Convalescent -恢復期-(上)

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@tenkufuga

5.月の光

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電車を降りた頃には、既に時計は10時を回っていた。

涼子は自宅への最寄駅を出ると、白い息を吐きながら、もうすっかり冬枯れてしまった並木道を通り、住宅街に入る。

俯きがちになりながら、コートのポケットに手を突っ込んで歩を進める足が、自宅のあるアパートへ続く路地の角を曲がった所で、涼子は誰かに名前を呼ばれた気がして、顔を上げた。

アパートへ近付く毎に大きくなっていく小柄なその人影が、ついにこちらに向かって、小走りで駆けて来る。

「ああ良かった、帰って来てくれた! 大変なんです西原さん!」

「どうしたんですか高城さん、こんな時間に」

余程焦っていたのだろう、深夜の住宅街である事も忘れて大きな声を出す高城に、声をひそめて涼子は問い掛ける。

「説明は後でしますから、とにかく車に乗って下さい」

見遣ると街灯に照らされて、アパート前に1台のヴィッツが停められていた。

ぐいぐいと腕を引っ張る高城に連行されて、そのただ事では無い様子に涼子は取り敢えず高城の車に乗り込む。

「あの人に、何かあったんですか?」

忙しなく乗り込みキィを捻ってエンジンをかける高城に、涼子は軽く眉根を寄せながら質問した。

「何かあったなんてもんじゃありませんよ」

ハンドルを握り、車を出した高城は、

幹線道路に出た所で、やっと続きを喋り出した。


「―――望月さん、演奏、出来なくなったんです」

ぽつりと告げられたその言葉に、涼子は驚く。

「演奏、出来なくなった?」

高城はそうです、と頷いて、話を続ける。

「一ヶ月前、貴女に会いに行くんだって喜び勇んで日本へ休暇に出掛けたと思ったら、すぐに酷く憔悴した様子でオーストラリアへ帰ってきてしまって……

そのまま雲隠れされて、探すのに凄く苦労したんです。休暇期間中だったんで、私もあまり行動をチェックしてませんでしたから」

信号待ちと共に一旦話を止めて高城は、「望月さんと、何かあったんですか?」と、バックミラー越しに問い掛けて来る。

何とも答え様が無くて、涼子は目を伏せ、押し黙った。

「……話し辛いなら無理には聞きませんけど」

言って高城は目線をフロントガラスに戻すと、青に変わった信号と共に車を進めながら、話を続けた。

「やっと見付けた彼は、日本にいました。

お父様から生前贈与されたマンションの一つで知らない間に住み始めてるなんて、普通わかりませんよ。

望月さんのお父様にご相談して、ホント良かったです」

言いながら高城は、最寄りのインターチェンジへと車を滑らせる。

ETCで料金所を潜り抜け「でもそこからが最悪でした」と語った高城は、大きく溜息をついた。

「望月さん、1週間ほどの間に、びっくりするくらい弱ってらっしゃって。

普段あまり無駄口は喋らない方ですけど、誰が話し掛けてもほとんど答えて下さらなくなって、困りました」

涼子はその「症状」に憶えがあった。


抑鬱状態。あまりよろしくない兆候だ。


「それで、演奏が出来なくなったと言うのは……」

嫌な予感がしながら話を促した涼子に、高城は早口で続ける。

「もう駄目、ダメダメですよ。共演者に呆れられてコンサートはお流れになるわ、レコード会社に契約打ち切られそうになるわ、音楽雑誌には早速スランプをスッパ抜かれそうになるわ………

あまり演奏の良し悪しが分からない私が聞いてても酷いもんですよ、あれは」

盛大に溜息をついて、「後始末をするこっちの身にもなれってんですよ」と続けた高城は、ちらとバックミラー越しに涼子へ視線を寄越すと、悪いとは思いましたけど、と、話を続けた。

「貴女を頼るしか、もう方法が無いと思ったんです。

貴女に会ってから、彼の様子がおかしくなってしまった訳ですから。

だから望月さんの手帳を見て、書き留めてあった貴女の自宅住所だけを頼りに、あそこで西原さんを待ってたんです」

言った高城は、道路案内の緑看板をちらと見遣り、車線変更する。

その行き先に涼子は驚いた。ここ一ヶ月、知らない間に同じ都道府県で暮らしていたと言う事か。

その距離感が、現在の昇と涼子の距離感をそのまま表している様で、涼子は高城に知られない様嘆息する。


もっと近付きたい。

だが、これ以上は近付けない。


そんな矛盾した感情と距離を今急速に詰めようとしていて、その結果がどう出るのか、涼子は少し、恐怖した。

だが、車は無情にも高速出口を出てしまい、

覚悟など決められる前にそのマンションの駐車場へと滑り込んでしまう。


マンション1棟が全て望月の物だと告げられて、涼子は少々呆気に取られたが、エレベーターで辿り着いた最上階、微かに漏れ出して来たピアノの音が耳に届いた瞬間、涼子は背筋を正した。

鍵をあけ、静かに扉を開く高城に続いて玄関

を上がり、LDKへと踏み入る。

生活感が無いとしか言い様のない素っ気無さを漂わせたキッチンと、オークとマホガニーの色合いが美しいアンティーク家具で統一されたリビングを抜け、ピアノ室の前に立つ頃には、涼子にも昇の惨状がはっきりと理解出来た。

何度も同じ曲の同じ所で止まってしまっては、また冒頭から演奏が繰り返される鬼気迫った旋律を前にして、部屋に入れず脚が竦んでしまった涼子の背中に、高城は手を添える。

「望月さんとの間に何があったのか、私は知りません。

でも仕事を抜きにしても、あんな望月さんなんて、とても見てられません。

西原さんにしか、助けられないんです

―――私、向こうでお茶の準備してますから。

済んだら、声を掛けて下さい」

キッチンに戻った高城の気配を感じながら、涼子は一度大きく、深呼吸した。


扉を開けた瞬間に大音量で耳に入って来たその音の哀しさに、涼子はまた一瞬動きを止めたが、目に入った昇の憔悴具合に、ようやくおずおずと部屋の中に歩を進めた。



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