ピアノの日

「で、お前は何が聴きたいんだ」


グランドピアノのカバーを取り、蓋を開け、どかっと鍵盤の前に腰掛ける。手慣らしにアルペジオを奏でると、調律の行き届いた音が響いた。


「わああっ」


……そして、聴いているこちらが赤面するような、背中越しの無邪気な反応。不覚にも緩みかけた顔を見られずに済み、心底ほっとした。



久しぶりに一弥のピアノが聴きたいな――そんな無遠慮な願いをふっかけた張本人は、ふっかけられた側の負担など考えてもいないのだろう。


こちらにだって意地がある。見栄もある。こうして都内のレッスンルームを借りるまでに、俺はまた随分と見えないところで練習する羽目になった。最近忙しそうだね、等とメッセージを寄越すお前の無神経さには、ほとほとうんざりさせられたものだ。


「……で、どうなんだ」


苛立ちを装ってリクエストを促す。


だがこいつが音楽の知識を一丁前に持ち合わせているはずもなく、うだうだしているうちに俺はとっておきの曲を披露してやることにした。



「心して聴くんだな」



挑発するように微笑むと、俺はひと呼吸して、静かに両手を鍵盤に置いた。



***



「お前にお似合いの曲だ」


そんな言葉とともに一弥が弾き始めたのは、なんと「キラキラ星」だった。


もうちょっとロマンチックな曲にしてくれてもよかったのに……! なんて文句も言いたくなったけど、言葉にならなかったのはそれだけ一弥のピアノが素敵だったから。


うまく言えないけれど、一弥が奏でるピアノの音は、すごく一弥らしいと思った。


芯があって、ハッキリしていて、でも乱暴じゃなくて。子供向けの童謡のはずなのに、一弥が弾くとすごく上質な音楽に聞こえるから不思議だ。


「こんなキラキラ星はじめて……」


そんな感想さえ零れてしまう。そして一通りメロディを弾き終わると、一弥がおもむろに振り返った。


「……本番はここからだ」


ニヤッと笑って再びピアノに向き直ると、一弥の両手がふたたび鍵盤の上を踊り始めた。



***



それは文字通り、踊るように楽しげな演奏だった。


さっきまで上品に奏でられていた「キラキラ星」とは、ひと味違う。遊び心たっぷりのアレンジを施しながら、一弥は「キラキラ星」のメロディーを自由自在に重ねていった。


ときに可愛らしく、ときに力強く、ときにひねくれたアレンジは、まるで万華鏡のように鮮やかで……同時にそれは、一弥が人知れず秘めていた感情の色彩をみているようでもあった。



――お前にお似合いの曲だ――



……一弥の言葉を思い出して、ハッとする。


ひょっとして、このアレンジは私のため……? 大して音楽の知識もない私のために、そんな私でも楽しめるように、一弥が一生懸命考えてくれた……?


そう思うと、途端に愛おしさで胸が苦しくなった。


当の一弥の横顔は、普段の表情からは考えられないくらい、活き活きと楽しんでいるように見える。こんなに優しい気持ちになれたのは、いつぶりだろう。そんな想いを抱きながら、私はめくるめく「キラキラ星」の世界に思いを馳せていた。



***



……まさかここまで無知だとは思わなかった。


音楽をかじらずとも、モーツァルトの「キラキラ星変奏曲」ハ長調K.265の存在くらいは聞いた事があるだろう。


いわゆる「キラキラ星」の原曲は、あの有名なメロディーを基にした12の変奏曲で構成されている。天才モーツァルトの遊び心がうかがえるこの名作を、「自分のためにアレンジしてくれた」等と勘違いできるこいつの脳内はどこまでおめでたいのか。


だが……


「でも一弥、とっても楽しそうだったね!」


……ピアノを楽しいと思えるようになったのは、そう昔のことではない。母親に言われるがまま始めたこの習い事は、いつしか俺にとって、数少ない感情の吐き出し口になっていた。


だが、こいつと付き合い始めてからというもの、こいつの笑顔が見たくて弾いている部分が少なからずある…………いや、かなりある。


「一弥、ありがとう」


二人きりのレッスンルームで無邪気に抱きついてくるお前は、本当に何がしたいんだろう。


名付けようもない感情が胸のうちに渦巻く。その沈め方がわからなくて、しばらくピアノで誤摩化していたけれど……



気まぐれを装って弾いたどれもこれもが俺なりの礼なのだと、やはりお前は気づかないのだろうな。

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