ポンヌフの下をセーヌ河は流れ

どちらかというと、パリは右岸より左岸が好きだ。


有休消化の平日朝。穏やかなリュクサンブール公園の空気を吸いながら、ふと思った。


お休みが取れそうなのでそっちにいきます、と連絡があったのは昨晩。ここ最近は大きな事件もないようだけれど、こうしてまとまった休暇を捻出してくれる関には感謝しかない。


「気持ちがいいね」


不意に、初老のムッシューに声を掛けられる。


「ええ。天気が良過ぎて、パリじゃないみたいです」


咄嗟の返事を紡ぎながら、いまさら快晴の空を仰ぐ。まったくだね、と悪戯っぽそうに微笑むと、見知らぬムッシューは杖をついて去っていった。


……俺、そんなにニヤけてたか?


パリ随一の面積を誇る、花と彫像に彩られた公園。一人でニコニコしてるヤツなんて、まぁたまにはいたりする。ただ俺の場合、花だの何だのには目もくれてなかったわけで……照れやら自嘲やら、何とも言えない笑みがないまぜになって込み上がる。


「いやいや……」


来るって連絡をもらっただけでこれかよ。ほんと、参るわ。


「さて、どこへ連れて行こうかね……」


そう思案しているうちに、サン・シュルピスの鐘が鳴った。


やっぱり早起きし過ぎたかな。浮かれてリュクサンブールまで来たものの、朝のパリはまだ8時。


***


左岸と呼ばれるのは、セーヌ河が分断する、パリの南側のエリアだ。


凱旋門、オペラ座、ルーブル美術館……華やかな観光地が集まる右岸とは対照的に、ソルボンヌやグランゼコールなど、左岸には大学等の教育機関が集まっている。俺のパリでの拠点は一応右岸だが、こうして左岸まで来てしまうのは留学時代の名残だろうか。


「サトル」


思い出されるのは、当時受けていたマダム・フェヴリエのフランス語のレッスン。


「あなたのフランス語。悪くないんだけど、フランス語らしさがないわね」


留学生向けのサマーコースで、俺はちょくちょくこんな注意を貰っていた。


「ドイツ語じゃないんだから、もっと歌うように。それと、もっと息をのせて」


言っておくが、これは歌のレッスンじゃない。だがマダム・フェヴリエはフランス語の響きについて、恐ろしいまでのこだわりを持っていた。


「ジュ……」

「もう、そんなベタっとした音なんてイヤよ。もっと息吹が感じられるように、風のように」


そうやって悦に入りながら指導してくるものだから、当時の俺はかなり面食らった。とは言え、そのときは俺も真面目だったから、放課後は学校近くの公園でぶつぶつ練習してたっけ。


「左岸ねぇ……」


幸か不幸か、パリの有名どころは城ヶ崎の一件でだいたいまわってしまっている。右岸のブティックに彼女を連れまわし、俺得ファッションショーを楽しむ手もあるけれど……今回はなんとなく、もっと違うパリを見せたい気がした。


***


「アン・カフェ・シルブプレ!」


覚えたばかりのフランス語で、勇ましくコーヒーを注文する彼女。


言葉が通じてご満悦の表情は本当に愛くるしいのだけれど……残念ながらフランス語で「カフェ」は「エスプレッソ」のことだ。


「……Un café crème pour moi, s’il vous plaît.」


笑いを噛み殺しながら、念のためカフェオレを注文しておく。一連のやりとりで事の次第を把握したのか、俺の分までニヤニヤした店員は、軽やかな足取りでカウンターへ引っ込んでいった。


「ああ……やっぱり渡部さんってこういう注文とかめちゃめちゃハマりますよね……」


テーブルの方に向き直ると、さっきまでご満悦だった彼女は、今度は恍惚の目線をよこしている。くるくる変わる表情がおかしくて、でもやっぱり愛おしくてたまらない。


「そっちもなかなかサマになってたよ」


留学時代に通っていた老舗のカフェ。その思い出の店で、最愛の恋人にうっとり見つめられるこのシチュエーションは、なかなかグッとくるものがある。


ほどなくして、濃厚なエスプレッソがやってきた。目の前にちょこんと置かれた予想外の注文に、彼女は目をまんまるくさせている。


「あーごめん、もう無理」


なんとか片手で顔を覆いつつ、それでもこらえきれず笑ってしまった。いっそ世界の七不思議に数えたいくらい、彼女は絶妙に俺のツボを突いてくる。


「えっ、ちょっとどういうことですか!」


もう可愛すぎて、どうしたらいいのかわからない。


周囲に気は配りつつ、それでも焦ったようにこちらを伺う姿は、永久保存モノといっていいくらい。その後運ばれてきたカフェオレで、また表情がガラッと変わるものだから……久々に味わう思い出のエスプレッソは、随分甘く感じられた。


***


その日はずっと、手を繋いで歩いた。時々、キスをした。


「フランスは愛の国」だなんて、誰が言い始めたのだろう。最初は恥ずかしがっていた彼女も、この魔法の言葉で、少しずつ受け入れてくれた。


「好きだよ」


そうやって耳元で囁くとき……嬉しそうに微笑んでくれる彼女よりも、俺自身が満たされてる気がする。


「外国なんだから、日本語で何言っても大丈夫だって」


彼女からの言葉も欲しかったけれど、消え入るような声はプラタナスのさざめきに飲まれてしまう。


幾千もの恋人達を見守ってきたこの街。今の俺たちは、どう映っているのだろう。


街角の公園。花屋。格子の優雅なアパルトマン。

古い雑貨屋。気取らないカフェ。ひっそりと佇む美術館。


そうして気の赴くまま巡っているうちに、とうとう陽が傾き始めた。


「……今日は飲みませんか?」


ヨーロッパの明るい夜に油断していたら、けっこうな時間になっていた。大した観光もしてないのに、こんなに楽しいなんて。


夕映えのキミの微笑みに、俺も安請け合いしちゃったよ。


***


「あー………」


その後。とにかく彼女は上機嫌で、ソムリエに薦められるがままにワインを開けていた。一方俺は、流石に酔っぱらうわけにもいかず、不自然に見えない程度にセーブしながら飲んでいた。


「そろそろ出よっか」


幸せそうに料理を頬張り、酔っぱらう彼女を見るのは楽しかったけれど、下手すると4年前の再現になってしまう。適当に会計を済ませると、俺は彼女を外に連れ出した。


甘ったるくしなだれかかる重みが心地良い。


「渡部さん……」


……今日は、甘えてくれるんだね。


「大好きです……」


そうやっていつも口に出してくれて良いんだよ。


「ホテル、あともう少しだから頑張ろうなー」


あの時ほどではないけれど、やっぱりなかなか酔っているようだ。温かい思いを胸のあたりに感じながら、夜のセーヌ河を横目に、俺たちはゆっくり歩みを進める。


ふと、通りのカフェから古いシャンソンが聞こえてきた。



――ミラボー橋の下をセーヌ河は流れ

   我らの恋も流れゆく

    苦しみの後には喜びが待つなど

          今は考えたくもない――



改めて聞く歌詞が、どうにも他人事とは思えない。


「……なんか親近感湧いちゃうんですけど」


自分もほろ酔いのせいか、苦笑いとともに独り言が零れる。


歌詞はギョーム・アポリネールだったか。前衛芸術の先鋒とは思えない、まっすぐでほろ苦い恋のうた。今でこそこんな余裕ぶって聴いているけれど、少し前まで俺も、全く同じ思いだった。


***


一夜の恋はセーヌにさらわれた。


そう思っていたのに。


想いはたゆたえど沈むことなく。


再会後の勘違いだって、何度胸を締めつけられたかわからない。


苦しみの後に喜びが待つなんて、誰が予想出来ただろう。


未来の自分に告げられたとしても、きっと信じなかった。


***


『ミラボー橋』の歌詞にかき乱されながら、思い出のポンヌフ橋に差し掛かった時だった。行き交う車の光が、音が、フラッシュバックのように記憶と交錯した。


あの時と同じぬくもり。あの時と同じ重み。


街灯に照らされた彼女の横顔が、感情の奥底を揺さぶった。


「……ちょっといいかな」


言い終わる頃には抱きしめていた。


「……愛してる」


何より大切な想いを、セーヌ河に落っことされないように。


「……Je t’aime」


酔いにまかせた感情は声になり、口づけとなって彼女に触れた。くすぐったそうに微笑む彼女は、今夜は一層美しく見える。


「Je t’aime」


日本語に閉じ込めておくのがもったいなくて。何なら世界中の人に聞いてもらいたくて。マダム・フェヴリエに鍛えられたフランス語が、こんな時に威力を発揮する。


歌うように、夢見るように。時間も国も飛び越えるように。俺はこの子を愛していて、何よりも大切に思っている。


アポリネールはいざ知らず、俺たちはここから始まった。今日もポンヌフの下をセーヌが流れ、俺たちの関係はどこまでも続いてゆく。



日も暮れよ、鐘も鳴れ。月日は流れ、俺たちはここにいる。



Fin.

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