Convalescent -恢復期-(上)

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@tenkufuga

7.Title(1)

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 シューベルト、エレンの歌 第3番、作品52-6「アヴェ・マリア」。


 その曲を彼女が歌い始めた途端、ギャラリーの二人の目の色が変わった。


 単なる余興を楽しむ家族の顔から、一瞬にして「芸術」を吟味する音楽家の顔になった二人に、昇は少し安堵しながら演奏を続ける。涼子に見る所などそもそも無ければ、彼らは決してそんな顔などしない筈だからだ。

 涼子は聖母へ訴えるその曲を、最後まで切々と、かつ朗々と歌い上げ、後奏の昇のピアノが終わりに差し掛かると、やっと肩の力を抜き、僅かに鼻から息を吐いた。


 ゆっくりと、ギャラリーの二人から拍手があがる。


“そうね……確かにこれは素人にしておくには勿体無い逸材だわ”

 サンドラは腕を組んで頬に手をつきながら、何やら考え込んでいる様子だった。

「西原さん、どこかで音楽教育を受けられたご経験は?」

 基滉に問われて、涼子は「特には」と短く答える。

「それでこの実力か……確かにかなり、素人離れしてるね。

 ―――解った、友基。俺の方から事務所に話を付けよう。

 お前はどんなプランを思い描いてるんだい?」

 涼子にも解る様に日本語に切り替えた基滉に、昇もまた日本語で返す。

「彼女には、顔出し一切無しの条件でデビューして貰おうと思ってる」

 サンドラ、基滉、涼子と、一人ずつに目を移しながら、はきはきとした口調で、昇はそう言った。

「デビューってちょっ……」

「まず彼女には専門的な音楽教育とボイストレーニングを受けて貰わないといけないと思う。

 彼女は発声の素地も音感も音楽的センスも申し分無いから、付け焼き刃で並行して売り出しにかかっても、そこまでの問題は起こらないだろう」

 話の流れに不穏なものは感じていたが、はっきりと言葉にされて慄く涼子を無視して、昇はそのまま話を続けた。

「専門教育修得までの売り出しと、ファン獲得の間口を広げるため、まずは俺とポップスデュオを組むのがいいと考えてる。

 ポップスはクラシックほど厳密な歌唱力を求められず、曲想をメインに評価されるからね。

 ポップス界では、顔出しNGでアーティストを売り出す手法も、既に確立されてるし」

「成程、現在新進気鋭のお前が組むのが、顔出しNGの女性だという所も、話題性としては申し分無いな」

 顔出しNGは、確かに既にポップスソング業界では確立されたマーケティング手法だ。

 顔出ししないだけに、容姿を売りにしてファンを獲得する事は出来ないが、それと引き換えとして、その容姿を客に「推測」させる事で、客の想像力と話題性を煽り、興味を惹き付ける事が出来る。


 昇と涼子が組めば、更にその効果は絶大だろう。


 一方は新進気鋭で容姿端麗な男性ピアニスト。

 一方は顔を隠された、ポップス界では希少なレベルの歌唱力を誇る謎の女性。


 二人の性別が男女であるだけに、この取り合わせは見る者の妄想を掻き立てる筈だ。


“でも、問題はそこからクラシック声楽家にどう移行するかね”

 基滉からあらましの説明を受けたサンドラが、腕を組み、頬に人差し指をあてながらそう呟いた。

“ポップスソングはマイクの使用が前提だから、音響を考える必要はないけど、クラシックではマイクは使えないわ。

 仮面をかぶるにしろ、後ろを向いて歌うにしろ、何らかの方法で顔を隠そうとすると、必ず音質に影響が出てしまう”

“そこで父さんの力を借りたいんだ”

 昇は至極真剣な瞳で基滉の方を見詰めた。

 ここでこの話を諦められてしまっては、絶対に困るのだ。



 差別に屈さざるを得ず、捨てさせられてしまった、涼子の夢のためにも。



“父さんなら、この問題を解決出来る筈なんだ。

 多数の音楽ホールを所有していて、音響設計士との繋がりも深い、父さんならね”


 基滉は暫く顎をつまんで考え込んでいたが、やがて口元に笑みを上らせて、頷いた。

“分かった。面白そうだし、何より息子のたっての頼みだ。全面的に協力するよ”

 そして彼は一瞬で笑みを消し、再び昇の方へと向き直った。

「でも、それは、彼女が首を縦に振ったらの話だ。

 彼女はさっきから、完全に寝耳に水だって顔をしているよ?

 彼女に何も話していなかったんじゃないのか? 友基」

 そのまま、涼子の方へと目線を移す。

「彼女はとても『喜んでお受けします』なんて顔をしていない様に見えるが?」


 涼子に向けられたその視線は、意外にも、優しいものではなかった。

 折角の才能を持っているのに、臆病風に吹かれているというそれだけで、最初から挑戦を諦めてしまう者を、咎める視線だ。

 涼子は微かに眉間に皺を刻み、それを受ける。



 試されているのだ、今、自分は。

 自分自身が、真に昇の側に立つに相応しい者か、否かを。



 これが何の才能も無い女なら、多分彼らは涼子を普通に受け入れてくれただろう。

 ただの昇の婚約者として、温かく、だが何の期待もせず。

 しかし涼子には、才能がある。

 隠しておくのが美徳といった種類のものではない、発露する事によって初めて価値を持つ類の、才能が。

 そして、その舞台を提供しようと、才能があるのなら、生かさないのはおかしいのだと、音楽に生きる彼らは言ってくれているのだ。こんな後ろ盾も何も無い、今日会ったばかりの女性に、息子の恋人であるというだけの理由で。


 好意を断るには、余りにその意味が、大きかった。

 そして涼子は、応えたいと思った。何より、望月の両親に対してでなく、昇に対して。



 何処で知ったかは知らない。

 でも彼は自分が臆病にも捨ててしまった夢を、叶えてくれようとしているのだ。しかも、顔出しNGという、涼子の一番のコンプレックスまできちんと考慮に入れた上て。


 涼子を愛しているからこそ。


 どうして断れるだろう?



「精一杯頑張らせて頂きますので、宜しくお願いします」

 涼子は最敬礼で、その場にいる全員に、自分の意志を表明した。



 生半なまなかに歩き通せる路ではない。

 でも昇と一緒なら、大丈夫だ。


 きっと。

 必ず。




 “涼子さん、THE BEATLESのYesterdayはご存知かしら?”

 顔を綻ばせながら、サンドラは壁からヴァイオリンケースをひとつ取り外し、サイドボードの上で蓋を開いた。問う間でもなく皆の表情から、話の結論は理解した様だった。

 英語話者ではない涼子にも聞き取り易い様、ゆっくり、かつ明瞭に発音された

彼女の質問に、涼子は“YES,

l like it.”と答える。

 世界的ヴァイオリニストといきなり協奏するなんて、正直気絶しそうに緊張するが、今からこんな家庭内のお遊びで死にそうな程緊張していたら、この先音楽家デビューなんて到底不可能だと思い直す。


 サンドラの調弦が終わった。

 ギターの代わりに昇がピアノで前奏を始め、ポップスの金字塔であるYesterdayのあのメロディーに、涼子は余計な力を抜く事を意識しながら、ふわりと歌声を乗せた。



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