欠落の夢 忘却の嘘

 行かなければならないんだ、とその男は静謐な決意を湛えた面差しで言った。

 なるほど、行かなきゃいけないんだね、と賢治は精一杯真面目な顔をして見せた。


 平日の動物園に、落ち着いた穏やかな光太郎の声と元気いっぱいの賢治の声が響きわたる。

「大人一人と」

「子供一人!」

 少し古ぼけたシマウマのパネルに留まった雀が、軽快な羽ばたきの音を残して青空へ吸い込まれていく。

 チケットをポケットに突っ込んで、賢治は光太郎に並び、歩き出す。


 図書館からバス一本で行ける、郊外の動物園。図書館の誰かが「動物園」と言ったときは、ここを示していると決まっていた。

 今日は良い天気だが、平日なので人出は少ない方だろう。堂々と道の真ん中を歩きながら、賢治は伸びをする。

「いい天気だ。晴れて良かったね」

「光さんは、雨でも傘差して行くつもりだったでしょ?」

 光太郎の明るい声に、賢治も朗らかに返す。肯定の代わりに、和んだような微笑が耳に届いた。


 光太郎の目的は単純だ。

「父なんかは、動物を彫る度にその動物を飼っていたんだけれど」

 檻の前で歩を緩め、檻の隅にだらりと横たわっているマレーグマを興味深げにしげしげと眺めながら、光太郎は語る。

「今の環境でそんなことをする訳にも行かないからね。こうやって観察しておかないと」

「熊を彫るの?」

「いや。これは、ただ見ていただけだよ」

 熊が空を振り仰いで欠伸をする。黒い毛皮、赤い口、白い牙。そして、鮮やかな青空。その熊の故郷と同じ、南国の色合いだ。

 賢治の見とれる視線に、熊は応えない。他の動物たちと同じように。

 どんな舞台女優よりも、見られるのに慣れきった動物たち。どんな心地で日々を過ごしているのだろう。ぼんやりと空想しながら、賢治は歩みを進める。

「熊じゃないなら、何を彫るの?」

「今回はね……僕もいろいろ考えたんだけど。ほら、こっちだよ」

 動物園の広大な敷地には、それなりに高低差がある。緩やかな上り坂を、いつの間にか歩幅で勝る光太郎を追いかける形になって歩みながら、賢治は周りの動物たちに視線を遊ばせる。

 檻の中、あるいは柵の中。人中にあって人の手が届かないよう慎重に設計された住処で、動物たちは思い思いの姿を晒している。



「鹿?」

 光太郎の足が止まる。少し離れた柵の向こうで餌を食んでいる生き物を見て、賢治は尋ねる。

「うん。鹿をね、彫ろうと思って」

「鹿かあ……」

 難しそうだな、と、その雄々しい角を見て思う。頑丈で立派そうなのに、その細工はとても繊細だ。

「もっと近くで見た方がいいよ」

「そうだね」

 光太郎は至極真面目な顔をしてうなずき、大股に柵へと歩み寄る。

 賢治もそれに続こうとして、ふと視界に入った後ろ姿に瞬きを一つした。

 チョコレート色のケープに洒落た黒いソフト帽。そこからこぼれる癖のない金髪。背は高くないが、目を引く後ろ姿。

「あ」

 思わず、声を漏らした。


「中也くん……だよね?」


 金髪を折からの風に乱し、男が振り向いた。

 いつになく茫洋とした光を赤い両目に宿してはいるが、それは同じ図書館の仲間、中也に違いなかった。微かに開いたままの唇が、儚げな気配すらうっすらと纏っている気がした。まるで、彼の作る詩そのもののように。

 曖昧な声が小さく漏れた。その目が置き去りにされた子供のように薄く潤んだ。

「……。ああ、賢治先生」

 賢治は小走りにその背へ駆け寄った。中也は大人の男としては小柄だが、それでも賢治よりはよほど大きい。

 光太郎が少し遅れて続いてくる。だが、中也は光太郎に構う気配もなかった。

「違う」

 呟くような声が、おそらくは賢治だけの耳に届く。

「そんなはずがねえのに――」

 賢治は中也を見上げた。視線が通うと、中也は独り言をやめた。その目の奥に怯えるような色が微かによぎる。

 追求する気はなかった。賢治はただ微笑み、努めて朗らかな声で行った。

「鹿を、見に来たの?」

「……」

 中也は押し黙ったままだった。そのままケープの裾をさばき、二人に背を向けた。

 あ、と賢治は声を漏らす。珍しいことだ。他の相手ならともかく、この男が自分の言葉を無視することなど今までなかったのに。

 帽子を押さえて唾を前傾にし、うつむき気味に早足に去っていく。潤んだ目元を隠しているのだと、確かめなくともわかった。

「あ、中也くん――」

「賢治さん、そっとしておいてあげよう」

 追いかけようと踏みだしかけた賢治の低い肩を、光太郎の手がすかさず留める。

「何があったか知ってるの?」

 今の中也は、どう見ても普通の様子ではない。振り向いて尋ねる賢治に、しかし光太郎は首を振るのみだった。

 不満げな沈黙に気づいたのか、ややあってから言葉を付け足すと共に賢治の肩に置いた手を離す。


「そんな気持ちになるときだってあるんだ、誰にだってね」


「……」


 それは。

 何か分かっていそうな口調ではあった。つまり、少なくとも賢治には分かっていない何かを。

 賢治は詰問を諦めた。そうだね、と言う訳にも行かず、ただ少しだけ肩を落とした。




 動物園から帰った直後の夕食の場で、賢治は再び中也を見た。

 いつもにも増して不機嫌に押し黙った中也は、周りとの関わりを拒んでいるようにすら見えた。

「中也くん」

 声をかける。厳しく据わったままの目が逡巡の後に、僅かな柔らかさを取り戻してこちらを見返す。

「賢治先生、……あの、昼は。悪かったよ、考えごとしてて」

「誰にだってそんなときあるよねって、光さんも言ってたよ。気にしなくても大丈夫」

 この男が殊勝に詫びることそのものがそれなりに珍しいことのはずだ。賢治は何気ない口調で応えて、中也の目を覗き込んだ。

「何か、悲しいことがあったの?」

「……」

 ぎくりと、その肩が揺れる。逡巡するように、その下唇に力が入る。

 中也は何も答えなかった。ただ賢治を見つめ、目を伏せた。

 核心に近い質問ではあったのだろう。それとなく挨拶を残して離れながら、賢治は思った。




*****



 夢の果てから炎が押し寄せる。不吉な影が空を横切り、火の手はますます盛んになる。

 炎の幅広い舌に舐められているのは東京だ。おびただしい数の家が焼ける。そこに住まう誰かの命も焼ける。命の尊厳などどこにも存在しない、作業めいた大破壊。

 彼は叫んだ。喉を絞らんばかりに絶叫した。


 あの炎を消してくれ。


 誰か娘を助けてくれ。


 あの中にいるんだ、娘が、『――』が!


 声は誰にも届かない。

 悲嘆が身のうちで育ち、胸を破りそうになる。涸れた喉が血の味を醸す。痛む目を涙が濡らす。それでも、声は届かない。

 それは、当然のことだった――

 彼のいる場所は、はるか遠く。

 「未来」と、呼ばれる場所だったのだから。



 中原中也は跳ね起きた。冷や汗が部屋着を湿らせていた。

 弾む息を落ち着ける。シーツを握る手から血の気が引いているのを意識する。血の半分が冷たい色水になってしまったかのような、不吉な悪寒と息苦しさ。

 頬が濡れている。


 「またかよ」


 かすれた声で中也は呻き、涙を拭った。


 夢そのものは、初めて見る夢だ。だが、何が見せる夢であるかは中也にも見当がついていた。

 過去。

 それも、自分のものではない、誰かの過去だ。

 恐らくはこの図書館で共に戦う誰かが、遠い昔に何かを失った時の夢。恋人を、妻を、子を、友を。

 夢の中では、中也はその誰かそのものになっていた。己のことのように悔み、悲しみ、悶え、苦しむ。自分の声だというのになぜか聞き取れない名を幾度も叫ぶ。そして、目覚めた時にはひどく疲弊しきっている。

 毎夜という訳でもない。それでも、繰り返し味わい、ありふれつつある苦悶だった。

「空襲ってやつか……くそ、誰の夢だ?」

 乾いた唇から苛立たしげな呟きを零し、中也はのそのそと寝台を降りた。

 どれが誰の夢であるかについて、中也に正確な判断がついているわけではない。それどころか数多見た欠落の夢の中には、中也自身の過去もあるかもしれない。

 中也の記憶は、他の文豪たちと同じく不完全だ。調べればすぐに分かることも多々あるのだろうが、調べる気は起きずにいた。

 調べることで、自分の朧な過去は確かな現実となる。夢の中の悲嘆が、現実にまで襲ってくる。その確かな予感が、中也の中にはあったからだ。

 そんなのは御免だと、強く思った――夢の中でさえ、あんなに苦しいのに。

 認めざるを得ない。

 自分は疑いようもなく、怯えていた。

 夢がもたらす苦悶に。現実がもたらすだろう苦痛に。

「……ち」

 舌打ちして頭をかく。縺れやすい金髪が指に絡まって微かに切れる手ごたえを返す。

 このままでは眠れそうにない。気分転換が要る。些細なことでもいい、何かが。

 手をぶらぶらと振ってまとわりつく一筋の髪を落とし、中也は大股に自分の部屋を出た。



 宿舎には談話室が設けられている。ソファとテーブルが置かれただけの何の変哲もない部屋だが、居心地はいい。司書が置いた菓子鉢には、個包装のビスケットが寄りかかるものをなくして三袋ほど折り重なるように置かれている。

 その袋の一つを、賢治の指がつまんでいた。

「あ」

 戸口に立った中也と、ソファに座っている賢治。二人の視線がぶつかり合う。

 真っ先に中也が覚えたのは、気まずさだった。

 他の誰かなら、まだ良かった。特に敬愛する詩人には見られたくない顔を、今の自分はしている。昼の動物園で見せたものと、同じように。

 中也が動物園に出向いたのも、件の夢のせいだった。

 今思えば、他のものと毛色の異なる――明るい日差しの中で小さな子供と動物園を回る、ただそれだけの夢だ。だが、夢の中には、心を抉るような喪失感と共にその光景を眺めている自分がいた。

 何かが掴めるかもしれないと、そう思った。何も掴めないだろうと、それ以上に思っていた。柄にもない動物園の景色の中をひやかすように歩き回り、冷笑を一つ零して帰るだけのはずだった。

 しかし、そうはならなかったのだ――

「中也くん」

 立ち尽くす自分に、賢治が声を掛けてくる。中也はひくりと小さく肩を跳ねさせ、できるだけ眠たげな仕草で目を擦った。

「あ……あぁ、賢治先生。こんな夜中に鉢合わせるたぁよ……寝つけなかったのか?」

「うん、なんとなく落ち着かなくて」

 手の甲を見下す。涙で濡れていた。

 つまり、分かりやすい泣き顔を晒してこの談話室に来たことになる。中也はにわかに焦りを覚えた。

 気遣わしげな視線が痛い。どう言い訳したものかと目まぐるしく思考を巡らせているうちに、賢治はひょいと立ちあがって小走りにこちらへ駆け寄ってくる。

「あの、賢治先生、これはぁ……」

「お外、行ってみない?」

 賢治の声は明るい。思わず、へ、と声を漏らす。

「外。夜のお散歩、楽しそうでしょ?」

 幼い顔が中也を振り仰ぐ。すかさず伸びた小さな手が、涙の跡を残した手を遠慮なく握った。



 土台、断れるはずもなかったのだ――

 言い訳めいた調子で胸の裡に呟きながら、中也は隣に並ぶ低い肩を落ち着かない調子でちらちらと見た。繋いだ手を離す機会も掴めないまま、気が付いたら宿舎を後にして図書館の石畳のアプローチを二人で踏んでいる。

 小さな手だ。熱い肌だ。眠る小鳥を握っているような、危うい心地がした。

「外、出ても大丈夫かなあ」

 閉ざされた背の高い門扉を見上げて、賢治が心配そうに呟く。夜風に揺れる張りのある金髪が、一房一房ごとに月と星の光を映す。

 中也は門扉の掛け金に手を伸ばしたまま暫し固まって考え込み、小さく首を振った。

「外なんか、出たってつまんねえよ」

「でも中也くんは、よく外に遊びに行くよね」

 気軽な問いに、中也も軽く肩をすくめて返す。

「つまんねえから、ちゃんとここに戻ってくるんだよ」

 握った手を引く。よろつくこともなく、賢治はぴたりとついてくる。涼しい夜気を圧して伝わる体熱。夜闇の中に生まれた泡の中に、二人でこわごわと身を寄せているような心地がする。

 ケープが翻る。歩き出す。夜のお散歩。あどけない声で口にされたその言葉に相応しい振る舞いが出来ているかどうか、自分を細かく検査している気分になりながら。



 花壇の月下美人は今夜を咲き時と決めていたらしかった。ぼんやりと光っているようにすら見える純白の花弁がどれもこれも円く開かれ、酔いそうな香りを漂わせていた。

 帝國図書館の庭園。カーテンを閉めた司書室の窓が見える。つまり、司書室からも庭園が一望できるということだ――見張られているような気分になるのも癪で、中也はあまり出ることはなかった。

 夜の散歩には絶好の場所だと思えた。中也は答え合わせに挑むように、賢治の顔を見下ろした。

「中也くん」

 賢治は大きな瞳に夜の庭園をぐるりと映してから、少しはにかむように笑う。

「ボク、中也くんなら外に行きたがると思ってたんだ。お庭になんか連れて行ったら、つまんないって怒るかなって。勝手に決めつけちゃってごめんね」

「……オレ、そんなイメージなのか?」

 少しの衝撃で眉を情けなく寄せて、中也は呻くように言った。何が面白いのかくすくすと笑いを零して、賢治は不意に繋いだ手を離した。

 飛び立ってしまった。掌の中に残る小鳥の温度。

 思わず手を見下ろす。拳を握って余韻を誤魔化す。花壇の前に屈みこんだ賢治は、その動作に気付いていないようだった。

 外に行きたがる。庭はつまらないと怒る。つまり、そう考えさせるほど気を使わせているのだ。中也は気を取り直すように小さく鼻息を吹き、賢治の隣に並んだ。

 しばらく、何も言わない。

 賢治は知りたがっているのだろうか。疑問に思う。自分が見せたみっともない泣き顔。その理由について。

 あどけない横顔は、花弁に書かれた文字を読もうとでもしているかのようだった。張り詰めた何かを感じるほど、真剣だ。

「花壇って、いいよね。楽しくて、奥深くて……標本箱みたい」

「標本箱ね」

 なんとなくその言葉は、賢治の詩情に似合うような気がした。口元を緩める中也に構わず、賢治は言葉を継ぐ。

「ずっと前に――色々考えたんだ。作るなら、こんな花壇がいいなって。日時計のある花壇とか、市松模様の花壇とか……それと、目の花壇。目の形をした花壇。花壇の名前は」

 不意に振り向く。短い指が目元に伸びる。中也は防衛としての瞬きすらせずその指先をじっと見る。

 中也の目尻を、指先がそっとつついた。

「……『涙にあふれた眼』。パンジー、ブラキコメ、ニンフィアー……好きな花を、一杯使って」

 口角を歪めたのは、きちんと笑いに見えただろうか。降参の意を込めて、中也はひらりと両手の掌を賢治に向けた。

 自分が想像していたよりもはるかに、賢治は自分のことを気にしていたらしい。

 目許を示す指がそっと下ろされる。中也は真摯に自分を見つめる緑金の瞳を自分の眼から吸い込むような心地でじっと見返し、体の力を意図して抜くように吐息を長く零した。

 頑なに黙っていたいわけではない――賢治の前では、なおさらだ。

「賢治先生は、妙な夢を見ることはねえか?」

 切り出す。賢治は迷わずに首を横に振った。

「そうかよ。オレは見るんだ。……いつも嫌な夢で、しかもそれは……オレの夢じゃねえ」

 説明に迷うことのないように、自分を鼓舞する。

「誰かがこの世にまで大事に持ってきた、とびっきり嫌な思い出だ。そいつは決まってオレの夢に飛び込んで、一晩中暴れやがる」

「……中也くんのものじゃない思い出が、夢の中に出てくるってこと?」

 生徒の支離滅裂な質問を整理する教師のような、物静かな口調だ。中也は少し決まりの悪い心地で頷いて、庭木の厚く照りのある葉っぱを一枚手持無沙汰に摘まんだ。

「そんなことって、あるのかな」

「なかったら良かったんだけどな」

 少しの間賢治は小さな口を閉じ、呟くように詫びた。

「そうだよね、ごめん」

「別に先生が謝ることじゃねえよ。……実際、気も紛れたしな」

 照れくさい心地だった。そうやって他人のために弁解するというのは。中也は葉っぱを手放し、痒くもない頬を控えめに掻いた。

「誰だって嫌な思い出の一つ二つはあるだろうよ、その人生引きずったまんま転生してんのがオレたちな訳だしな。でも……なあ先生、理不尽じゃねえか?」

 指先に力を籠める。張りのありすぎる庭木の厚い葉は、指の間でぱりりと割れて青臭い葉緑体のにおいを闇の中に散らした。

 分かっている。泣き言だ。賢治に言っても、困らせるばかりだ。


「他人のために泣いてやるなんざ、御免だってんだ。……オレは、オレのためにだけ泣きたい」


 自分の言葉におびえるように、賢治へ視線をやる。

 賢治は思い描いていたように、困惑してはいなかった。穏やかな瞳が中也を見返していた。

「中也くんは……」

 優しい声。甘い。訳もなく涙が溢れそうな心地がして、涙腺が痛んだ。


「きっと、ボクのためにも泣いてくれたはずだね」


 答えられなかった。中也は俯いた。

 厭わしいだけだった悪夢が脳裏に渦巻く。他人の苦しみを背負いたくなどないという、自分の言葉は心情に正直なものだったが――

 賢治の代わりに泣いていたのなら、幾らか悪くないもののように思えた。敬愛する詩人。美しい言葉を小さな身体の中にいっぱいに詰め込んだ天性の存在。その頬に伝う涙が、代わりに自分の目から溢れていたのなら。



******



 昼の司書室。賢治は出された椅子に座って脚をぶらぶらさせながら、アームチェアから至る所の脂肪をはみださせんばかりにでんと座っている特務司書の答えを待った。

「……なるほど」

 特務司書は賢治のさほど長くもない説明を聞き終えて、眉間に深い翳りを催しながら執務机に向かってふくよかな顔を伏せる。

 昨晩、あの夜の庭園で、中也から聞いた不思議な夢の話。どうやらただの気のせいだと片付ける訳にはいかなそうだった。だが、中也には誰かに相談すると言う考えがまったく頭から抜け落ちているように見えた。

 つまり、賢治がなんとかするしかない。

 文豪たちのメカニズムについてはこの図書館で一番詳しいのは、言うまでもなく特務司書だ。それに、図書館での生活の中で観察した限りでは、信頼できる人物のように思えた。ビア樽のような体型と恵比寿様のような笑顔でささくれる文豪たちの毒気を抜きながらも、締めるところはきちんと締める。不信を齎すような噂も、今のところ囁かれてはいない。

「結論から言うと、今のところ打つ手はないね」

 特務司書はその柔らかな肉に埋もれた頭脳から無機質に導き出されたらしい答えを、笑みがこぼれるほど福々しい声音で言った。

「転生個体がまれに発症する症状だ。記憶の混線――魂と記憶との結びつきに不具合が生じている」

「電話みたいに?」

 右手で受話器を持つ仕草をして、賢治は聞き返した。特務司書は分厚い顎を引いて頷きを返す。

「この図書館には、魂と未だ結びつかない記憶が多すぎるんだ。そうやってさまよう記憶を強く引き付ける個体がまれにいる。それがたまたま中原中也だったというだけのことだよ」

 思わず周囲を見回す。何もない空間に、記憶の粒子が彷徨っている。そんな想像をしてしまう。恐ろしい記憶、悲しい記憶、幸せな記憶。どれが寄って来るかは、自分では決められない。

 残酷な話だと思った。唇を引き結ぶ賢治の表情で、特務司書も察したようだった。

「心配しなくても、記憶はいずれ正しい魂と結びつく。時間はかかるだろうがね」

「治るってことだよね」

「あるべき形に戻る、という言い方をしようか」

 特務司書は大きな顔の真ん中に寄った顔のパーツを引き締め、しかつめらしく告げた。賢治は少し考え、食い下がることにした。

「なくすわけにはいかないの?」

 それは、唐突な言葉のようだった。

「なくす?」

「その、……中也くんが見てるみたいに、つらい記憶のこと。みんなに戻ってくる前に、虫取り網で捕まえてさ。一網打尽、みたいなこと……」

「なるほど」

 苦笑が返ってくる。

 出来るとも、できないとも言わないまま沈黙が落ちる。

 賢治は会話の終わりを悟って、椅子を下りた。次の潜書開始時刻の15分前を、司書室の時計が示していた。



******



 三日ほど前に、病室の夢を見た。

 レモンの香気が漂う白い病室で、自分は一人座り込んで、疲れた四肢をさらに鉛のように重くしていく悲嘆に打ちひしがれていた。

 ベッドに横たわる女から抜けていく生命の輝きを補うように、空は明るかった。


 今夜は、みぞれの降る松の林を彷徨う夢を見た。

 雪と水の混じったそれは、遥か高いところから降ってくるように思えた。手にした椀にそれを受け止めながら、滂沱と流れる涙が止まらない。

 みぞれを持って帰らなければならない。その先には別れがある。永久の、取り返しのつかない、動かしようのない別れがある。



 布団を跳ねのけて目覚め、涙に濡れた頬を撫でる。息が苦しい。詰まった鼻を思い切りすする。

 悪夢に慣れることなどない。夢の中では、『誰か』は自分そのものなのだから。

 中也はしゃくりあげそうな自分の体を宥めるように、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。心の波立ちが収まれば、水面に映る悲しみの影が輪郭を濃いものにする。余計に溢れ出す涙を止められず、零れた端から拭い続ける。びしゃびしゃになった寝間着の袖でついでに鼻も拭い、心に映る誰かの悲しい影が薄れていくのを待つ。

 いつの間にかベッドから降りていた。床の上にうずくまって、自分の肩が少し震えていることに気付く。


(誰かのために泣くなんざ――)


 苦々しい思いで、中也は胸中に吐き捨てる。理不尽への怒りが拳を固める。

 それを和らげるのはやはり、夜の庭園で聞いた言葉だった。誰かのために。ボクのために。敬愛する人のために。大事な誰かのために。

 これまで見た夢の中に、賢治の記憶はあるのだろうか。

 焼かれる町。崩れる町。病の床に横たわる痩せこけた屍。親友の残した遺書。動物園の鹿。レモンの病室。椀に受け止められたみぞれ。そういったものの中に。確かめる気も起きない疑問を脳裏にもやもやと過らせて、中也はのろのろと立ち上がる。

 眠り続けられる気はしない。やはり外の空気が、今の自分には必要だった。



 どうやら、待っていたらしい。

 中也は呆れ顔を晒していることを隠しもしないまま、夜の談話室の入り口に立ち尽くした。

「あれ、……ごめんね、困らせる気はなかったんだけど」

 中也の困惑は伝わっているらしかった。緑色の眼を丸くして賢治が言い、談話室のソファから機敏に立ち上がって小走りに駆け寄ってくる。

「いや、困っちゃいねぇんだけど」

 たじろぎ気味に響く自分の声。涙の名残は隠せない。いつもこれだ、と苦々しく声に出さず一人ごちて、決まりが悪いものを感じる。

 賢治はいつかの夜より、更に強引だった。小さな手に指先をひったくられて、ダンスの途中のように中也はたたらを踏んだ。

「行こうよ」

 断固とした声音だった。その眼に宿る光が強まり、たじろいでいる自分の顔を映していた。中也は答える代わりにまた鼻を小さくすすり、今度は自分から賢治へと身を寄せた。

 二人で肩を寄せ、歩き出す。外へ、夜風が何もかもを優しく吹き散らす夜闇の中へ。



*****



 赤い月天子。白く煙るような天の川。凍った花火のような光の群れの中に揺れる、炎を飲み込んだような青宝玉、黄玉、緑の凸面レンズ。

 鉄の門扉に凭れて夜空を見上げたまま、中也は黙っている。賢治も口を引き結んだまま、吸い込まれそうな夜空へ視線を注いでいた。

 吐息する。

 いつかと同じ星空だ。

 越えられないほどの時間を隔てた遠い昔、今とは違う肉体で見上げた空と同じ。

 その時の自分が確かに抱えていた悲しみは、今は掴めない粒子となって、文学の砦に漂っている――

 賢治は夜空の星に向かって、手を差し伸ばした。唐突な動作に隣の中也が視線を注ぐのが感じられた。その視線を指先の一点に集めるような心地で人差し指をぴんと立て、赤く燃える蠍の心臓のようなアンタレスを指し示す。


「あの赤く光る星にある、寂しい駅まで」


 静かに、賢治は続ける。


「真っ直ぐに走っていく鉄道があって、その先で誰かがキミを待っているとしたら――」


 誰か。その言葉だけで、中也の脳裏には様々な影がよぎったようだった。誰かの過去の影。固く閉じられて二度と開かない眼。離れてゆく、もう掴めない手。

 その眉が何かに耐えるように寄せられる。賢治は穏やかに、問いかけた。


「キミは、その汽車に乗りたいと思う?」


 少しの静寂。星の輝く音すら拾えるかのような。

 やがて子供のように、中也は激しく首を横に振った。迷った己を恥じるかのように、きつく歯を食いしばる音がした。

 その眼が開く。餓えた幼獣のような、ひたむきで痛々しい光がその小さな黒目の奥にぎらついた。


「オレたちは、ここで、」


 ひくっ、と、その喉が鳴った。


「……オレたちはここで、オレたちの戦いを続けるんだ。それが筋ってもんだろう」


 彷徨う記憶の欠片が、またその眼に涙を溢れさせるのが見えた。涙の膜が無数の星を歪めながら映す。

 涙に震えてこそいるが、それは強い答えだった――賢治はゆっくりと、目を見開いた。


「失くしたものと、同じ場所になんか行けねえんだよ。近づいたって、思い出したって、語り掛けたって、同じ場所には行けねえんだ」


 零れる涙が白い頬に筋を作り、長めの金髪を何本か巻き込んで肌に貼り付ける。

 賢治は空に差し出した手を下ろし、白く滑らかになった自分の掌を見下ろした。

 思う。

 何も忘れてなどいない。忘れることを望んでなどいない。中也も。賢治も。この図書館に魂を結んだ皆が。

 忘却することで過去を欺くことなどあってはならない。欠落したままで置いておかれる夢などない。魂はいずれ、正しい記憶と結ばれる。中也の夜毎の涙が溢れに溢れ、自然と止まる頃に。

 それはまた、新たな悲嘆や苦痛を呼び起こすものに違いはなかったが――

 賢治は頷いた。力強く、穏やかに、告げた。


「そうだね。背負った荷物をどこかで下ろすことなんて、魂が望んでないんだ」


 中也は星空から、その彼方から呼びかける声から目をそらすように俯き、目元を拭った。

 置き去りにされた子供のよう。いつかの動物園で感じた印象が、また蘇ってくる。

 だが、弱弱しくはなかった。同じ戦場で共に肩を並べて戦う、戦友の横顔でもあった。

「ねえ、中也くん。これから、さ」

 もう、自分に出来ることは決まっていた。賢治は思い切り笑みを浮かべる。難事を引き受ける年長者の笑み。お兄さんの顔。


「悪い夢を見た時は、ボクと一緒にいよう。落ち着くまで、お話をしたり、聞いたり、花や星を見たりしよう」


 手を伸ばす。涙に濡れた中也の手も何かを察したように差し出される。

 しっかりと指を絡め、手を握った。中也は視線を通わせて、面映ゆげに不器用な笑みを浮かべる。


「声を掛けてね――それと、動物園に行く時も!」


 賢治は明朗に告げた。過去と変わらない星明りが色とりどりに降り、その光を遮る影の形を少しずつ変えながら、中也は頷いた。

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