Convalescent -恢復期-(上)

天空風牙@フォローリクエスト受付停止中
@tenkufuga

7.Title(1)

この小説は夢小説 (名前変換ができる小説) です。
キャラベルに登録してログインすると、登場人物の名前をお好きな名前に変更できます。

7.Title(1)



 急にアラームの音がして、涼子は「ぅん……」と、不機嫌な声を上げ眉を顰める。

「朝ですよ、起きて下さい」

 軽く肩を揺さぶられて、涼子は枕元のスマートフォンに手をやった。

 確認した時間は午前5時で、涼子はその時間の早さにますます顔を顰める。

「まだ5時じゃないか。どうしたんだこんな時間に」

「6時までに準備しておいて下さいね。ルームサービスは頼んでおきましたから」

 質問には答えないまま、昇は涼子にひょいと眼鏡をかけさせると、洗面の方へと行ってしまった。


 眼鏡の位置を直しながら、涼子はゆっくりと上体を起こす。昨日の夜、遅くまで行われた情事のせいで、まだ頭も体も重だるかった。

 二度寝を決め込もうかと眼鏡を外し、もう一度枕に頭を預けたが、どうにも昨夜の事が思い出されて、脳が興奮して眠れない。

 涼子は独り赤面しながら再び上体を起こすと、眼鏡をかけ、ベッドを下りた。


 まずは昨日の残滓を洗い流そうと、タオルと着替え片手に浴室へ向かったつもりだったのだが、浴室では昇が、洗面台に向かって熱心に髪をセットしていた。

 考えてみたら西洋のバスルームはトイレ・浴室・洗面が一体なのだ。昨日使っておきながら寝起きのぼんやりした頭ですっかり忘れていた涼子は、仕方無く自分も先に洗面を終える方針に切り替える。

 昇は先に洗面と着替えを済ませてしまっていたのか、サックスブルーのシャツにチノパンという出で立ちで、涼子は彼の初めて見るカジュアルな姿と、髪を梳く、骨ばった厚く大きな手にドキドキする破目になりながら備え付けの歯ブラシを取った。

「一体6時から何があるって言うんだ?」

 小型のチューブから練り歯磨きを捻り出しながら問うてみる。

「あなたを連れて行きたい場所があるんです。きっと気に入って頂けますよ」

 鏡に向かってふわりと微笑みながら言った昇に、涼子は胡乱な目を向ける。

早朝ほうひょうはらはなひゃいへない場所はひょ?」

 モゴモゴと口内を泡だらけにしながら問うと、昇はセットが終わったのかクスリと笑いながら手を洗い始めた。

「そうです。少々移動に時間がかかる場所でしてね……まあ要するに」

 デートですよ、と、言った彼は、そのまま手を拭くと、涼子の額に口付けて、バスルームを出て行ってしまった。


 デート、と、言う言葉と、さり気なく落とされた額へのキスで、涼子の動きは暫くすっかり止まってしまう。なんというかこう、こういう扱いに慣れていないのだ。恥ずかし過ぎる。

 真っ赤になりながら歯を磨き終えた涼子は、頭を冷やそうと一度冷水で顔を洗い、そのまま当初の目的だったシャワーを浴び始めた。


 気替えを終え、髪を乾かしてから浴室を出ると、既にルームサービスが届いていた。

 ベーコンエッグとソーセージとサラダという、何という事もない朝食プレートなのだが、クロワッサンがつやつやとしている上バターのいい香りを漂わせていて、なかなかに美味しそうだ。

「茶葉から淹れたものが欲しかったんですけどね…」

 言った昇はティーポットを手にしていて、どうやらティーバッグだった事にご不満の様だ。

 涼子は苦笑しながらルームウェアをスーツケースに仕舞い込み、テーブルセットへと戻って来た。


 ウォーターピッチャーからグラスに水を注いでいた昇は、一旦手を止めるとざっと彼女の衣服を検分する。

「ボトムがサブリナパンツなのはまあ良いです。ただ、ノースリーブを着たいなら、何か上に羽織れる長袖のものがあった方が良いですよ?」

 一瞬ファッションチェックか? と涼子は思ったが、よく考えてみれば昇が身に着けているのも長袖のシャツだ。

「日焼け止めは持っていますか? 赤道近くは紫外線が強いですから、下手をすると火膨れを起こしてしまいますよ?」

 涼子の疑問を肯定して、昇は自分のスーツケースからボディバッグを取り出すとその中から日焼け止めを探り出してこちらに渡して来た。

「本当はサングラスも欲しい所なのですが………度入りの物なんて、持ってらっしゃらないですよね?」

 問われて涼子は首を振った。夏だというので夏服は持って来たが、オーストラリアが紫外線の強い国だというのは、すっかり忘れていた。

 そう言えば、オゾンホールが問題視されているのは南極とオーストラリアだし、ホテルのエントランスに消毒用エタノールと共に日焼け止めが備え付けられていた様な気がする。

「まあ、日本人の瞳の色なら長期間でなければ大丈夫なのかも知れませんが」

 言って昇は「先に食べてしまいましょうか」と、椅子の背を引いた。


「――どうぞ?」

 エスコートされているのだ、と、気が付いて、涼子はまた赤面しながら促された席につく。

 座りかけた瞬間の絶妙のタイミングで椅子を押し込み座りいい位置に調整してくる昇には、最早職人芸的なものを感じた。

 昇も何が嬉しいのかニコニコと微笑みながら、向かいの席につく。

「『あーん』して食べさせてあげましょうか?」

「いらないッ!」

 徹底的に恋人ごっこ的なものをしたいのだろうか。昇は「残念です」とクスクス笑うとナイフとフォークを手に取った。


 それに習って自分も食べ始めて、そこではたと忘れていた大事な事に涼子は気付く。

「ごめん、昨日の夕食、ルームサービスを取ったんだ。お金は持って来てるから、支払うよ。あと、クリーニングの代金も」

 言うと昇は一旦食事の手を止めて、軽く溜息をついた。

「まだそんなしょうもない、どうでもいい様な事を考えてらっしゃったんですか」

「しょうもなくないよ」

 思わず涼子は反論する。

 そもそも当初の予定がどうだったかは知らないが、この部屋自体、結局自分と二人で宿泊する事になってしまっているのだ。

 本来なら部屋の料金からして、自分も払わねばならない所だ。

「でもあなた、今無職ですよね?」

 言われるかも知れないとは思っていたが、実際指摘されて、流石に涼子もカチンと来た。

「誰のせいで無職になったと思ってるんだ」

 事務員、薄給と来てまだ勤続2年目だったのだ。貯金はしていたが、そんなに額は多くはない。

 次の職が見付からなければ早晩ジリ貧になってしまう状況に追い詰められたのは、そもそもこの男が原因だろう。

「ええ、だからお詫びに支払いますよ」

 だがさらりとそういう言い方をされて、涼子は二の句が告げられなくなった。

 と言うか、とにかくこの男は人を言い包めるいい回しが上手いのだ。

「そもそも」

 言って昇はウォーターグラスを手に取ると、一口口に含んで喉を潤した。

「俺の個人資産が、現在いくらあるか、涼子さんはご存知ですか?」

 問われて涼子は首を振った。勿論、知る訳が無い。

「現金資産だけで、現在8億あります。内4割は金融資産で、毎年1000万程度の配当金が得られます。個人名義の不動産も4件所持していて、そちらからも家賃収入が年額2500万円程度得られますし、もちろんピアニストとして毎年1000万近くは稼いでいます」

 立て板に水にスラスラと数え上げた昇に涼子はぽかんとする。つまり、働かなくても不労所得だけで食って行けるレベルなのだ、彼は。

「要するに、玉の輿なのですよ、あなたは」

 言って昇は苦笑しながら続けた。

「まあ、そのほとんどが俺が稼いだ金ではないんですけどね。

 ですが、『望月』に使わせていても、精々婦女暴行を揉み消す金に使うか、薬で身を持ち崩すか、カジノで馬鹿みたいに散財してしまうだけです。

 こうしてあなたに使った方が、幾らか有意義でしょう?」

 言われて、涼子は何とも言えない気分になった。



 本来「望月」が使う筈だった、「望月」の体に、「望月」の金。

 だが話を聞く限りでは、望月という男は元々、とても善良とは言えない人間の様だった。

 対して昇は、自分へこそ強引な部分が目立つが、それ以外、そこまで反社会的な人間という訳でも無い。

 どころか、ピアニストとして社会的成功を収めつつあり、「望月」の資産を減らすどころかこれから増やして行く一方の筈だった。


 ご両親はもちろん納得がいかないだろう。元の「望月」の方がいいに決まっている。


 だが社会的に見て、昇と望月、どちらが望まれ、優先されるべき存在なのだろうか?


 倫理の問題は、そもそも逃れ難く、個人の価値観と利害関係の衝突に帰結する問題だ。

 その価値観は、結局は情動主義的な根拠で支えられている筈で、一体かれのやっている事の善悪を判断出来る立場にある者など、存在するのだろうか?


 ……考えても、答えは出なかった。 



「考え事もいいですが、早く食べてしまわないと、間に合わなくなりますよ?」

 軽く咎める様な声音で言われて、はっとして顔を上げると、昇は既に食後の紅茶を飲み始めていた所だった。

 涼子は慌てて口の中に朝食の残りを詰め込むと、それを紅茶で流し込んだ。




 昇もいずれは、「望月」の体を離れるつもりなのだろうか?

 その時、自分達の関係は、一体どうなってしまうのだろう?




 ―――考えない様にしていたその疑問を、身の内に押し込む様にして。





1 / 14