ようこそ、新しい生活

緋寄@🍏🍎
@Enph_hiyo12

六章


Привет.やあ戦況はどう?イワン、サーシャ」


鼠の地下潜窟にチェーホフは顔を出した。


「お嬢か、随分ご機嫌だな」


サーシャと呼ばれたアレクサンドルは気だるそうにやって来た彼女の方に振り向いた。サーシャは露西亜で一般的に使われる略称だ。


「一寸色々ね。……イワンは?」


そう云うとアレクサンドルは向かいのテーブルで寛ぐように命令の府庁となる音楽ラジオを聴いている。イワンは恐らく誰よりもドストエフスキーに心酔している彼の言葉に何でも従うイワンは鼠である限りは手練れの仲間という位置になる。只、精神が不安定で扱いはアレクサンドルより難しい。何より頭目以外には全く興味がない。


「イワン、今の曲は?」

「丁度モーツァルトの魔笛から、ショパンの幻想即興曲に変わりました」


時間ないなぁ、とチェーホフは呟いた。


「じゃあ私はチャイコフスキーが流れる前に帰るよ、仕事がまだ残ってる」


外では探偵社やマフィアたちが見張っているだろうが相手はチェーホフよりドストエフスキーが出て来るタイミングを待っている筈だ、彼等は手勢を全て彼に向けるだろう。なので一番判り易い脱出の撹乱時にチェーホフは脱出することが可能だ。


「私は優雅に車で出る事にしよう。其れでは二人とも、また逢えたらその時に」


彼女はすぐさま地下から脱出した。彼女は監視があることも気にせず車を走らせる。自分は助手席、隣には雇いの雑兵。其れに運転を任せチェーホフは後ろに振り向いた。


「乗り心地はどう?」

「……」


後部座席には手足首に枷を付けられ、口元もテープで固定された式部が据わった目付きでチェーホフを見つめ返していた。

 チェーホフは彼女に笑みを浮かべ乍ら手を伸ばし、顎を持ち上げた。


「其の枷で異能が発動出来ないでしょう?楽しいわね、何も出来ない女性を甚振るのって」


口を塞がれているので口答えは出来ないのだが、チェーホフは楽しそうに式部を詰る。


「此の侭、貴女を海に沈めても善いけど下手なことをするとフェーヂャに怒られるのよね」


貴女は如何して欲しい?と訊き口に貼られたテープを無理矢理引っ張って剥がした。式部は少し痛そうに顔を歪めただけで他に文句は無さそうだったが、質問に答えるように呟いた。


「枷を解いて」

「其れは駄目。枷を取ったら異能で太宰治の所に行っちゃうでしょ」


すると彼女は名案を見つけたように手を打ったあと、上着のポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。そして其れを式部の頬に宛がう。ちょん、と刃先が肌に触れ細い切り傷を作ると、その線のような切り傷はじわじわと鮮血の紅に染まっていく。


「顔の皮を剥いて目と喉を潰してあげる。そうしたら太宰治も貴女を愛することは無くなるわ」


式部はチェーホフを睨むが効果は無いようで楽しそうにまず先ほど切れた所から延長して更に切れ込みを入れて行く。式部の頬から次々と鮮血が流れて行く。


「太宰さんが私を愛さなくなるとして貴女に何か特でもあるの?」


彼女は恐怖も無くただチェーホフを見つめる。そんな瞳に彼女は違和感を覚え始める。けれど其れを悟られないように平然と答えて見せる。


「気に入らないの。見た目が可愛いと云うだけで想い人にちやほやされて。其の幸せを他人に見せびらかしてる。私が、どんな思いでいるかなんて知らない癖に。……何の不幸もなく、穢れを知らない無垢は貴女が気に入らないッ」


チェーホフよりも何倍も冷静に彼女を見ていた式部は、チェーホフに感情の断片を見せるかのように先ほどよりも更に相手を睨みつけた。比べるまでもなく感じる違いは恐らく、殺気。其れが今の式部から感じる。なのに殺気を感じるのに睨まれたのは一瞬で、今の彼女は何処か虚ろで、瞳の色が変わったわけでもないのに深淵のように彼女の感情が見えないのだ。


「何も判ってない。可愛さだけで傍に居れたら私はとっくの昔に捨てられてる。私はそんな簡単なことで傍にいるわけじゃない」


太宰さんと私の関係を侮辱する者は絶対に許さない。そう彼女は云った。底の見えない深い瞳がチェーホフを捕らえて離さない。

 彼女は歯を食いしばった。目の前にする式部が想像以上に強かったこと。そして二人の関係が余りにも深いこと。太宰とは今年に入って初めて出逢ったと訊いていたのに。それ程に二人には似た何かが、そして一緒にいた時間も関係ない程の心のふれあいがあった事をチェーホフは悟った。

 そして其れが彼女にとって何よりも羨ましく、憎らしく感じた。


「……善いわね。貴女には帰る場所があって。自分を求めて呉れる相手がいて。とっても、憎らしいわ」

「帰る場所」

「ええ。貴女には探偵社と、太宰治の傍という居場所がある。でも私にはもう何処にもない」


チェーホフは式部の顔の皮を剥ぐのを止めた。血がついたナイフを車にあったティッシュでふき取りポケットの中に戻した。そして傷を付けた彼女の頬に触れた。


「其れは多分違う」


式部が呟いた。相手から目を離さず真っ直ぐに。


「違わないわ。私が組合という居場所を捨てた。鼠もずっと居れる場所じゃない」

「其れはチェーホフが勝手に思い込んでるだけ。私も前まではそうだった。一度捨てた場所には戻れない。もう二度と判り合う事は出来ないんだって。……けど其れは違うッ」


式部の口に再びテープが張られ言葉がでない。式部はテープを貼られたまま彼女に何か云おうと声を上げるが其れはチェーホフには届かかない。

 一瞬、彼女の海色の瞳が式部を映した。本当に一度の淡い時だけ。


「目的地に着きました」

「判った、ご苦労様。君は彼女を見張っといて」


運転手に式部を任せてチェーホフはドストエフスキーとの待ち合わせ場所である喫茶処に向かった。


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