Convalescent -恢復期-(上)

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@tenkufuga

3.きみのキレイに気づいておくれ

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ようやく打ち込み終えた所で、壁の振り子時計がボンボンと十二回音を鳴らした。昼になったのだ。

「今日のお昼は何かな~?」

言いながら社長が室内に入って来る。その声に目を覚ました先輩が、こちらを見遣った。

「生姜焼きです」

言いながら涼子はロッカーに入っているエプロンを取りに移動する。

初めてこの会社に入って、社長の昼食を作る事が業務に含まれているのだと先輩から聞いた時、涼子は驚いたものだ。

「他の会社では有り得ないでしょう」と笑った先輩は、それまで彼女が作っていたためか、手際よく調味料や調理器具の在り処を教えてくれ、その「給湯室」というよりは「キッチン」と言った方が相応しい様相に、涼子が二度びっくりしたのも今では遠い記憶だ。

涼子は備え付けられた大型冷蔵庫から手早く必要な材料を揃えると、ついでに在庫がどれだけあるかをチェックする。

どうやら買い物に行かねばならないサイクルが来ている様だ。健康の為、昼でも手作りの料理を食べる事にしているという我が社の社長は、使う素材にも金を使う為、購入出来る場所が限られている。

冷蔵庫の中味が寂しい事を先輩に告げると、調理を終え次第、買い物に行って来るようにとお達しが出た。

やらなければいけない仕事はまだまだあるのだが、仕方がない。

涼子は下拵えの為に俎板と包丁を取り出した。

「本当に西原君は、いい腰付きをしてるねぇ」

いつの間にか背後に忍び寄っていた社長が、涼子の腰から尻にかけてを撫で回す。

「社長、調理中なんで危ないですよ、勘弁して下さい」

苦笑しながら涼子は何とか身を躱す。

ごめんごめんとヘラヘラしながら、社長は冷蔵庫から麦茶を取り出した。

事務室の方から、嫉妬したらしき先輩女性の痛い視線が突き刺さる。

社長が退出した後、涼子は二人に気付かれない様に包丁の音に紛れさせながら、小さく溜息をついた。

あからさまなセクハラを以前から受けてはいるのだが、犯人は社長なのだから、それ以上訴え出る相手がいない。

労働基準監督署に訴え出ても良かったが、社員十数名という会社規模の関係上、匿名を約束された所で簡単に訴え出たのが自分だと推測されてしまい、自主退職を求められるのがオチだった。

徐々に大胆になる社長の様子に身の危険は感じつつあるのだが、転職しようにも如何せん今は就職超氷河期の真っ只中で、新卒さえ就職率が60%を切るという有様だ。

三流大学の哲学科出身という潰しの効かない経歴の自分が鬱病を患いながらも正社員の職に有り付けただけで、万歳三唱に相応しい僥倖だったのだ。

だから涼子は、石に齧り付いてでもこの会社に勤め続けなければならなかった。

とは言え鬱病が寛解かんかいし始めてまだ間も無い自分がこの様な環境に身を置き続けるのは到底よろしいと思えない。

望月との事もある。最近ではまた鬱病がぶり返して来そうな気配すら感じ始めていた。

「鬱病を治したければ、まずストレスの原因から離れなければならない」

精神科の医師の言葉を思い出す。

転職する事は出来ないが、事務所から離れて買い物に出掛けるのは、それなりに気分転換にはなるかも知れない。

涼子はそう考え直すと、母のいない家庭で中学時代から料理を作り続けてきた手際の良さで調理を終え、エプロンを脱いだ。

配膳した料理の代わりに社長から買い物資金の一万円札を受け取っている最中も、まだ先輩はこちらを睨み続けている。

それを無視して鞄を引っ提げ、涼子は「行って参ります」と丁寧にお辞儀をして事務所を出た。



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