請ふ人、桃源郷にて哀願す -2

花火
@gun17a

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あの日の後もわたしは変わらず美術室に通っていた。変わったことと言えば、二回に一回のペースで一松くんに遭遇するようになったことである。彼があれ以降女の子を連れ込んでいる場面を見たことが無いので、わたしは少しばかりの罪悪感のようなものに胸をくすぐられていた。

松野一松という人は思っていたよりもずっと卑屈で、嫌なやつだった。だけどわたしが心のどこかで彼との遭遇を楽しみにしている理由はそんなところには無いのだと思う。


べつに、サボる頻度としては前と対して変わらない。ドアを引いて彼の姿が無いときに、がっかりしているわけでもない。なら浮き足立つような、けれど心のどこかが冷えていくような、この心地はなんなのだろう。

履き慣らされたローファーがこつこつと床を蹴る。教室の端に置かれた椅子を眺めるようにして、彼はいた。声をかけようとした言葉を咄嗟に飲み込んだのは、泣いているんじゃないかと思ったから。風に尾を揺らすカーテンも、心做しかいつもより控え目のように見えた。


声をかけないまま後ろ手に扉を閉めたわたしを、そのひとが振り返った。いつもより仄暗い瞳は夜の海よりも恐ろしい膜を張っていて、ゆらりと揺れる。わたしの姿をじっと見つめた一松くんは、我に返ったように息を吐いた。


「……お前かよ」

「なに、誰だと思った?」

「…………」


言葉を返されなかったのは無視をされたのではないようだった。わたしは逡巡する彼から目を逸らす。


「……ギター、好きなの?」突拍子もない質問だったけれど、彼は何かを閃いたようにそう言った。

「…よく分からないから、何とも言えないけど」

「………」

「一松くんのギターは好きだと思ったよ」


選り好みするほどの知識は無いけれど、心を殺してしまうような凶暴な魅力をただ単純に好きだと思った。彼はわたしの言葉に目蓋を閉じると、少し苦しそうに渇いた笑みを零した。目が合って、捕まる。「アンタって、ほんとうに…」縋り付くように手首を掴んだ彼が、わたしの肩へ額を預けた。動けなくなってしまう。手首はきっと痣になってしまうほど強く掴まれているのに、肩に乗せられた体重はどこまでも弱々しくて、目も当てられない。







多分お互いが、お互いのことをどうでもよかった。それぐらい緩くて脆い距離感で繋がっていたわたしたちがこんな風に抱きしめて、受け入れて、なんてことをしているのは、一体なぜなのだろう。わたしはテストで百点を取るような頭は持ち合わせていないけれど、彼が深く傷付いていることは理解していた。けれど、彼がわたしにこんなに弱い姿を見せているのは、お互いがどうでもよかったからである。

縋り付かれた手を、離すまいとわたしを抱きしめた腕を、わたしのために振り払わなければいけないと知っていた。でも彼のために、わたしは受け入れようとしている。密着した服越しの体温は青春の真似事をしているようでむず痒い。


「…去年までいた美術の先生覚えてる?」

「あの美人な?」

「そう。…俺あの人とさぁ、セフレみたいなことやってたんだけど」

「……」

「………」

「好きだったの?」

「……分かんない。勝手に裏切られた気がしてた」

「………」

「子供ができたって、しかも俺の子じゃなくて… 俺と一緒にバンド組んでたドラムの奴、分かる?…あいつとの子なんだって」


傷口を爪で広げるような言葉の吐露を、わたしは押し留めずに静かに聞いた。相槌をうってはいるけれど、きっと彼には聞こえていない。


「俺の子なら、田舎に帰ったあの人を俺が追いかけられたのに」

「……」

「あいつが、追いかけるためにバンドを止めるって言ってきた時、言ってやればよかったんだ。あのオンナ、俺ともお前とおんなじことをしてたぜって、そうしたら」

「……」

「…俺は楽になれてたのかもしれない」


真面目で優しいひとだ。理不尽を必死に呑み込んで、受け入れようとしている。彼はそうすることで、自分が傷付いても構わないのだろうか。言葉をかけようと逡巡して、やめた。いまこの瞬間、わたしは彼の他人でなければいけない。王様の耳はロバの耳。受け止めるだけでいい。穴であれ。

心を劈くキラーチューン。あれは彼の精一杯の悲痛な叫び声だったのかもしれない。あるいは、愛の歌? わたしは一松くんの音を好きだと言ったけれど、彼や、彼の音のことを何も知らない。







「あのさぁ」


苛立ったように、目の前の男が自分の頭をガシガシと掻き回す。わたしは何も言わないまま、その人をじっと見つめていた。わたしの彼氏だったその人は、腰まで下ろしたスラックスに手を突っ込んで険のある溜め息を吐いた。屋上に呼び出したのは失敗かもしれないと思ったのは、足を撫でる風が思いの外冷たかったからだ。


「いきなり別れようってなに? 理由ぐらい言えよ」

「……別れたいと思ったから」

「だからその別れたい理由を言えって」


目の前の彼とは二ヶ月を少し過ぎるくらいだろうか。わたしにしては恋人ごっこに堪えて付き合ったつもりである。わたしのなかで彼との一番優先するべき事項はセックスであって、帰りにスタバに寄ることでも、休日に映画に行くことでも無かった。彼もそうだと思っていたから、わたしは拍子抜けしてしまう。


「好きなヤツでもできたのかよ」


すきなやつ。すきなひと。

好きな音ならある。一年前から惚れ込んで止まない音だ。一松くんの音。それは一松くんを好きだということと、なにが違うのだろう。わたしにはよく分からない。から、何も言えない。


「、お前な 」

「しつこい男は嫌われんぞー」


場に合わない寝起きの声が、だけど確かに割って入った。わたしはその聞き覚えのある声に肩を跳ねさせる。目の前の彼も驚いたようだった。視界の端でもぞもぞと赤いパーカーが動いたのを見て、嫌な予感は確信に変わる。赤色。危険信号。


「なあ? 」


不遜な笑みだった。一松くんはこんな器用な笑い方はできない。顔は似ているのに、どこまでも似ていない兄弟である。長男である彼はまさに触らぬ神に祟りなし、敵に回したくない厄介な人だ。

くあ、と大きな欠伸をしたおそ松は言葉を失ったわたしたちからとっとと目を逸らすと、隣に寝転がっていた女の子の頭を撫でた。小さく声をあげた女の子に心底愛おしそうな顔をして、こちらへ視線を返す。


「まだやるなら場所変えろよ」

「いや……もういいわ」


最後の一言を呟くように言ったとき、そのひとはわたしのことを見ていたようだった。突き刺すような視線に気付かないふりをして、斜め下へ視線を落とす。重たい扉が控え目に閉められて、わたしはようやく顔を上げた。太陽を背負う赤色は頬杖をついて、興味深そうな目をする。

君さぁ、もしかして名字サン?



「そうだけど……」

「あ、俺松野おそ松でーす。話し込んでるとこ水差してごめんねー」

「いや、助かったよ。こちらこそ、昼寝の邪魔してごめんね」

「小声じゃなくていいよ。どうせもうすぐ起こさなきゃなんねえし」

「彼女?」

「 …さぁ、どうだろ」


上に立つ人だなぁと、初めて彼と対面した感想はそんなものだ。それは松野家の六つ子に留まらない、ヒエラルキーの最頂点にも思える。一時期の食い散らかすように喧嘩に明け暮れる彼は最近いくらか鳴りを潜めていて、きっとあの可愛らしい女の子のおかげなんじゃないかと無粋な勘繰りをした。わたしと違って潔癖なまでの純粋をたたえた美しさである。


「綺麗な子だね」

「傍から見ればね。…綺麗なだけの置物みたいな奴だったよ」


以前彼をそこまで知っている訳でもないのに、本当に丸くなったものだと思った。彼と同じ顔で、酷く優しい表情で女の子を撫でている姿を見ていると、不思議な感覚に陥る。一松くんも、好きな子にはこんな表情をしたりするのだろうか。あの美術の先生には、こんな表情を見せたりしていたのだろうか。