が引っ込められる音。不快な軋みを伴って。五階より下は大幅な改装が入っているため普段は気にも留めないが、もともとこの建物はかなり年季の入ったものだったらしい。高村が開けたドアの向こうに、この建物が重ねてきた歴史が渦巻いているような気さえした。

 ドアをくぐる高村の片手に、何かが握られているのに気づく。牧水は思わず唇を丸く開き、お、と微かに弾んだ声を漏らした。

(酒瓶だ――)

 なんだ。と、気安く語り掛けたい気持ちになる。

(単に、そわそわしてたのか? 人のいない静かなとこで、早くウマい酒を飲みたいって)

 褒められた話ではないかもしれない。だが、可愛げがある。牧水は素直に好ましく思った。唇に笑みの弧すら刻んで、高村が消えたドアへと足を急がせる。

 耳障りな音を立てて閉じたドアの前に立ち、取っ手を掴む。真鍮の夜気に冷えた取っ手には、ざりっ、と妙な手触りがあった。特に気にせず、金具の軋む音を響かせながらドアを開く。

 真っ先に目に飛び込んだのは、懐中電灯の光。どこから持ち出したのか、赤い武骨なフォルムの本体から投影される灯りに手元を頼って座り込んでいる高村がそこにいた。酒瓶の封もまだ切っておらず、理知的な双眸をどこかぽかんと丸く見開いて唐突な闖入者へと呆けた顔を向けている。

「……若山くん」

 さほど意味もなく、ただ名を呼ばれた。牧水は悪びれもせず歯を見せて笑い、紐で手首に提げていた瓢をしっかりと掴んでずかずかと高村に歩み寄る。

「よお、いい晩だ。こんなとこで、隠れて飲まなきゃならないようないい酒なのか?」

 気まずげに黙る高村の視線は、しかし床に置かれた酒瓶には向かわなかった。狭く暗い部屋の中へ怯えたような視線をさっと走らせて、懐中電灯の作る光の図形の中に自分の身体を押し込みでもするかのように身を縮ませる。

 何もない部屋だ。ひどく汚れ、古ぼけていた。暗い床に積もる埃の層は厚く、縦に細長い窓の分厚い窓ガラスは四隅が黒く汚れ、中央ばかりがかろうじて小さな楕円の形に透き通っている。

 牧水はふと嫌な予感を催して、さきほどドアノブを掴んだ自分の手を見下ろした。乏しい灯りの中では鮮明ではないが、それでもはっきり分かるほど黒く汚れている。うへ、と呻いて掌を腿でごしごしと擦り、牧水は高村の隣へ陣取って腰を下ろした。

 あまり歓迎されていないというのは、肌で感じていた。しかし、構う必要は感じなかった。牧水は瓢を軽く掲げてたぷんと鳴らし、高村へ楽しげな目配せを送った。

「おめぇさんの酒を取りゃしねえさ。俺は俺で勝手に一杯やるよ、隣でな」

「……」

 高村はしばらく逡巡するように視線を伏せた後、ごく微かに顎を引いて頷いた。眉間に縦に走った愁いの皺と隆起が、白い肌にぞっとするほど長い影を刻んだ。

 その作業慣れした硬そうな指で、小型の酒瓶の蓋が捻じ開けられる。ラベルが牧水の位置からも覗けた。ありふれた日本酒のようだった。コップは持ってきていないらしく、そのまま瓶を持ち上げて厚いガラスの口へ咥えるように唇を寄せる。何かに急かされているように、細い喉が鳴る。

 あまり麗しい見世物ではない。安酒を不味そうにラッパ飲みする高村の姿には、どうにもその辛抱強い生まれ性に合わない自棄が感じられた。

 とはいえ、行儀を口煩く言うつもりは元からなかった。牧水は感心の笑いを短く零して、自分の瓢を口へ寄せた。

 汚れた窓から飛び込む光は、庭園に据えられたガーデンランプや近隣の建物の窓から漏れる灯りの類だ。それら一つ一つも、決して大した光量ではない。方向の定まらないぼんやりとした光。埃の中にゆらゆらと溜まって、牧水や高村までは届かないようにすら感じられる。

 ぬるい酒で喉を潤す。高村がいかにも大儀そうなうっそりとした息継ぎをして、酒瓶を床に置くのが感じられた。やはりどこか退廃的な、荒れた所作だ。

 何か、嫌なことでもあったのか――陳腐で直接的すぎる問いかけをうまく柔らかくする方法を、頭の中で模索する。

 ひきつるような笑いが耳に届いた。牧水は高村の顔を見ないまま、外の光の中をゆらゆらと舞う朧な埃の影へ視線を注いだ。

「まさか、君がいるとは思わなかったんだ。びっくりさせてしまったかな」

「おめぇさんもびっくりしただろう、お互い様だよ」

 薄い光の中を泳ぐ埃が、不意にふつりと失せた。そこに影が落ちたせいだと、すぐに直感した。

 牧水は瓢を口から離し、目を凝らした。煤けて汚れた窓から埃の積もった床の上へ、何かの細長い影が落ちている。

「怖かったんだ」

 呟くように、高村が言った。影は風に煽られた旗のようにのたうち続け、唐突に晴れて元の光を筒抜けにする。

 牧水は眉間に皺をよせ、目元を手で擦った。ドアノブを掴んだ時と同じようにざり、という手触りが掌の中に籠る。顔から離した手は、さっき以上に真っ黒に汚れている。

 微かに漂う臭いを確かめるように、牧水は掌を鼻に近付けた。自分の手からは、焚火の煤と同じにおいがした。

 窓を見る。四隅の黒い汚れも、よく見れば炎で焦がされた痕ではないのか。煤煙の名残。窓硝子もつるつるしてはいない。煮溶けたような凹凸がある。

「頼るみたいに飲む酒は、あまり美味しくないね」

 高村の独白は続いていた。牧水は掌をまた腿に擦りつけながら――多大な努力と共に――明るい笑い声を上げ、ようやく高村の方へ顔を向けた。

 白く秀麗な高村の顔。その瞳は揺れながら俯いている。まるで、見たくないものを目の前にしているかのように。

 怯え。無視するには、あまりに色濃い。

「氷とコップでも持ってくりゃよかったんだよ。キンキンに冷やして飲む夏の酒は美味いぞぉ」

「若山くんは……」

 高村の、繊細に震える声。縋るものを求める子供のような。

「この部屋が何なのか、知っているのかな」

「いんや。どうやらおめぇさんの隠れ場所らしいってこと以外はな。教えてくれるのか?」

「僕も、知らないんだ」

 光。また遮られる。

 今度は一つではない。あいまいな黒い影が二つ、落ち着きなく揺れながら窓の外を過ぎ去っていく。

 耳に届く。微かな音。燃え滓になった本がぶつかり合うような、乾いた脆い感触を残す音だ。

「ただ……きっと、この部屋そのものは何でもないんだと思う。この図書館は、壁が薄いんだ……それだけなんだよ」

「壁、ってのは?」

 どん、と、間近の壁が鳴った。さすがに平静を保てず、びくりと肩を震わせる。

 壁はしばらく鳴り続けた。小さな拳で打たれるような重みのない打撃音が繰り返し響き、やがてじわじわと弱まっていく。それがふつりと力尽きたように途切れるのを待って、高村はまた酒瓶を手に取った。

 酒に濡れた唇が常にないほど艶めかしく卑屈な笑みを湛え、唾液の細い糸を上下に引いて開かれる。

「此岸と彼岸を隔てる壁だよ。この図書館は……きっと、ほんの少しだけ、あの世に近いんだ」

「……なんでまた、そんなことを」

 酒を妨げるような質問攻め。牧水の美学には反する。だが、聞かずにはいられない。

 高村の怯えは消えないようだった。ますます顔色が悪くなっていくようにすら見えた。返される声も気力を失い、独り言めいて響く。

「僕は、語り掛けた。特に意味はなく、ただいつものように。そうしたら……声が、少しだけ返ってきたんだ」

「語り掛けたってのは……死人にか?」

 想像する。この世とあの世を隔てる壁。その一部が削がれたように薄くなっている。その抉れた壁の前に何気なく立った男が、亡き妻への愛の歌を口ずさむ。壁の向こうに座る女が、喜びの涙を零して呼びかける――私はここよ、ミツタロウさん。

 なるほど、美しい光景かもしれない。だがそれ以上に、異様だった。あの世の声が届くところをわざわざ訪れて、恐怖に震えながら酒を嗜む男というのは。

「四月一日だ。美しい春の夜だった」

「一日ってことは、だいたい……いや、丁度三か月前かねえ。けっこうな話じゃねえか」

 もう日付が変わっていることを思い出して言い直す。硬直しそうな頬に笑みを何とか浮かべて、牧水は瓢を傾ける。

 高村が不意に黙り込んだ。酒を傾けて一口だけ喉へ流し込み、何かの踏ん切りを得たように微かに声に力を籠める。

「そう。若山くん、一日なんだ」

 高村の俯いていた顔が決然と上がる。怯えの消えない揺れる瞳が、牧水をじっと見つめた。

 その手が闇の中を泳ぐ。牧水の作務衣の裾を、見た目よりはるかに力強く掴む。

「朔日。毎月の一日。いつから繰り返していたことなのか、どうやって始まった事なのか、それは僕には分からないけれど――」

 乾涸びた声を恥じるように高村は口を閉じ、唾液を押しこむように喉へ送り込んだ。

「……この部屋は、死者のものになる。薄くなった壁に穴が開くんだ」

 ぼっ、と部屋の隅の埃が舞い上がった。

 炎のように揺らめく黒い影が捻じれながら天井に向かって持ち上がり、届かずに掻き消える。耳の奥で、耳鳴りのように、聞こえもしなかったはずの低く重い声が陰々と残る。

 いつの間にか、瓢を置いていた。牧水は頭を軽く押さえ、揺らぐように身動ぎして高村から少し顔を離した。

「それで……」

 呻く。脳天気な調子は取り戻せそうになかった。

「それで、おめぇさんは酒瓶抱えてここに来るって訳か? あっちに……彼岸にいる誰かと、酒飲んでおしゃべりをするために?」

「違うんだ」

 予測はしていた答えだった。

 高村の怯えた表情は、牧水のこじつけた理屈に全くそぐわない。

 そうだったらどんなにいいか、とでも言いたげに高村は顔を歪め、かぶりを振ってもう一度繰り返す。

「違うんだ……僕が、毎月一日に、ここに来るのは。来なければならないのは」

 外の光がふつりと消えた。懐中電灯の光だけが手元に残った。

 汚れた窓の向こうに、何かが押し寄せている。黒く、乾いた、絶えずぞわぞわと波打つ、人型を真似しそこねたようなぎくしゃくとした輪郭の何か。窓を隙間なく埋め尽くすほどに。窓ガラスがぼうぼうと陰鬱に鳴る。

 高村の顔がまた俯いた。震える唇が、続きを声にした。


「なだめるためだよ、彼らを……」


 耳鳴り。煤の気配。黒い影の蠢き。それらに囲まれて無力に座る高村。

 まるで、未知の何かに捧げられた贄のように。

 牧水は息を呑んだ。高村の眼の怯えはもう一つの色を持っていた。深い、深い諦念の色。

「僕は知ってしまった。繋がってしまった。だから、朔の日はここに来なければならない」

 深い穴の底で渦巻く風音のような、虚ろな響きを含んだ声だった。

「……どうなるんだ、もし……おめぇさんが、ここに来なかったら?」

「どうなるかは、僕しか知らない」

 牧水は自分の作務衣を見下ろした。いつの間にか頼りなく縋るように添えられていた高村の手をきつく掴み、ぐいと引き寄せて語気を強めた。

 必死になっている――

 自覚する。怯えている。言い訳のしようもなく。高村から伝播したものか、自分の心から湧き上がったものか。

「なあ、どうなるんだ?」

 返ってこない。言葉も、笑みも、怯えた眼差しすら。

 高村の唇は死人のように引き結ばれていた。頑なに閉じられた瞼。青白い顔は懐中電灯の光の中で、蝋のように微かに透き通ってすら見えた。

 牧水の指から力が抜ける。掴んだ手首を煤臭い闇の中に離す。その瞼の裏にどのような悍ましい光景が広がっているのかを、牧水が知る術はない。




 牧水は満腹の腹をさすりながら、食堂の献立表を見た。献立の中身ではなく、日付を目で追う。

 七月三十一日だ。何度確かめても、それは変わらない。高村と並んで、煤の亡霊に囲まれながら酒を飲んだあの夜から、もう一月が経とうとしていた。

 特に何も変わらずに、夏の日差しだけをいたずらに強くしながら日々は過ぎていった。有碍書に潜書する時にだけ幾らか生きた人間のような顔を見せる高村の様子も変わらなかった。

(聞き忘れたな)

 ふと思う。結局、なぜ有碍書の中でだけ落ち着きを取り戻すのかについては聞かないままだった。幽霊に怯える気持ちは十分に分かるが、あの悍ましい侵蝕者たちを前にした時だけそれを忘れるというのは理に適っていないような気がした。

 椅子に戻って、朝方にたっぷり酒を満たした瓢を口元に寄せ、傾ける。同じ卓で食事を共にしていた白秋が、咥え煙草のまま牧水へ横目に視線を投げかけてくる。

「牧水ときたら……昼食が終わったばかりだというのに、もう夕食の確認かい?」

「食べ盛りなんでな」

 軽口を叩いて片頬だけでにっと笑む。白秋は呆れたように一度だけ瞬きをしてから、手加減を主張するかのように少しだけ笑いを返してきた。

「それで、明日の朝食は何だったのかな?」

「そらまあ、いつも通りのいつも通りさ。前の昼から楽しみにするかって言われたらなあ」

 献立は読んでいなかった。適当な軽口めいた調子で誤魔化したところで、唐突に聞き覚えたベルがジリジリと低く鳴り響いた。

 牧水はふと顔を引き締め、静かに食堂の扉、潜書室の方向を見た。有碍書に潜書した会派の、帰還を告げるアラームだ。その中には高村も加わっていた――

 俄かに外が騒がしくなった。仲間たちの足音がばたばたと行き交う。ただならない気配を察したらしい賢治が俊敏に椅子を立ち、ぱっと駆け出して食堂のドアを開けた。

 たちまちのうちに賢治の姿が消えるドアの向こうから、啄木の焦った声が微かに届く。

「馬鹿、こら、もう少しなんだ――しっかりしろよ、高村!」

「光さん、しっかり!」

 手伝いに駆け付けた賢治の、やはり焦りが隠せない声。

 耗弱。いや、喪失だろう。それも、あの男がまともに二本の足で立てなくなるほどの深刻な喪失だ。補修室に向かって、複数人の足音が騒がしく遠ざかっていく。

 食堂のドアがばたんと閉じた。昼食を終えたばかりの仲間たちの間に、懸念と不安が雲のように広がり、共有されていくのを牧水は感じた。

「光太郎君が……」

 煙草をアルミの灰皿に押し付けてもみ消し、白秋が俄かに硬くなった表情で呻く。

 牧水は黙って俯いた。白秋の煙草が備え付けの灰皿に残す小さな煤模様から、なぜか目が離せなかった。




 牧水は、程なくしてまたベルを聞くことになった。

 深夜に鳴り響いた、聞いたこともないほどけたたましいベル。すぐさまざらざらした雑音だらけの館内放送のスイッチが入り、特務司書の焦った声が特大音量で鳴り響いた。

『火災が発生しました。繰り返します、火災が発生しました! 皆さんは速やかに、冷静な避難に移って下さい!』

 割り当てられたベッドの上でのたうつように跳ね起きて、牧水はすぐには行動に移れず、ただ呆然とそれを聞いた。部屋の中を見回すが、窓から炎の灯りは見えない。それだけを確認して寝間着のままベッドを下り、支給のスリッパを突っかける。

 時計に視線をやった。時刻は零時を僅かに過ぎている。

(八月、朔日――)

 不吉な予感が胸の奥を重く、冷たくする。音割れしたままの館内放送が避難場所を指示する。

 宿舎の前庭。帝國図書館本館から見れば、一番遠い場所に確保できる開けた場所だ。火元は少なくとも、宿舎ではないということになる。

 無意識に床に転がしたままの瓢を拾い上げていた。紐を手首に巻き付けてしっかりと把持しながら、部屋の戸を音高く開けて廊下へ駆け出す。館内放送はようやく少し音量を落ち着けて、それでもわんわんと遠鳴りを続けるほどに石造りの建物の中に響いた。

『火元は本館、補修室です。宿舎にいる皆さんは、落ち着いて近くの非常口からの脱出を――』

 補修室。

 牧水は顔を歪め、口許を抑えた。昼間の騒ぎがベルの音を圧して脳裏にこだました。あの男は補修室に収容されたはずだ。そして、その後は? 深刻な喪失状態。長時間の補修。宥める者が不在のまま、朔日を迎えたあの部屋。

 今、高村はどこにいる?

 走る。廊下に佇む背が見えた。見慣れた旧友の背中だった。今の放送で魂が抜かれたかのように、困惑して立ち尽くしている。

「啄木!」

 牧水は叱るように強い声音で呼びかけ、その背に迫った。旧友はのろのろと振り向こうとしていたようだった。一瞬の迷いすら見せずにその襟首を掴み、引きずるように問答無用で足を踏み出す。

「ぼっさん、高村が――」

「馬鹿、逃げるんだよ!」

 か細い声を掻き消すように怒鳴りつける。どうにもならないという確かな予感が、胸の裡にあった。自分にも、啄木にもだ。

 黙り込む啄木を必死で引きずって、牧水は非常口を目指す。仲間たちの足音が、あちらこちらで踊るように激しく響いた。




 原因不明の火災が、延焼することはなかった。

 補修室の一角をたちまちのうちに焼き尽くした炎は、まるで用事を忘れた子供のようにその一角にぶらぶらと留まって周囲を焦がすにとどまり、やがて消火されるがままに尽きていったのだという。

 激しい炎の中で、高村の骨はとても小さくなっていた。拾い上げた途端に炭化した両端ががさりと崩れていったのだと語って、救助活動から帰ってきた啄木は虚ろな眼で黒く汚れた自分の手を見下ろした。

 補修室が機能しない以上、潜書任務は行えない。喪に服したかのように静まり返った図書館を見渡せば、出歩く仲間たちは皆自然と自分の鼻や口を押えるようになっていた。

「焦げ臭いんだ。どこもかしこもね。まるで、燃え猛る炎に周りを囲まれているみたいに」

 火事以降煙草の量を更に増やした白秋が、水を底に敷いたスタンド型の灰皿の前で語る。煙草を吸い終えるたびに僅かな間が開くのは、灰皿の中で火が消えているかどうかを慎重に確認しているからだろう。

「みんながそう言っているようだよ。いくら換気をしても、焦げ臭いにおいがとれなくて――」

「火事の気配が間近に控えてるみてえだ、って言うんだろ?」

 酒で喉を潤しながら、牧水は捨て鉢に答える。

 宿舎にも本館にも充満している喉につかそうな焦げ臭い空気のせいで、仲間たちは皆喉の渇きを盛んに訴えるようにもなっていた。飲酒癖のないはずの者が何かから逃れるように酒の封を切っているところを、牧水は何度も目にすることになった。その度に、あの宿舎六階の部屋の汚い床に座り込んで縋るように酒瓶を傾けていた高村の横顔を思い出した。

 白秋が黙り込んでいるのに、牧水は気づいた。火のついていない煙草が、淡くすっきりと整った唇に所在なげに挟まれている。

「……悪いことが、起きる気がするのだよ。これ以上の悪いことなんて、そうそうないだろうにね」

 余裕めかした言葉選びを、震える声が裏切る。

 牧水は瓢から口を離し、軽く肩を落として力を抜くように吐息した。伏せられた白秋の眼を覗き込むように背を屈め、顔を近付ける。遠い夢を見るような菫色の瞳が、驚いた様に忙しなく瞬いた。

 怯え。いつかの誰かと、同じような。

 もはや、あの部屋の中のことだけには留められない。皆が同じ目をしている。この世とあの世が食い違った暗い部屋の中で、不味そうに酒を嗜んでいた高村と同じ目を。

 牧水は姿勢を戻し、瓢を舌の上で逆さにした。酒の雫が二滴だけ、下の表面を叩いて喉へと滑り落ちる。

「ああ」

 呻く。

「俺が行くしか、ねえみたいだな」

「……何のことだい?」

 牧水の呟きを聞き逃す白秋ではない。すぐさま返された硬い声に少し腰が引けるのを感じながらも牧水は笑って、軽くなった瓢を持ち上げた。

「分かるだろ、酒のおかわりだよ」

 うまく誤魔化せた方だった。白秋は何かを見透かそうとするように目を細めたが、それ以上の詮索はしてこなかった。




 宿舎の階段を上る。焦げ臭い空気は六階にも充満している。

 片手に提げた瓢をわざと揺らし、たぽんと音を立てさせる。暗い廊下に点在する常夜灯。薄赤いそれは、火事の残照にも似た。

 廊下を歩む。自分を知らず知らずのうちに先導した、細身の優男の白い背中は最早ない。この地平のどこにも、もう存在しない。

 牧水はまだ擦り切れていない作り付けの絨毯の上を真っ直ぐに歩んだ。真鍮のドアノブに手を掛けて回し、引き開ける。それだけで掌が煤で真っ黒に汚れたことはできるだけ意識の外へ追い出して、狭く四角い部屋の中央へ歩いていく。

 牧水以外の、誰もいない部屋。少なくとも、此岸の人間は。

 黒い影が視界の外から持ち上がるように湧き出し、犇めきあう。責めるように、怒るように、詰るように、不穏なざわめきと共に時たま黒い灰がぱらぱらと肩や手の甲に降った。その度にちりちりと焦げるような熱さを感じたが、顔をしかめるのみに留める。

 牧水は瓢をゆるりと持ち上げ、口角を緩めて笑みを浮かべた。

「なあ、わかるぜ、おめぇさんたち――迎えに行ったんだろ?」

 部屋は答えない。煤は答えない。影は答えない。それに構わず、牧水は瓢の口を咥えて中身を喉に流し込んだ。

 舌の上で、酒の味が薄れていく。ひどく焦げ臭い水。喉がちくちくと痛んだ。牧水は喉をそっとさすりながら、部屋の中を見回して柔らかな声で言った。

「ここで大人しくしててくれよ、ちゃんと俺が来るようにするから。あいつの代わりにな」

 急ぎはしない。声が届くまでにいくらかの間があるのは、やはり本来はひどく遠いところにいる者たちとの会話のせいだろう――益体もないことを考えているうちに、影はじわじわとその数を減じていく。降る黒い灰も止まり、牧水の手のあちこちに火傷の名残の小さな斑点を残すにとどまった。

 ふう、と息をついて、牧水はその場に座り込んで惰性のようにもうひと口を飲み下した。ただ喉を刺すばかりの酒の味。火事の中に飛び込みでもしたかのようだ。

 瓢を口から離す。空気が周りに渦巻くような気配を、牧水は感じた。図書館中に充満していた凶事の気配。それが自分の周りに集まっている。吸う息も吐く息も信じられないほどに煤臭くなり、脂のような煤のようなえぐみが舌に隙なくまとわりつく。

 逃れるように酒を口にして、思わずむせた。煙草の灰皿に溜まった水を飲んでいるような刺激だ。飲み下せるばすもない。

 このにおいは消えない。どこまでも付きまとう。牧水には、確信があった。誰かが耳元で、丁寧に教え込んだかのように。

 これが途切れる場所は、きっと一つだけだ。

 においの情報がそもそも欠落した空間。有碍書の中の不完全な世界。

「おめぇさん、こんな酒を飲んでたのか――」

 牧水は口角を歪ませ、無力に笑った。笑いながら、最後に残った一つの影へ目配せをして、乾杯の音頭を取るように瓢を半端な角度で持ち上げた。

 焼けた肉体。焦げた骨。燃え尽きた肉。もはや誰であるかなど判別も出来ない。だから、影のように見えるのだ。この部屋に集う死者、その誰もが。

 それでも、最後の影が誰であるかは分かった。もうこの世に戻れない戦友へ向けて、牧水は苦笑いと共に言った。

「そりゃ、不味いはずだなぁ」

 自分の顔は青白いだろう。酒の飲み方は自棄じみているだろう。きっと、かつての高村のように。

 牧水はまた瓢を口につけ、傾けた。刺さるようないがいがした液体を喉から胃へと流し込めば、思ったよりも素直な酔いが込み上げてくるのを感じた。

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