Convalescent -恢復期-(上)

天空風牙@フォローリクエスト受付停止中
@tenkufuga

5.月の光

この小説は夢小説 (名前変換ができる小説) です。
キャラベルに登録してログインすると、登場人物の名前をお好きな名前に変更できます。


ショパン、即興曲第4番 嬰ハ短調 遺作 op.66。

「幻想即興曲」と呼ばれるその曲を、昇は何度も何度も、繰り返し一心不乱に弾き続けていた。

A-B-A'の三部形式で構成されるその曲は本来ならば、沈痛な主部とその間に差す穏やかな光の如き中間部との対比が美しい曲の筈だった。

確かに、主部の演奏はズバ抜けていた。心に訴え掛け、悲しみで胸を掻き毟りたくなる様なその旋律は、複数枚のショパンの名盤を所持している涼子でもちょっと聞いた事が無い程に美しかった。

しかし、その曲が中間部に差し掛かると、その美しさは急速に色褪せ、光を失ってしまう。

本来なら、風そよぐ野原に暖かく差す陽光の様な明るさと優しさを持つ筈の中間部分が、どうしても暗く沈み込み、全く活力を失ってしまうのだ。

「くそッ!」

不意に鍵盤に叩き付けられた十本の指が大きな不協和音を奏で、涼子は一瞬背を跳ねさせる。



「―――俺を、笑いに来たんですか」



ゆっくりと顔を上げた昇の頬は削げ、うっすらと無精髭まで浮いていた。


随分、痩せたな。


その散々たる有様に、涼子は何も言えないまま、その場で立ち竦む。


「どうしてここに、来たんです」


あなたに会いたくなど無かったのに、と、無表情で続ける昇に、涼子は反射的に「嘘だ」と、思う。

本心から自分に会いたくなどなければ、わざわざ日本の同じ都道府県に居を変える必要など、無い筈だった。

「俺がどんな気持ちであの時あなたと別れたか、解りますか?―――あなたには解る訳が無いでしょうね。

あなたはそうやっていつもいつも、その純粋さで俺を追い詰める。

俺の気持ちなんて受け入れる気もないくせに」

「―――昇、『月の光』だ。

ガブリエル・フォーレ、作品46の2」

皮肉な笑みを張り付かせた昇のその言葉を丸きり無視して、突然涼子はグランドピアノまで近付くと、「早くしろ」と、昇に顎をしゃくった。

一瞬唖然として涼子を見上げた昇は、だがゆっくりと鍵盤に向き直ると、姿勢を正し、そっとその繊細な指先を黒鍵に乗せた。



静かに、憂愁を湛え始まるは、艶やかなる宴。



その儚き前奏が進んだ所で涼子は大きく息を吸い込み、自分の全てをそこに解き放った。




7 / 10