消魂奇譚

1.泡を聞く

「いちばんぼし、みぃつけた」


 一人呟いて、賢治は藍色に沈み始めた空の端を指差した。

 灯りが灯り始める。裏庭を臨む帝國図書館の建物。その光に見守られているような気がする。賢治は夕闇の空に差し伸ばした腕をぱたりと引っ込めて、裏庭に面した人工林へと踏み入った。

 一言に人工林と言っても、林の中には色々なものがある。草木が生え、虫が飛んで、放置されている整地跡に掛けられたシートが朽ちて破れていたりもする。測量の目印らしい赤い杭は塗料が剥げて文字も読めず、地面に張られていたロープも枯れ葉にすり切れて思わぬところで弾けていたりする。

 ふと思い出して、賢治はついくすりと笑った。いつだったか、潜書後の食事の最中。誰のせいだかすっかり保護者役が板についてしまった春夫が、そのままの調子を引きずって賢治にこう言ったのだ。


 ――何があるか分からない林の中になんか、行くもんじゃないぞ。

 ――何があるか分からないから、行くんだよ。


 賢治は迷わず、そう答えた。春夫は少し困ったように笑い、それ以上の説教はしなかった。

 賢治はこの林が気に入っていた。一歩踏み出した先に、何があるか分からない気分にさせてくれる。それが良い。黄昏時のこの暗さの中でなど、特に。

 少し歩むと、倒木に囲まれた猫の額ほどの空き地がある。倒木も芯がぐずぐずと蕩けるように腐り始めているため、上に腰掛けることはできない。跨ぎ越えて、夏草のひしめく地面へ踏み入る。視界が開けて、薄れていく斜陽が差し込んだ。

 少し行けば、池がある。図書館の庭園の池とは違う、長らく放置されて藻と汚泥を細かく溶かしこんでしまった暗い水たまり。水草の隙間で縮緬のように細かい波を立たせる水面へ身を乗り出して映す自分の顔は、常とは違ってひどく不気味に感じられるのだ。

 伸びあがった草に持ち上げられたらしくぶらぶらと揺れている棒切れを拾う。それをリズムを取るように振り回しながら、池へと近づく。


ごぼっ。


 大きな音が、した。

 賢治は足を止めた。行く手にあるはずの池。夕暮れ時の闇に沈んで、その縁すら判然としない。


ごぼぼっ、ごぽっ、ぐぷっ。


 闇の向こう。澱んだ水面。

 そこに無数の泡が弾けている。何かが激しく藻掻いた様に池の水は掻き回されて、澱んだ飛沫を夏草の中にびしゃびしゃと散らす。

 見えた訳ではない。だが、鮮明に思い描いてしまった。

 何かがいる。池の中に、何か、激しく泡を吐き出して。


ぱちん。


 弾ける音すら耳が拾う。

 賢治は悲鳴を上げないよう口をきゅっと引き結び、それから踵を返して駆けだした。倒木につまずきかけて立て直し、木の根を踏んでよろけながら、光を求める虫のように一目散に図書館へと駆ける。

 泡の音が耳に付く。薄れない。幾度も重なって脳裏に響く。

 あれはどれほど深い水底から上った泡だったのだろう。あの泡が止んだ時に訪れる静寂は、どれほど悍ましいものだろう。息を切らしながら想像して、賢治は乱れる呼吸を必死に整えた。



*****



 翌日の図書館は、妙に静かだった。特務司書を含めて図書館職員たちの表情は硬く、口数も少ない。

 窓から見える裏庭には、いつの間にか昨日までなかったテープが張り巡らされていた。立ち入り禁止、と古めかしい活字で印字された紙が、呪符のようにあちらこちらにぶら下がっている。

「本日よりしばらくの間、妄りな外出は控えるように……とのことだ」

 助手の鴎外が書架に集められた文豪たちに淡々と告げ、鋭い眼差しを順繰りに投げかける。今にも金を借りながら遊び歩きを始めそうな者、メモを持って怪しいことに首を突っ込みそうな者、なんとなくふらふらと出歩いてしまいそうな者、とにかくそういった不安のある仲間を狙い定めたように。

 そしてその視線は、賢治にも向けられる。

 賢治は頷きもせず、抗議の声も上げず、黙って思案に暮れていた。泡の音はまだ、耳に生々しく残っていた。



 食事時にそれとなく探りを入れたが、この得体の知れない緊張の理由を知っている者はいないようだった。

「戦争、かもしれませんねえ」

 微笑をたたえた粘りつくような声音で言って、谷崎が牛飯を口に運ぶ。

「単に治安が悪化しているというだけかもしれないよ」

 涼しい顔で反論して、荷風が水の入ったコップを口許に傾ける。

 冷水の中でぶつかる氷の音すら、あの泡の音に似て響いた。賢治は身震いを隠すように、無造作に腕組みをした。

 泡。

 あんなに激しい泡が突然立つというのはどんな時だろう。

 たくさんの空気が入ったものが力いっぱい水に沈められたとき。その空気が激しく漏れ出した時。空気の入ったものが、必死で暴れたとき――

 居並ぶ仲間の顔へ視線を走らせる。この図書館にいる仲間たちに目立った変化はない。助手が決まって朝方に行う点呼にも、欠けはなかった。

 ふと、自分が恐れている答えに、賢治は気づく。

 あの夕闇の中、賢治が手を伸ばせば届いた距離で。

(……誰かが溺れ死んでいたなんて、そんな)

 怯えている。怯え切ってしまっている。そんな考えに至ること自体が。賢治は恥じるように、少し難しい顔を作ってみせた。



*****



 空の青が力を失う。夕暮れが近づいてくる。

 賢治は小走りに、見慣れた背中へ追いついた。廊下を歩む、自分と同じくらいの背丈の子供。耳のついたフードを揺らして、賢治が追い付くより早く振り返る。

「けんちゃん」

「南吉!」

 呟くように呼ばれる名に応えて、賢治は笑顔を作る。

 怯え続けるのは、もうやめることにした。恐怖に勝手な名をつけて目を背けるなど、臆病でくるくるした大人のやることだ。

 この眼で見定める。そう、心に決めた。

 自分の浮かべた笑顔に引きずられるように前向きな心地になって、賢治は決然と南吉を誘う。

「冒険に行こうよ」

「冒険?」

 細い首を傾げてきらきらした銀髪を零し、南吉は薄青く澄んだ大きな目をゆっくりと二度瞬かせた。

「ありもしないものを怖がって引きこもってる大人たちと、ボクたちは違うんだって!」

 南吉は考え込むように本の陰に口許を隠す。構わず、賢治は力説する。

「ね、証明してやるんだ。ボクと、南吉で!」

「びっくりしそうだね、みんな」

 弾んだ声が返ってくる。抱えた本を置いて、南吉はぴょん、と飛び出すように進み出、賢治の手を取った。

「どこに行こうか」

 南吉が楽し気に尋ねる。

 無論、行先は決まっている。

 賢治は窓の外を指さした。仰々しくテープに固められた森の中には、すでに薄暮の闇がこごっているようにすら見えた。



 いつも通りに裏庭から踏み入っては、大人の目につく。遠回りをして林に入った。

 針葉樹の高い梢を見上げて、南吉が尋ねる。

「けんちゃんは、よくここに遊びに来るね」

「林が好きなんだ、ここは作り物の林だけど……」

 方向感覚は良い方だ。迷いのない足取りで木々が妨げる道を進む。

「やっぱり何があるか分からないから、楽しいことが待ってる気がして」

 ふうん、と呟いて、南吉が隣に並ぶ。南吉の白い肌は、薄暗い林の中でどきりとするほど目に映える。

「昨日も、ここで遊んでたの?」

「……」

 いつの間にかまた拾っていた棒の先を眺めて、賢治は束の間沈黙した。いつまでも黙っている訳にはいかない。騙して連れてきたような形になってしまう。

「あのね、南吉。昨日、見たんだ。この林で」

「遊んでた時に?」

「うん」

 南吉がつまずきかけ、会話が途切れる。少しふらついたが、あっさり姿勢を立て直した。

「……池があって、そこからあぶくが立ってたんだ」

「煮えたみたいに?」

「とにかく、凄い勢いだったよ」

 言葉にしてみれば、そんなに恐ろしい事ではない気がしてきた。賢治は両手で大きな円を大雑把に描いて、抽象的に伝えるにとどめる。

 南吉はじっと賢治の顔を見詰めている。抱えた怯えが伝わっているような気がして、賢治は顔を引き締めた。

「ねえ南吉」

 極力明るい声で、尋ねる。

「いきなり池から泡が立つなんて、そんなことあると思う?あるとしたら、どんな時かな?」

「うーん」

 考え込んでくれたらしい。女の子のように細い首が傾ぐ。

 賢治は辛抱強く待った。その内にも、例の池はどんどん近づいてくる。

 南吉がようやく、口を開いた。

「例えば……水の底に、何かが棲んでいて。それが浮かんでくるときには、大きなあぶくが立つかもしれない」

「何か……」

 思い出す。暈けたような色のついた暗闇。立ち上る草いきれ。暗く固まったような空気の下で波立つ池の水面。長い藻を引きずって、池から這い出す何か――

 ふと賢治は顔をしかめた。よく見れば笑いを堪えているかのように妙に真面目くさった顔をしている南吉をじろりと睨み、唇を尖らせる。

「ボクのこと怖がらせようと思って、出鱈目言ってるでしょ!」

「えへへ、怖かった?」

 南吉は満足げに笑って、からかうように聞いてくる。賢治は憤然と拳を固めた。勢い余ってどこかにぶつかった棒がぺきりと折れる。

「全くもう、南吉ったら……」

 短くなった棒を濃くなりつつある夕闇の中へ泳がせるように手放して、賢治は自分に語り聞かせるように言う。

「池の中に棲んでて水の中でも呼吸ができる何かが浮き上がって来ただけなら、あんなに泡が立つはずがないんだよ。泡が立つってことは、空気が池の中に入ったってことなんだから……」

 南吉の言葉より、むしろ自分が語ろうとしている推測に、賢治は恐れを抱いた。いつの間にか黙り込んでいた横顔に、また南吉の視線を感じる。

 うやむやにしてしまっては、怖がっていると認めたことになる。賢治は小さく咳払いをして、自分の恐れたそれをあえて言葉にした。

「――空気を吸ってる生き物が沈んでた、のかもしれない」

 南吉は黙っていた。賢治ではなく、林の其処此処に濃淡をつける有機質な闇の方が気になって来たようだった。

 しばらく歩く。南吉はこころなしか賢治に身を寄せ、ひそやかな囁き声を耳に届かせた。

「誰かが溺れて、死んだのかな?」

 賢治は答えなかった。口を開こうとしたその瞬間に、生々しい泡の音が鼓膜の裏側に蘇った。


ごぼぼっ。

ごぼっ。


 息が詰まる。冷や汗が湧き出す。背すじを辿るように、汗の雫が伝っていく。

 肌が冷たくなっていく。沼地の泥のように、虫をからめ取った藻の塊のように、波も立たない死水のように。

 泡の音が止まらない。聞こえているはずがないのに、止まらない。

 あの泡の下に、誰かがいたのか。池の底の柔らかい汚泥の上に横たわりながら、熱い肺を絞って、あの泡を吐き出していたのか。

 激しく鼓動する心臓にきつく拳を当てる。南吉が伺うような沈黙を不安げに落とし、更に身を寄せてきた。

「南吉を、怖がらせるつもりはないんだけど」

 笑いも浮かべられない。力無く賢治は言って、薄暗く沈む行く手を見た。

「あの泡が耳から離れなくて……今でも聞こえてる気がするんだ」

「それは」

 呟きは、泡の音を押し退けるように耳に届いた。

 泡の音が大きくなる。

 どんどん鮮明に、はっきりと。

 賢治は弾かれたように、南吉を見た。


「今も聞こえる?」


 掠れた、低い、おぞましい声は、水の底でぶつかった石の音のようにくぐもって響いた。

 泡の音。聞こえる。今までより、一番激しく。一番鮮明に。

 ――そして、一番近く。


ごぼっ。ごぼぼっ。ごぷっ。


 南吉の口から、その音は響いた。小さな口がぱっくりと開くと、藻と汚泥でどろどろに染まった水が溢れ出して枯れ葉の上へと溢れ出した。

 気付く。気付いてしまう。


(どっちも、正しかった――)


 誰かが溺れて死んだ。

 

 水底から怪物が這いあがってきた。

 

 どちらも正しかったのだ。

 

 いつから入れ替わっていたのか。目の前のそれは誰なのか。


「なん」


 名前を呼ぶつもりだった。緑の泡がぶくぶくと南吉の薄い胸に零れ、一つ一つが不気味な音を立てて弾けた。

 雪のように真っ白な南吉の肌に、薄黒い鱗がざらざらと浮いている。じっとりと湿った手袋が、賢治の喉を捕らえて凄まじい力で引きずっていく。

 澱んだ水の臭い。泡の音。それが弾けるたびに、意識が遠のく。

 足掻こうとした。

 指先が水に触れ、ばしゃんと音を立てる。

 引きずり込まれていくのだと、それで悟った。こごったような闇を含んだ水の底。蠢く何かすら見えない、暗い向こうへと。

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