Convalescent -恢復期-(上)

天空風牙@フォローリクエスト受付停止中
@tenkufuga

3.きみのキレイに気づいておくれ

この小説は夢小説 (名前変換ができる小説) です。
キャラベルに登録してログインすると、登場人物の名前をお好きな名前に変更できます。


昇にも虐待の経験は、あった。


同性である、実の兄からの性的虐待。


父親に捨てられ、母親が早逝したのを契機に始まったそれは、ある意味では彼女よりも深刻なものであった筈で、その後の昇の価値観に暗く影を落としている。

だが翔空がいたからこそ、彼はその地獄から抜け出せた訳で、彼に拾われなかったら、そのまま昇はあの雪降り積もる森の中、息絶えていただろう。


死をこそ求めて、彼は兄から逃げ出し、その雪山の中、独り蹲っていたのだから。


王位継承前の翔空が、勉強を兼ねた周辺国視察の為そこを訪れていた事は、純粋に幸運だった。

しかし、身元も明かさない自分を躊躇わず引き取り、反目していた周囲の反発を押し切って特命で随身宮宰の任を課し、昇にいる場所と新しい名前と責任を与えてくれたのは、他ならぬ翔空自身の優しさだった。

孤児院出身なのに王位継承権を得た彼が、その行為ひとつでどれだけ自分の立場を悪化させたか、昇は側で見て来てよく知っている。

だから、昇は彼に、そして彼女に、恩を返さなければいけないのだ。


あの、なんぴとの理解をも拒む孤独なひとを、自分が救わねばならない。


昇は再び紙束を手に取ると、彼女の大学時代についての報告を一瞥した。

そこには彼女の処女を奪った男との事についてに違いない、「在学中お付き合いしていた同窓生と、結婚すると思っていた。残念だ」という暢気な教授の言葉が並んでいて、不愉快以外に得られそうな情報は何も無い。

「一昨年から精神科に通院」の記録だけ頭に入れて、昇はその紙束を再び封筒の中に戻した。

今も精神科に通い続けているのか、病名は何なのか、それは記載されてはいなかった。

しかし、精神科に通った所で、自分以上に精神科医が彼女に何かしてやれるとは、昇にはどうしても思えなかった。


「早くあの人の所に戻らなければ……」


昇は少し、焦る。

ここは日本から遥か海を超えて、彼女が助けをいくら求めようと即応する事など叶わない、オーストラリアの大地だ。

彼女が「翔空」だった時代、彼が愛していた、彼の心象風景とも言うべきストロマトライトが見られるシャーク湾へのセスナ直行便が唯一存在するここパースに、「望月」の家はある。

この地に拠点を置けば、いずれ翔空に行き当たるのではないかといった希望的推測も、昇が「望月」に憑依した理由のひとつだった。

望月の両親は、母親が高名なオーストラリア人バイオリニストで、父親は音楽活動への投資に熱心な、コンサートホールを幾つか擁する日本の財閥の盟主である。

その父が母に熱心に惚れ込み、「娘を海外にはやらん」と言って聞かない母の両親に言われるがまま日本での業務の粗方を部下に任せてここパースで暮らしているという経緯は、昇が望月に憑依してからの7年の間で何回も聞かされていた。

「パソコンさえあれば何処でも仕事は出来る」が口癖の彼は、息子が心から愛する人のために協力して欲しい、と頼めば、両手もろてを挙げて協力する事だろう。

しかし、昇には、まだ自分自身の手でやっておかなければいけない事があった。


それは、ゼロになってしまった彼女の信用を、取り戻すことだ。


シドニーでの凱旋公演は、もう明後日に迫っている。

今日もこの後すぐ飛行機に乗って、午後からリハーサルに入らなければならない。

昇はひとつ溜息をついて、顔を上げ意識を切り替えた様にスーツケースを掴むと、ファスナーを開け、その間に封筒を滑り込ませた。


あのひとは、自分がする謂れのない仕事も、求められれば淡々とこなす人だった。


昇は背筋を伸ばすと、決然と「望月」の部屋を出て歩き出した。




3 / 20