シェフィールドの片隅から

それは、私がイギリスのシェフィールドに留学していた頃の話。


日本を離れて数週間。街にも慣れ、お気に入りと呼べるカフェもできた頃。そのカフェで何度となく見かけたアジア系の男が、彼だった。


アジア系といっても、ちょっとハーフっぽい、エキゾチックな面立ち。大きなマグカップをひとつ、サンドイッチをひとつ。そして資料か何かを広げながら、いつも本を読んでいる。その雰囲気が、なんとも言えず美しかった。


"Ray."

"Hey."


時折交わされる友人との会話。そのほんの短いやりとりにも耳をそばだててしまうくらい、いつからか私は、彼が気になって仕方がなかった。


レイという名前らしい。くしゃっと笑った顔が、いっそう魅力的だった。



***



焦らずきちんと待っていれば、運命の順番はまわってくるらしい。イギリス生活が2ヶ月を過ぎたある雨の日。私は初めて、レイと隣同士になった。


何か話せたら。


何か、きっかけを。


そう思っているのに、相手の出方を待ってしまう。


彼が文字を追う眼差し。脚を組み直す頃合い。サンドイッチをかじった後の、口元をすっと拭う指。手持ちのペーパーバックを適当にめくりながら、私はきっかけが綻び落ちるのを待っていた。


雨は長居の言い訳になる。見つめるのを我慢する代わりに、私は全神経を研ぎ澄ませ、彼の挙措をじっと感じていた。


***



「あ……」


……栞が落ちた。


わざとじゃない。まるで助け舟のように、運命の順番が巡ってきたのだ。


「……………………」

「……………」


……よくある展開。言葉はない。親しみをこめた、束の間の隣人への微笑み。栞を拾い、渡してくれたその動作は、あくまでもどこまでも紳士的だった。


そこで、私たちのやりとりは終わった。



そんな気がしたのだけれど。



"Where’re you from?"



声の調子も微笑みもごく自然なのに、少し探るような、そんな瞳。その瞳の色合いに、密かに高鳴るものがあった。


"I’m from Japan."

"You too?"


……え?


「……俺も日本人なんです。この辺あまり日本人見かけないから、どうかなって思ってたんですけど」


きっかけは、思いのほか、ぐいぐいきた。


「俺、礼司っていいます。ここの大学院に留学してて」


聞けば、イギリスにはもう6ヶ月も滞在しているのだという。留学しているといっても、彼はもう立派な社会人で、今回はちょっとした長期研修なんだとか。


それから、趣味はカメラだとか、週末はもっぱら課題だとか、気づけばお互いのことをあれこれ喋っていた。そして、お互い決まった恋人がいないという情報を引き出したところで……私たちはもう、ただの隣人同士ではなくなっていた。


「今度、ロンドン案内しますよ」


そう言って彼が渡してくれた連絡先は、未だに私の手帳に挟んである。


あれから時は流れて。恥ずかしながら、彼のファインダーにも何度か納めさせてもらって。カフェで眺めていたその美しい横顔は、それからずいぶん近くなった。


始まりはシェフィールドの片隅から。あの日の雨は、心のどこかで、まだ降り続いているような気がする。

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