どうせ零れてしまったから

 雪こそ降らないが、冷え冷えとした青空の中で陽は傾きつつある。庭に落ちる色も濃い影を眺めて、ストーブから立ち上る暖気にほうと吐息する。

 白いプラスチック製の編針を持つ、珍しく手袋を外した自分の手へ視線を移す。でたらめの鼻歌と共にうにうにと動いて毛糸を編み合わせていく様はある種の不思議な生き物のようで、南吉の心をますます弾ませる。

「おはなをうめる、がらすでうめる、きつねのおてては、んん、ちょっと、大きいな……」

 出鱈目な歌の歌詞に窮して、思わず真剣な呟きをほつりと落とす。いつの間にか編み目が進み過ぎていて、今までと明らかに合わなくなってきている。大きい、とは少し違うかもしれない。長い、とか、多い、とか。そんなことを忙しなく考えながら、仕方なく玉付の編針をすらりと引き抜いて編み過ぎた目を解いていく。

「解いちゃうの?」

 編む手を不意に止めて尋ねてくる声。南吉は困り顔で首を傾げたまま、談話室の椅子に掛ける詩人へ視線をやった。

「編みすぎちゃったから」

「……いっぱい編んだ方がいいと思ってた」

 ぼんやりと呟いて、詩人は藍色の瞳を伏せ、自分の手元を見る。どちらが針なのかと見まごうほどに細くしっとりと白い指が、必死に絡めとるように掴んでいる赤い編針。ぎくしゃくとぎこちなく動く度に、見るも無残に絡まった毛糸がだらりだらりと垂れ下がっていく。朔太郎の手元で展開される何か怪談めいた見た目から意図して少し視線を外し、南吉はひとまず微笑んだ。

「あんまり大きくなったら、手袋にならないよ」

 ね?と、膝に乗せたごんに同意を求める。朔太郎は不意を突かれたような顔をして、否定を求める視線を同じく小狐の顔にやる。

 もちろん、ごんは声を出したりもしないし、ウィンクを送ったりもしない。朔太郎が薄い肩を小さく落とすのが見えた。

 鼻歌を再開して編み物を続ける。編まれた毛糸が軽快に垂れ下がり、リズムに合わせて跳ねる。結局のところ、大きすぎるだの編みすぎただのは些細な問題だった。南吉にとっては編み針が動き、毛糸が編まれる、その心地よい流れこそが重要なのだ。

 鼻歌が佳境に入ったのを見計らったように、食堂の重い開き戸がゆっくりと動く。視界の端に現れた青と黒の鮮やかな市松模様が、新たにやってきた客が誰であるかを知らしめる。

 芝居がかった――と言うべきなのだろう。この男に関しては、何もかも。

 派手なマントを捌く指先まで堂に入った、華やかな仕草だった。革靴の硬い足音すら計算されつくしたテンポで響かせて、満場の注目を集める舞台役者のようにストーブ傍へと歩み寄ってくる。

「乱歩さん、ストーブに当たりに来たの?」

 編み物の手を止めて顔を上げ、南吉は聞いた。モノクルの下の何か面白がるような眼差しがすっと下へ動き、なんとなくどきりとする――南吉の手袋の下に、なぜかこの男は非常に興味があるようだった。

 南吉の何の変哲もない手を見た今も特に何も言わないのは、ひょっとして狐が上手く化かしているとでも思っているからだろうか。諦めと共にかなり確信に近い推測をするが、どちらにせよ乱歩は穏やかな声で言うばかりだった。

「ふうむ、群衆のざわめきがないのは些か物足りないところですが……友人二人が心地好い時を楽しんでいるのを見るのは、やはり良いものですね」

「楽しいよ。南吉さんに、教えてもらったんだ」

 朔太郎がぽつりと言う。不定形の赤い毛糸を編み針の下にぐじゃぐじゃと広げたまま、控えめながらも晴れやかな顔を乱歩に向ける。

 乱歩は微笑を湛えた表情こそ変えなかったが、少し窺うような視線をテーブルの上に向けたのが南吉には分かった。そこには朔太郎と南吉が編んだ手袋が置かれている。

 朔太郎はもちろんのこと、南吉も決して器用なわけではない。テーブルの上のそれも、手袋、になりかけたもの、の作りかけ、程度に留まっているのが悲しい現実だった。

 乱歩が珍しいほど慎重に言葉を選び、言う。

「エエ……今日一日でこれを。その……なるほど、量産体制といったところですか」

「ぼく、編むのは早いんだ」

 南吉ははにかみ気味に言った。乱歩の口元が少し、戸惑うようにひきつる。

「自分も、結構……てきぱき、やれている方だと思う」

 朔太郎が更に嬉しげに言った。乱歩の骨ばったすらりと長い指が、頭痛を堪えるように額の中心を押さえる。

 結局、何か物申すのは差し控えることにしたようだった。乱歩の手がテーブルの上の手袋もどきを摘まみ、間延びした編み目のせいで向こうが透けて見えそうなそれをだらんと垂れ下がらせる。手袋を目指した形ではあるが、人差し指と親指しかない。どうお世辞を言っても酷い出来のそれは、毛糸の色からして南吉が編んだもののようだった。

 編んでいるときは手元に夢中で、結局自分が作っているものの全体像というのはなかなか分からないのだ。それでもいいと南吉は割り切っていた。

「んん、そう……手慰みとは心を満たすためのもの。これもまた、心を楽しませ、戦いの日々の無聊を慰む、良き作品と言えるでしょう」

 摘まみ上げたそれを早々にテーブルに戻して顎をさすり、乱歩はほんの僅かな逡巡の後に淀みなくすらすらと語る。

「……乱歩さんって、優しいよね」

 南吉はくすりと笑いを零し、言った。いつの間にか編み物を再開している朔太郎の熱心な手元をかなり気遣わしげに一瞥してから、乱歩は吐息を小さく抜いてそれに応える。

「何かに使えないかと、考えているだけですよ」

「それって、悪戯とかに?」

「ひょっとして、手品に?」

 南吉に、次いですぐさま顔を上げた朔太郎に問われて、乱歩がふと真剣な顔をする。不器用な手芸を前に、何か言葉を繕おうとしている顔ではなかった。

 考えている。そして、考え付いた。

 その長い腕が優雅に振られ、マントの縁をひらりと払う。不敵な口元の描く弧が、一層自信に満ちたものになるのが見えた。

「そう、奇想とは斯くなるもの――ワタクシに、良い考えがございます」

 二人は完全に手を止め、身を乗り出した。ストーブを囲んだ、たった二人の聴衆を前に乱歩が見せる、とっておきの笑み。

 その表情を、南吉は好きだと思っていた。より正確に言えば、そう、最高だと。



***



 犀星は短い洗い髪を灰色のタオルでごしごしと拭いながら、宿舎の私室に大股に踏み込んだ。といっても、犀星に割り当てられた部屋ではない。親友である朔太郎の部屋だ。

 呼びつけられたわけでもなければ、特別な用事があるわけでもない。ただの日課だった。一日の終わりが近づいたころに一応部屋を訪れて様子を見、変わったところがないかだけ確かめておくのだ。この親友は思いもよらないところで躓く上に、声を掛けて手を差し出さないとなかなか立ち上がろうとしないようなところがある――比喩的な意味だけでなく。

 朔太郎は特に問題なく部屋にいた。支給品の地味な寝間着姿でベッドに腰掛けて細い足をふらふらと揺らし、自分の両手の指を真剣な顔で眺めている。

 右手の人差し指、左手の中指。それぞれに何かが被さっているのが見えた。人差し指には赤い何か、中指には白い何か。

「朔」

 ドアを開ける音だけでは気付かなかったらしい。声をかけながら近づく。指にかぶせている間は毛糸で編まれたごく細く小さな袋だと、よく見ればわかった。手袋ならぬ「指袋」とでも言えばいいのだろうか。

 朔太郎が顔を上げる。そのまま毛糸の指袋をかぶせた指を上げ、それぞれの指にお辞儀をさせた。

「……ふ」

 小さく噴き出す。よく見れば、指袋には切り抜いた紙を張り付けただけの小さな目と口がついていた。

「可愛いな、なんだこれ。朔が作ったのか?」

「うん。南吉さんに、編み物を教えてもらったんだ。最初は手袋を作ってたつもりだったんだけど、うまく五本指にならなかったから。それを見て、指人形にしようって言ったのは、乱歩さんで」

「おいおい……手袋作ってて、五本指にならなかったのか?! いや、お前らしい気はするけどさ」

 らしいどころか、ありありと想像できる気がした。朔太郎はなぜか人並み以上に指先を使うことが好きな男だが、決して器用なわけではない。

 朔太郎の細く白い指を覆う、やや編み目の不揃いな二つの指人形をあらためてまじまじと見る。きょとんとした表情の赤い指人形、素朴に笑う白い指人形。なんとなくだが、顔を作ったのは南吉ではないかと、朔太郎に聞いた話から検討をつけておく。

 編み物。暇つぶしに手を出す娯楽としては、まずまず手軽でいいのかもしれないが。

 犀星は少しだけ、呆れたように笑った。

「何でもやってみるのは良いことだと思うけど、まだまだこれからってとこみたいだな……朔の編み物は」

 朔太郎が少し俯き、沈んだ声音で言う。

「……あんまり上手くないから、乱歩さんも少し困ってた」

「困ってた……ってのは?」

「コメントに」

 そりゃそうだろうなあ、とはさすがに言わず、犀星はひとまず心の中で乱歩に同情しておいた。

 タオルを肩に掛けて手を空け、朔太郎のほうへ差し伸ばす。珍しくすぐに意図に気付いたらしい朔太郎が、中指の白い指人形をすぽんと外し、犀星の手に乗せた。

 少し迷い、結局自分の左手の人差し指に被せる。切り抜いた紙の貼り付けただけの指人形の笑顔は、近くで見ればなかなか味があって悪くない出来に見えた。思わず笑いを誘われ、指先をぴこぴこと動かしてみる。

「いいんじゃないか、指人形でも。手袋もまあ、次の冬くらいには作れるようになるといいけどな」

 明るい声で、そんなことを言ってみる。朔太郎は思っていたよりその言葉を真剣に受け止めたらしく、少しこちらの腰が引けるほど真っ直ぐな眼差しで真剣に頷いた。

 その様子が少しだけ、気になった。白い指人形に不定期にお辞儀をさせながら、犀星は尋ねる。

「なあ、朔」

「ん」

 自分の右手に残った赤い指人形を大事そうに見つめながらも、朔太郎はこちらに耳を傾けている。自分の言葉を片手間に聞き流すような男ではない。それについては確信があった――犀星は、穏やかに続けた。

「なんだってまた、編み物なんてやろうって思ったんだ?」

「……」

 朔太郎の目が細められた。揺れるような光が青い瞳の奥で一つ、大きく揺れる。熱を持たない炎のような危うい輝きだと、朔太郎の眼を見る度に思う。

 色の薄い唇が少し震え、ごくわずかに笑んだ。

「編み物は、……いいよ」

 言葉を探すような沈黙。朔太郎と話す時は付き物のそれを、犀星は辛抱強く待って過ごした。

「……前の目があって、……だから、次の目が編めて。それが全部、自然で、当たり前の、許されたことだから、なんだか……」

 親友が顔を上げる。視線が通った。藍色の眼は澄んでいた。それは必要な言葉を見つけ出した顔だと、犀星は悟った。

「愛おしくなる。こんなことも、この世界にはあったんだって」

 朔太郎の声は常通りに何処か頼りなかったが、どこか温かだった。だからという訳ではないが、多分に寓意を含んで聞こえたそれについて、犀星は深く考えるのをやめた。

 親友が喜んでいる。それでいいかと、素直に思えた。朔太郎の言葉を借りれば、自然に、当たり前に。

「そうか」

 微笑む。白い指人形を外して縁を少し拡げ、朔太郎の右手の中指へ被せていく。赤い指人形とぴったり隣り合って、コントラストが少し眩しい。

「新しいのが出来たら、また見せてくれよな」

「……詩と、同じことを言うんだね」

 朔太郎の声は不満げではなかった。語尾には少しだけ、朗らかな響きすらあった。そのことに満足して手を小さく振り、犀星は生乾きの髪をもう一度拭って背を向けた。



***



 南吉はわあ、と声を上げた。

「これ、乱歩さんが作ったの?」

 白い指人形が、乱歩の長い指に嵌ったまま優雅に一つお辞儀をする。それにはまだ目も口もついていないが、代わりに紙で工作したらしい小さなシルクハット型の帽子を被っていた。

「エエ、少しばかり手こずりましたが……御覧の通りの出来でございます」

「器用、だね」

 シルクハットを被ったのっぺらぼうの指人形を、朔太郎も興味津々の眼差しで見つめて呟く。その手には昨日と同じ編み棒が握られ、茶色の毛糸がまた縺れに縺れながら広がっていくような独特の惨状を演出していた。

 食堂。ストーブの近く。テーブルの上に積まれた手袋もどき。南吉と朔太郎の膝の上の、編み棒と毛糸。昨日と同じはずの状況を、乱歩の楽しげな企みが一層心の浮き立つものへ変えている。

「型紙と絹で作れたら、それが一番宜しかったのでしょうがね」

「毛糸の人形がそんなちゃんとした絹の帽子を被るなんて、少し……うーん、面白いね」

 言葉を選んだわけではないが、他に言いようもない気がした。南吉は編み物の手を止め、真面目な表情の目と口を貼り付けた赤い毛糸の指人形をオーバーオールのポケットから取り出した。左手の人差し指に被せてみると、ただの毛糸の細い袋に過ぎなかったそれにいきいきと表情が宿る気がする。

 指人形の顔を、乱歩のそれにくるりと向ける。乱歩はすぐさま意図を悟ったようにモノクルの下の目を欄と光らせ、のっぺらぼうの指人形を被せた人差し指を胡散臭い仕草でぐるりと巡らせ、見栄を切らせた。

「ヤア皆々様、この度はお騒がせして恐縮の次第……而して徳一少年、その身一つでこの私に挑もうなどとは、なんたる不敵、なんたる無謀……」

 徳一。懐かしい名に、血がふわりと熱くなるような感触が走る。南吉がかつて書いた数多の物語に、幾度も登場した名の一つだった。

 乱歩と視線が合い、思わず口元が笑む。徳一と名付けられたばかりの指人形を小さく動かして生き生きと語る声も明るく、弾んだ。

「お前が怪人だな。今日はいっぱい味方がいるんだ、負けないぞぅ」

 ね、と視線を黙って見守っていた朔太郎に――移そうとしたところで、物音に三人は振り向いた。食堂のドアが開き、新たに誰かが入ってくる。

「犀」

 指人形を自分も嵌めようとしていたらしく半端に摘まんだまま、朔太郎が常より分かりやすい声音ではっきりとその男の愛称を呼んだ。橙の襷飾りを室内の柔らかな明かりにちかりと煌めかせて犀星がこちらへ体を向け、頭を寄せ合っている南吉と乱歩の指人形をしげしげと見て眉尻を呆れたように少し下げる。

「それ、みんなでやってんのか。つくづく変わったこと始めたなあ」

 そのままストーブの脇へ歩み寄ってきて、当然のように椅子を引き寄せる。朔太郎の隣にぴったりつけた椅子へ掛ける犀星へ、乱歩は指人形だけでやたら華麗にお辞儀をして見せた。

「ようこそ、お立合い。帽子をつけたままでのご挨拶と相成りますが……なんてね」

「お、何か見せてくれんの?」

 犀星の声が見世物に来た子供のようにあからさまに弾む。乱歩という男に色々と過剰な期待をしがちなのは、南吉と朔太郎だけではないということなのだろう。

 朔太郎の白い指が編み針を離し、代わりに襷で上げられた犀星の袖をちょんと引っ張った。

「この人形の帽子、乱歩さんが作ったんだって……器用だよね」

 唇に微笑が、そしてその声にはわかりやすい羨望がある。南吉は少しだけはらはらと犀星を見たが、犀星はもちろん『朔は不器用だからな』などとは言わなかった。頭を軽く掻き、素直な感想を口にしてくる。

「うへ、凄いや。そういうチマチマした作業、俺は無理だな……投げ出しちまうかも」

「何やらワタクシ、今日はこの帽子ひとつでやたらに称賛を浴びておりまして……予想外の出来事です」

 乱歩が苦笑を浮かべて、空いた手で紙の小さな帽子をつついた。指人形を嵌めた乱歩の指にぴったりのサイズ。神経質に尺を取っている乱歩を想像して、南吉は少しだけ笑いを誘われた。

「それで、ええと……南吉さんの指人形は、徳一って名前なんだって」

 朔太郎の説明は続いていたようだった。犀星は律儀に南吉の指人形へ顏を向けて顔の高さすら合わせ、その色紙でつくられた生真面目そうな顔立ちを真正面からじっと見る。

「徳一か。いい顔だな、からかいがいがありそうで」

 悪くない感想だった。南吉は指人形をぴこぴこと振り、乱歩をいくらか真似て芝居がかった口調を作った。

「ぼくをからかってもらっては困りますよ、犀星くん」

「あはは。困るか、そりゃもっともだ。悪戯もしないように後ろの人に言っといてくれるか?」

 すぐに屈めた背を戻し、指人形の頭をちょんと突かれる。南吉は手を裏返して指人形に背を向けさせ、少し唇を尖らせ気味に言った。

「お断りしまーす」

「オヤ、徳一少年はいささか依怙地なところがあるようだ……」

 笑みを含んだ声音と共に、ぬっと乱歩の指人形が割って入る。犀星が少し虚を突かれたように瞬きするのが、南吉には見えた。

 ややあってから、笑い声。

 椅子の背にのびのびと身を預けて胸を震わせ、犀星が心地よさそうにおとがいを放っていた。

 笑い声はそう長くは続かない。それでも目尻を指の背でちょいと拭い、犀星は詫びとも言い訳ともつかない言葉を楽しげに口にする。

「いや、悪い、面白くてさ、なんか。勿体無えな、こうやってストーブの周りで遊んでるだけなのがさ」

「と、言いますと?」

 指人形から犀星の顔に視線を移し、乱歩が問う。

 犀星が軽快な仕草で椅子の上の姿勢を正した。ずいと身を乗り出して三人に身を近づけ、立てた人差し指の綺麗な腹を示すように見せる。

「ほら、娯楽に飢えてんのはここのみんなも同じだろ?みんなにも見せてやればいいのにって、思ったんだよ」

 南吉はきょとんと瞬きした。乱歩が挑むように微笑するのが見えた。

 しかし、最初に言葉を発したのは、自分でも乱歩でもなく、神妙に耳を傾けていた朔太郎だった。

「みんなに」

 ひっそりと、発音の一つ一つを愛おしむような呟き。

 風が渡る日の湖面のような複雑なきらめきを含んだ藍色の瞳が、静かに上がる。その瞳に南吉が、乱歩が、犀星が、順繰りにはっきりと映る。

 何を言われるまでもない。南吉は、確信したーー朔太郎の、次の言葉を。

「したい」

 耳を打つ、どこか茫洋とした声の、しかし分かりやすすぎる答え。

 真っ先に、乱歩が笑いを零した。

「なんとも、簡潔にして力強い結論ですね」

「したい。とても、面白いお話を考え付く気がするから」

 朴直に頷いて繰り返す朔太郎に、犀星が驚いたように目を軽く剥いた。

「って、お前が話作るつもりなのか!?」

「いいと思う」

 南吉はすかさず口を挟んだ。

 劇の脚本なら確かに南吉も腕に覚えはあるが、何よりも興味が湧いた。この他愛ない遊びの一つ一つに目を輝かせていた朔太郎が、どんな話を作り上げようとしているのか。

 乱歩も同感なのだろう。口許に笑みの弧を描いて指人形の帽子で自分の下唇をちょんとつつく、その表情に沸き立つような好奇心を刺激される。

「エエ、ワタクシも賛成です……面白いことになりそうですね」

「いいけどさ……珍しいこともあったもんだなあ」

 勿論、犀星も反対という訳ではなかったようだった。

 ただ困惑したように頭を掻き、何か期待と面映ゆさにむずむずしたような表情で顔を伏せている朔太郎の横顔をまじまじと見る。その合間に探した言葉はすぐに見つかったらしく、犀星はにいっと笑って白く並びの良い歯を見せ、朔太郎の薄い背を軽く叩いた。

「ま、俺にも見せてくれるんだろ?楽しみにしてるからな!」

「……うん」

 思った以上に、その返事は力強い。膝の上のぐしゃぐしゃに編まれた毛糸を握りしめて、朔太郎はその眼に強い光を宿らせた。



***



 有碍書潜書の準備をしろと言われる度に、犀星は少し困った気持ちを覚える。恐らくそれは、大体の文豪たちも同じだろうと思えた――つまり、準備と言っても何をすれば良いのかということだ。

 武器は有碍書の中で具現化し、戦いのための感覚もまた同じように形作られる。他の武器を持っていける訳でもない。そもそも、潜書の次第を整え、監視するのは特務司書と呼ばれる錬金術師の役割だ。自分たちにはまず期待できない能力だった。

「……確かに」

 鎖と錠前で固められた有碍書の本棚の前に引っ張ってきた椅子に暇そうに腰掛けて脚を組み、やたらに凝った髪型の真っ赤な髪を気取った仕草でぴんと跳ね上げて、太宰が犀星の雑談に同意する。

「遺書書くくらいしか思いつかないよな」

「いや。それは思いつきもしねえけどさ」

 あっさりと答えて、犀星は黒檀の台に据えられた禍々しいほど黒い本へ視線を寄せた。

 無意味な文字に食らい尽され、世の人々の記憶からすら消えかかっているその有碍書も、元をただせば文豪の名著の一つだった。自分たちが潜書し、侵蝕者たちを根絶しなければ、この本はいつか世界から欠落して取り返しのつかないことになってしまう。

 暗い天井近くに据えられた見づらい振り子時計が、15時の5分前を示している。自分たちの特務司書を任じられている男は、面白みはないがとにかく真面目で誠実であることには信頼がおけた。館内放送で宣言した通り、15時ちょうどにこの部屋にやってくることだろう。

「日記も、書けるよ」

 少し離れたところで有碍書の禍々しい雰囲気を放つ棚を眺めていた朔太郎が、不意に口を鼻差んでくる。何か言葉が続くのではないかと、犀星と太宰は束の間黙った。

 先に口を開いたのは太宰だった。二色のネクタイの位置をちまちまと整えながら、自嘲気味な声音で言う。

「って言ってもなあ。下手なこと書き残したって恥かくばっかりだしな」

「朔、日記書いてんのか?」

 ひとまず尋ねてみる。朔太郎は細い首を微かに傾けて考え、そして否定するように頭を振った。

「何が出来るかなって、考えただけだよ……準備の、時間に」

 そうか、と呟くように答える。気が付けば分針が進んでいた。犀星はすかさず太宰に向き直り、やや強めた語気で言った。

「太宰、お前遺書がどうこうなんて絶対あの司書に言っちゃ駄目だからな。マジメなんだから、あいつ」

「……好意を受け取れない男ってのも不幸だけど、冗談を受け取れない男ってのも同じくらい不幸だな」

 大仰に肩をすくめ、気取った声音で太宰が言う。呆れ切った声を犀星が上げるのを阻むように、遠くから硬い革靴の足音が二人分響く。

 特務司書と、助手。戦いの時間がやって来たということだ。犀星はようやく気分が引き締まってきた思いで背を預けていた壁から身を離し、有碍書を据えた台の前へと歩み寄る。

「少し、怖くなるね」

 呟くような声が間近で聞こえる。いつの間にか歩み寄ってきていた朔太郎の肩へ手を軽く起き、その薄さに少し頼りないような心地を誘われながら、犀星は笑った。

「俺がいるんだ、何も心配することないだろ?」

 椅子がガタンと鳴る。椅子を蹴立てんばかりに立ち上がった太宰が大股に歩み寄りながら、自分の顔を指差して必死に語ってくる。

「あ、俺も!俺もいるから俺も!完璧に頼りになるっていったらやっぱり俺でしょ!?ほれ言ってみ?誰が頼りになるか言ってみ!?」

「……なんでこんなにうるせえんだ、この部屋は?」

 足音が止まると共に聞こえた声。曖昧な苦笑を浮かべた特務司書の隣で、助手を新任させられたばかりの安吾が頬を小さく引っ掻いている。あ、と曖昧な声を漏らす太宰に構わず歩み寄ってくる二人。特務司書が気を落ち着けるように目を伏せ、呼吸を整えているのが聞こえた。

 潜書の時が来る。

 犀星は朔太郎と目を合わせた。朔太郎は小さく頷き、皆と同じように、有碍書に潜るべくその細く白い手を伸ばした。

 ――少し、怖くなるね。

 その言葉を、犀星は後で何度も思い出すことになる。深く重い、後悔と共に。



***



 まるで医者のように補習室の寝台の傍らに立った司書が、沈鬱な顔を隠すように俯いて言葉を選んでいるのを、犀星は険しい顔で睨んだ。

「つまり」

 かすれた低い声で、脅しつけるように司書に言う。

「どういうことだよ」

「やめとけよ、噛みついたって意味ねえだろ」

 少し離れた位置で成り行きを見守っていた安吾が、呆れきった声音で口を挟んでくる。色眼鏡の下の目は、決して優しくはない。

「聞きたきゃ俺がちゃんとまとめて言ってやるよ」

 告げるその声に愉しみはない。深い痛みと悲しみが、淡雪に埋もれるように眠っている。

「朔太郎の喪失状態は深刻。補習には長い時間が掛かる。転生してからの記憶の大部分は修復出来ねえだろう、ってな」

「……!」

 今の自分はおそらく物凄い顔をしているのだろうと、犀星は自覚した。司書が僅かにたじろいだような顔をするが、安吾は堪える風もなくただ眉間の皺を深くする。

「完全にぶっ壊れて帰ってこれなくなる前に引き上げてくれたのは司書。任務を遂行しきれなかったのは会派筆頭の俺の責任。あの敵を相手に切り抜けられなかったのは俺たちの責任だ。あんたは誰に対してブチ切れてるつもりなんだ?」

 詭弁だ。と、犀星は直感で感じる。

 そもそも文豪たちの戦力を見誤り、高難度の有碍書への潜書に舵取りをしたのは司書の責任以外ありえない。だが、それを言ったところで何にもならない。それを安吾の表情から悟れる程度には、頭から血も下りていた。

 喪失状態。

 犀星はその言葉を痛む虫歯に触れるような心地で反芻しながら、補修室の寝台へ視線をやる。

 朔太郎は寝台に埋もれるように眠って、寝息の音すら立てない。不吉な黒い文字に白い肌の至る所を侵蝕され、ところどころ寸断すらされている朔太郎が存在を保てているのは、確かに奇跡的なことに見えた。

 自分たちの存在は、寄る辺は、ひどく不安定だ。喪失状態に陥った仲間を見るたびに去来する思いを、さらに強くする。

 侵蝕されれば鎧った心が崩れ、弱い部分を剥き出しにする。存在が揺らぐほどの衝撃を受ければ、思い出すらも剥がれ落ちていく――

「少なくとも、侵蝕は補修すれば直る」

 犀星の視線に気づいたらしく、安吾の声はいくらか柔らかさを帯びた。それは憐みや同情というよりはもっと素直で全うな、連帯感めいたものに、犀星には感じられた。

 誰も責められない。その理不尽とすら戦うために、自分たちはいるのだから。

「ずっと見守ってたいなら邪魔はしねえが、メシ時には食堂に引っ張っていくからな」

 安吾が言いながら椅子を引き寄せてくる。椅子の上に置かれた猫のぬいぐるみをひょいと取り上げ、無造作に犀星の胸に押し付ける。反射的にそれを受け止めて抱きしめ、その愛嬌のある顔を間近で見せられて、犀星は強張った口元をごく僅かに緩めた。

 その雰囲気を敏く気取ったのだろう、ふは、と安吾が短い笑いを響かせる。そのまま司書の背を叩いて立ち去るよう促すのを横目に、犀星は用意された椅子へのろのろと腰掛けた。



***



 朔太郎の喪失状態は深刻だ。補修にも長い時間が掛かる。目覚めるまで離れず傍らで見守り続けるのが、現実的ではない程度の時間。それでも、犀星は椅子を立たなかった。

 南吉と乱歩が補修室を訪れたのは、日が傾いてからのことだった。

 耳付きの帽子の綿飾りを弾ませて朔太郎が眠る寝台へ向け小走りに駆けこもうとする南吉の背の、狐のぬいぐるみを大きな手でわし、と掴んで引き止め、乱歩が立てた人差し指を唇の前に置く。

「補修室内ではお静かに」

「そんな決まりあったかなあ」

 不満げに小さな唇をとがらせて言った南吉が、すぐに座ったままの犀星へと目を巡らせる。寝台と犀星の間に視線を往復させ、今度は早足に歩み寄って金属のフットボードへ手を置き身を乗り出す。

「……大怪我、しちゃったんだってね」

 丸っこい眼に眠る朔太郎が映る。悲しげな陰りが幼い横顔に宿る。

「怖かっただろうな、……かわいそうに」

「ワタクシ達、二人とも有魂書への潜書を命じられておりまして。帰ってからお話を聞かされた時は、たいそう仰天したものです」

 かつ、かつ、と靴音を立ててマントを翻し、南吉に続きながら、乱歩が穏やかに沈んだ声音で語る。犀星は自分が長らく黙り込んでいたことにようやく気付き、慌てて乾いた唇を開いた。

「俺は、朔と一緒に戦ってたんだ。……守れなかった」

「犀星さんのせいじゃないよ」

 幾度も繰り返した思考のループを遮る、幼くも力強い声。犀星は否定も肯定もせず、黙った。

 自分のせいではない。

 なら、誰のせいなのか。自分の。司書の。安吾の。太宰の。朔太郎自身の。誰かのせいだとして、それを責めるべきなのか。ただすべてを受け入れ、黙り込むべきなのか。考えるのをやめようと思った端から思考の糸が絡まり、解しようもなく蟠る。

 青く澄んだ瞳が、ゆっくりと上がる。犀星は唇を引き結び、その眼を見返した。

 南吉の眼は大きく、よく光を映す。心の中が見透かされている気分になる。そう持った瞬間、まさにその空想を裏付けるかのように、南吉が言う。

「受け止めるしかないんだ。前に進むしか」

 びくりと、肩が震える。乱歩の口許からも笑みが消えていることに、犀星は気づいた。

 視線が注がれている。傷つき眠っている朔太郎ではなく、今まさに追い詰められている犀星に。

 異様な状況だと、最初に思った。それからすぐに、それほどに自分は危うい様子なのだと気づいた。

「前に、ったって」

 呻くように、犀星は呟く。俯いている自分に気付き、顔を上げる。

「ただの喪失状態じゃねえんだ、……あの司書から、聞いてないのか?」

「エエ、無論聞いておりますとも」

 胸板に手を置いて、乱歩が悠然と頷く。

「存在の欠落一歩手前……おそらく、ワタクシどもと過ごした時の記憶なども消えてしまうだろうということでしたね」

「……おはよう、はじめましてって、目が覚めたら言わなきゃね」

 俯いた南吉が言葉を継いだ。犀星は扱いづらい感情をいなすように歯噛みし、筋を浮かせる自分の拳を見下ろした。

 自分だけではない。この感情はこの二人にも共通のはずだ。やるせなさ、悲しさ、無力感。それらの混合。付き合いの長さの差はあれ、友が記憶を失うことになどそうそう耐えられるものではないはずだ。

 自分だけが、腹を立てたところで仕方がない。南吉が言うように、受け止めて前に進むしかないのだ。

「はじめまして、って言ったら、さ」

 南吉が少し声を張る。犀星は乱歩と共に、南吉へ注視の眼を向けた。

「そこから、また新しい思い出を作っていけばいいよ。ぼくと、乱歩さんと、犀星さんと……とにかく、みんなで」

「……分かってるよ」

 応える声はひどくぶっきらぼうに響いただろう。そのことを頭の隅で意識して息を一つ挟み、犀星はいつの間にか伏せていた瞼をはっきりと上げて二人を見た。乱れそうな呼吸を押し殺すように整え、続ける。

「そうするしかないってことくらい」

 ふと、思い出していた。

 いつか、朔太郎が語っていた言葉。珍しいことに、詩ではない。編み物についての話だ。

『編み物は、いいよ』

 視線をそらした先に、朔太郎の白い寝顔がある。肌を侵蝕する黒い文字はいつの間にか色を薄れさせているが、その苦悶の表情は和らいでいない。

 奥歯を噛み締める。脳裏に去来する、朔太郎の嬉しげな声。

『前の目があって、……だから、次の目が編めて。それが全部、自然で、当たり前の、許されたことだから、……愛おしくなる』

 自分たちの存在は自然ではない。

 当たり前でもない。

 許されていないとまでは、思いたくなかったが――

 だから、何もかも、毛糸を編むようにはいかないのだ。積み上げてきた日常を守る力など、自分たちにはない。理不尽の前に崩されて無に帰す様を、眺めることしかできない。

 目を伏せる。乱歩が何か言いかけてやめたのが、空気の感覚で知れた。



***



 月明かりが降る。斜めに、真下に。

 帝國図書館の夜の庭園。青く沈むような夜闇の中で、水槽の中の魚になったような感覚を覚える。静寂が過ぎて、耳鳴りのような音を闇の中に聞き取る。

 疲労している。気を張りすぎた。そのことをぼんやり自覚しながら、犀星は隣の男に合わせて足を進めた。

 青のハーリキン・チェックを裏地にした派手なマントが、夜風に丁度良く翻る。つまり、目障りでもなく、地味でもない、計算されつくした頻度で。中に手を入れて動かしてるんじゃないだろうな、とつい首を巡らせてその骨ばった手へ視線を注ぐと、すぐに気づいたように乱歩はその手をひらりと挙げてわざとらしいほどに満面の笑みを見せてくる。

「昼の夢が覚め、夜のうつつをそぞろ歩く……いつの世も楽しいものですね、夜の散歩は」

「楽しくないとは言わねえけど、毎晩こんなことやってんのか?」

 何気なく導かれるままに、金属のアーチを潜りながら尋ねる。刈り込まれた植木の簡易な迷路。夜闇に端が沈んで、ひどく広く思えた。

「毎晩ではございませんが」

「なんでまた、俺を散歩に誘ったんだ」

 ぼんやりと空を仰ぐ。縁の歪んだ半月が、霞むような暗い雲に薄く覆われている。

 犀星の鼻は、雨の香りを嗅ぎ取っていた。遠くに雨雲が控えている。じきに風に乗り、流れてくるだろう。

 乱歩は答えなかった。

 よく手入れされた芝生を踏んで、美しい足取りで月下の迷路を進んでいく。

 モノクルが朧な月明かりを水面のように映す。その下に微かに透けて見える瞼が、遠くを臨むような曲線を描く。

「考えたことは、ございませんか」

 耳を擽る声と共に、雨の匂いを含む夜風が、青みがかった黒い髪を掬うように揺らして吹きすぎた。

「何をだよ」

 相槌の代わりに、そう聞いた。

 犀星を振り向く乱歩の口許に、笑みはない。その眼は何処か切なくなるほど真剣だった。


「ワタクシどもも、幾度も零れ落ちているのかもしれない。それに気付いていないだけかも」


「……」

 零れ落ちる。

 その言葉に、否が応にも思い浮かべてしまう。まだ補修室で眠っている親友の青白い寝顔。剥がれ落ちていく記憶。

 乱歩の骨ばった大きな手が闇夜を泳ぐように持ち上げられ、空に翳される。流麗な指の曲線の隙間から、頼りない月明かりが零れた。

「俺が何か忘れてるなら、教えてくれよ」

「……いいえ! ワタクシが知る限り、貴方は今の貴方ですとも」

 緩い拳を握ってかぶりを振り、乱歩は明瞭に言う。犀星にも、自分が欠落していると言われた記憶はなかった。勿論、目の前の男が深刻な喪失状態に陥ったというような記憶も。

「ワタクシが申し上げたいのは、そのようなことではないのです」

 拳から人差し指がひょこんと立ち上がる。月明かりに白く染まった指先に、いつかの指人形劇を思い出す。

 その指先が翳り、爪が、骨の隆起が姿を現す。月は雲に隠れ、雨雲が二人の頭上を覆いつつあった。

「水のようだと思ったのですよ」

 穏やかに、乱歩は告げる。

 何が水のようなのか。聞かずとも何となく悟った気がして、犀星は曇る夜空を振り仰いだ。

 まるで、手品のようだった。

 その瞬間にさあっ、と雨音が耳を打って、素早く落ちる雨粒が犀星の額と頬を濡らした。

 乱歩が指をゆっくりと下ろす。呟くような言葉は、しかし自分に向けられたものだと明らかに分かる――

「零れたものはまた巡り、私達の肩の上へ柔らかに降るでしょう。何かに似ていると思いませんか?……貴方も」

 答えず、低く笑ってみせる。頬を伝った雨粒が顎から滴る。

 ひどくひねくれた慰めの言葉だった。しかし胸の内に染みるそれもまた、雨粒に似ていると、犀星は思った。



***



 特務司書は、その任を他人任せにしなかった――つまり、朔太郎の目覚めを告げる役どころを。

「北原先生は、有碍書に潜書中だから」

 妙に言い訳めいた声音で、特務司書は言って俯く。

「その……室生先生にだけは、どうしても伝えなければと。あと数分以内に、萩原先生は目覚めるはずです」

「……」

 犀星は黙り伏し、極力睨むようになっていないよう意識しながら司書の目を見た。

 あの日、確かに自分はこの男を恨んだ。だが、それにいつまでも固執するつもりは、もう犀星にはなかった。

(水のように、か)

 胸の内で繰り返す。夜の庭園で乱歩が告げた言葉。

 記憶の中から失われた日常が、本当に影も形もなく消え去ってしまう訳ではない。自分たちが、そうはさせない。朔太郎でなくとも。他の誰であっても。

「ありがとう」

 そこまで思考を巡らせて、やっとその言葉が言えた。

「他の奴も何人か呼ぶよ。すぐに、補修室に行く」

「はい、お待ちしています」

 特務司書はわずかに笑う。その笑みが怒り狂う文豪へ媚びるような卑しいものではないことに、犀星は安堵を覚えた。

 すぐさま宿舎の部屋を出て、本館へと向かう。いつものように、南吉と乱歩は食堂にいる。朔太郎が喪失からの昏睡に陥ってからというもの、なぜかそこに件の特務司書が加わっていることもあるようだった。三人が何をしているのかを好奇心たっぷりに聞くには、そもそもその二人に声を掛けるには、少し、ここしばらくの犀星は疲れすぎていた。

 だが、朔太郎が目覚めるとなれば話は別だ。

 下駄の音に二人が振り向く。その表情はいつもより明るく見える。

「朔が」

 犀星は弾む息をいったん抑え、続けた。

「起きるってよ」

 椅子を鳴らして南吉が立ち上がる。真っ白な頬がぱっと紅潮する。

「ほんと!?良かった……」

「どうやら、間に合ったようですね」

 よくわからないことを言って乱歩が立ち上がる。南吉はその言葉に我が意を得たりとばかりに頷いて、傍らのテーブルに置かれた茶色の小さな紙袋を慌ただしく手にした。

 色々と気になるものはあったが、犀星は逸る気持ちに抗しきれず踵を返し、二人に先んじて歩き出した。食堂から補修室まではそう遠くないが、駆け出したい気持ちにすらなる。

 下駄の音が忙しなく響く。乱歩の革靴と南吉のローファーの音がそれに続く。足音は互いに高め合うように間隔を狭めていき、小走りになりかけたところでぴたりと止まる。

 補修室の戸を、犀星は開けた。

 寝台の上に横たわる朔太郎。その頬にごくわずかな赤みが戻り、死人のようだった細い手が瑞々しさを取り戻している。

 すんなりとした指が拳を固め、小さくマットへ食い込ませる。

「朔!」

 呼びかける。大股に足を速め、近づく。

「朔太郎さん」

 南吉の声。

 瞼が震える。ひたりと持ち上がる瞼の下から、藍色の瞳が存外早く現れる。

「……」

 そのまま、困惑したような沈黙が落ちた。

 朔太郎の眼が犀星を、次に南吉と乱歩を映し、最後にまた犀星へと戻る。

 転生以前の記憶を失ったわけではない。縋るような心地でそれを思い浮かべる。自分の事は分かるはずなのだ。自分の事は――


「犀」


 あっけなく、親友の声は自分の愛称を呼んだ。

 犀星は顔を歪めた。痛む涙腺を押しとどめて、瞬時に潤む鼻をみっともないほど大きく鳴らした。当然のことだと分かっていても、胸を突くような安堵を無視できない。

「おかしいな。ここはどこで……自分は、何をしていたんだっけ……」

 犀星の様子に気づいた風もなく、朔太郎は首を傾げて呟いてからきょろきょろと周囲を見回す。

 返ってこない答えに焦れるよりも早く、残酷な納得がやってきたようだった。朔太郎はふと沈んだ表情を見せ、犀星を振り仰いだ。

「犀、自分は……忘れてしまったんだね。全部」

 犀星は唇を引き結び、熱を持った目を擦って、ただ一度頷いた。

「……何か大事なことがあったはずなのに、思い出せそうにないんだ」

 小さな体が一歩前に進み出る。帽子の綿飾りをふわりと弾ませて身を乗り出し、南吉が尋ねる。

「朔太郎さん、おはよう。……ぼくのことは?」

「……。ごめんなさい」

 記憶を探るやや長い沈黙の後に、ぺこりと頭が下げられる。南吉は微笑して軽くかぶりを振った。

「それじゃあ、はじめまして。……これからよろしくね、って言いたかったんだよ」

「ワタクシのことはどうでしょう、覚えておいでで?」

 乱歩が高い背を屈め、身を乗り出す。朔太郎はゆっくりとその顔を見上げ、記憶の海から立ち上った泡が眼前で弾けたとでも言うように一度瞬きをした。

「……乱歩さん、乱歩さんだ」

「転生前の記憶は消えてないんだな」

 顔形は関係ない。魂の形が同じなら、自分たちは見誤らない。そういう様に出来ている。生前に交流のあった乱歩のことなら、間違いなく思い出せるのだ。

 何もかもがゼロになったわけじゃない。自分を奮い立たせるような心地でそう思う。此処から始めればいいのだ。自分が朔太郎の立場であっても、きっとそれを望むだろう――

 紙袋の音が聞こえる。犀星は思考を中断した。

 南吉がいそいそと抱えたそれから、黄色と青の何かが現れる。

「じゃん」

 毛糸で作られ、ビーズとフェルトでちまちまと飾られた何か。やや不格好に崩れたそれを思わず注視する。

 黄色い毛糸で編まれた狐の人形と、青い毛糸で編まれた猫の人形。

 どちらも端正とは言い難いが、愛嬌のある顔をしていた。よく見れば大雑把なミトンの形をして、手が突っ込めるようになっている。

 パペット、という言葉を思い出すのに、少し時間がかかった。狐のパペットと、猫のパペット。

 犀星がすぐに思い起こすのは、乱歩と南吉に挟まれ、食堂の椅子に所在なげに座っていた特務司書だった。手先の器用な男だ。図書館には現代の手芸の資料も豊富にある。こういった手芸を手伝って貰うには、うってつけの人選だったのだろう。

 南吉が小さな両手をそれぞれのパペットにもぞもぞと突っ込む。単純な大きさの違いのせいもあるのだろう、手袋の出来損ないの指人形よりはるかに表情豊かに見えた。

「朔太郎くん、ご気分はいかがですか」

 狐のパペットをふりふりと動かして、南吉が語り掛ける。朔太郎が骨ばった青白い手を漂うように伸ばし、猫のパペットをそっと外すように取り上げた。

 南吉は抵抗しなかった。元から差し出したのだとでも言わんばかりの表情だ。

「何かわからないけど、楽しいことを思い出せる気がする……」

 朔太郎が呟いた。そのまま青い猫のパペットに手を突っ込み、眼の位置がずれ気味の猫の顔をついと狐の方へ向ける。

「……狐さん、自分はもうすっかり元気です」

「猫さん、無理はいけませんよ」

 パペットを揺らしながら二人が至って真面目に言葉を交わす。数分前の不安を忘れるような、心和む光景。

 犀星は零れそうな笑いをこらえて、それを見守った。



***



 補修が終わった文豪の身体は、スイッチでも切り替えたかのように健全になる。朔太郎の頼りない痩躯はさほど健康そうにも見えないが、それでも動く上では何ら支障はないようだった。

 例の食堂の席。ストーブを囲んで椅子に座る。差し出されたいつかの指人形を見て朔太郎は困惑した様な沈黙を落とし、それからわずかに口元を綻ばせた。

「可愛いね」

「貴方が作ったのですよ」

 乱歩が言い聞かせるような優しい声音で告げる。続いて南吉も片手にはめた狐のパペットの口許を膝に置いたごんの耳元に近付けて、

「ごんさん、ごんさん、けっこういい出来ではないですか?」

と、耳打ちするような声音で言った。

「ほら、そこは頷く」 

 犀星は笑い交じりの口調でごんに言い聞かせ、その柔らかい頭を掴んでぐいと押しこんだ。ひしゃげるように頷かされて南吉の膝の上でじわじわと元の姿勢に戻るごんを見守ってから、朔太郎が赤い指人形に視線を移す。

「これで、……自分は、何をするって言ってたんだっけ……」

「劇だよ、指人形劇」

「それらしく言えば、ギニョルというものになりましょうか。それの、お話を作って下さると」

 犀星の言葉を乱歩が補足する。ぼんやりと考えている朔太郎に、南吉が声を掛ける。

「すごく、楽しみにしてたよ」

「……」

 困惑の色が朔太郎の目に浮かぶ。指人形をそっと南吉の膝の上、ごんの背中に押し付けて手を空け、軽く振った頭を慎重に抱え込む。

「思い出せない」

「思い出せるなんて思っちゃいねえって」

 犀星が宥めるように話しかけるのも、朔太郎の耳には入らないようだった。ひどく落ち込んだ声音で、朔太郎が続ける。

「お話……考えることなんて、最初から出来なかったんじゃないかな……」

「朔、お前何を……」

 ぐす、と鼻を鳴らして、陰気な泣き顔が覗く。

「出来もしないこと請け負って、戦いで大怪我して、そのことも思い出せないなんて……やっぱり自分は詩以外とりえのないダメダメの超絶ダメ人間なんだ……」

「だめだめのちょうぜつだめにんげんん?」

 素っ頓狂な声で犀星はその言葉を繰り返す。落胆している朔太郎など珍しくもないが、成り行きに任せていい時でないのは分かっていた。勢いよく腰を上げて邪魔な椅子を傍らに押しやり、朔太郎へと近づく。

「だって、犀もそう思うだろ……」

「思ってない!」

 ほぼ一喝するように、否定する。

「お前は、……頑張って指人形も作ったし、なにをやるか真剣に考えだってしたはずなんだ。忘れちまった昔のお前のこと、そんな風に言ってやるなよ!」

「……」

 朔太郎は頭を抱える手を下ろし、涙を拭った。藍色の眼をうっすらと濡らしたままごんの背中に横たわる指人形を眺め、テーブルに置かれた青いパペットへ視線を転じる。

 青い毛糸で編まれた猫のパペットだ。水色のフェルトの耳が縫い付けられている。

「だって、こんなに立派な人形まで、用意してくれてたのに」

 まだその声は暗い。鼻をぐすぐすと鳴らし始めている。

 南吉が、いつになく真剣な表情で眦を決する。お、と思う暇もなく、ごんを哀れなほど両掌で押し潰しながら決然と身を乗り出してくる南吉に、朔太郎が気押されたように後退したのが見えた。

「今回はぼくが、おはなしを作るよ」

「それは、やっぱり」

 高らかな宣言に朔太郎が目を伏せる。殆ど泣きそうな声で、朔太郎が続ける。

「自分が、駄目だから……」

「違うよ!」

 南吉の声は真剣そのものだ。淡い色の瞳の奥に透明な熱すら宿して、朔太郎を見据える。

「役をやってもらわなきゃいけないから。舞台なら、役者は大事でしょう」

 ね、と乱歩を振り返り、同意を求める。乱歩は胸に手を当ててゆっくりと大きな仕草で頷き、口許に謎めいた笑みを過らせた。

「今回は、はまり役を用意しておりますからね」

「……」

 乱歩の器用そうな大きな手が、机の上へと伸びる。青い猫のパペットを取りざま、マントをはたりと閃かせて朔太郎の眼前に跪く。

「お手をどうぞ」

 パペットの手首が広げられる。朔太郎は僅かな逡巡の後、そこへ手をするりと突っ込んだ。

 再び手にはめた、青い猫のパペット。自分と向き合わせるように、手首を返す。

 ビーズの眼と向き合う朔太郎に、犀星は小さく呟いた。

「少し、似てるな」

 朔太郎の肩がぴくりと揺れる。それでもしばらく猫と視線を外さないまま、ぎこちない沈黙を落とし続ける。

 その細い顎が、小さく引かれた。

「やるよ。……やる」

 朔太郎は顔を上げ、口端を震え気味に細かく吊り上げて、泣き笑いの気配が拭えない笑みを浮かべる。

「とても、楽しみだよ。劇のお話も、みんなとやることも」

 押し殺させてしまったかもしれない。と、犀星は案じる。

 失われた記憶への不安。自分の約束を果たせないことへの屈辱。理不尽さへの怒り。諸々、そういったものを。

 だが、それでも、この方がいい。

 負の感情に浸って揺蕩うより、いつかと同じ楽しい心地に浸れた方がずっといい。

 例え、それが過去に対する不誠実な欺瞞であったとしても――自分たちの過去は、すでに零れてしまっているのだから。

 零れたものは巡り、また降り注いでくる――

 いつか乱歩が言った言葉のように楽観的に考えることは、すぐには出来そうもなかった。だが、その言葉が真に腑に落ちるまでも、そう長くはないのだろう。

 青い猫のパペットがふりふりと頭を上下に揺らす。ひげもつけた方がいいかもしれないなと、犀星はふと思った。



***



 狐は積み木を積み上げる。

 積み上げながら、高らかに歌う。

 自分の積み木が何でも作ってしまうこと、いつまでもその世界の中で遊んでいられること。

 しかし、その積み木にもう飽きてしまったことを。


 南吉の手にはめられた黄色い狐がくるりと回り、積み木で作られた家や木を倒してしまう。

 ぐちゃぐちゃに散らかった舞台で、南吉の操る狐は満足げなひとりごとを高らかに呟いて背を向ける。


「空襲並みの偉大な破壊だな。だが、人を堕落させきるにゃ足りねえと」

 観客の一人が尊大に言った。

「さっきの歌は、スティーブンスンですね。新美くんのアレンジが入るととても抒情的だ」

 観客の一人が口ひげを撫でつけ、生徒を評価するような口調で言った。

「遅刻ちこくっ……朔先生の出番はまだっスよね!?」

 観客の一人が息を切らして駆けつけ、尋ねた。


 食堂には手の空いた文豪たちが集められている。そう多い観客ではないが、木箱を用いた急造の舞台に注がれる眼差しの熱量はきっと、その辺りの小劇場の比ではない。

 犀星も観客の一人だった。手伝えることがあるならと申し出ようともしたが、今は南吉と乱歩に任せた方がいいように思えたのだ。自分がするべきは朔太郎の日々の面倒を見ること、そして良い観客となること。

 朔太郎の表情は日に日に精彩を取り戻していた。記憶を取り戻したわけではない。新たな日々の積み重ねが、朔太郎の絶望を薄れさせていったのだ。


 横合いから伸びる手が積み木を片付ける。

 ぎこちなくも丁寧に描かれた海辺の町の絵が、背景に広げられる。

 狐は不安げに辺りを見回す。そこは自分が崩したはずの、積み木の町だったのだ。

 困惑しながら建物の一つ一つを確かめる狐。そこへ近寄る妖しい白い影。

 白いシルクハットを被ったひょろりとした男が、黒い眼をひっそりと煌かせて優雅なお辞儀を一つした。

 お待ち申し上げておりましたよ。

 掛けられる言葉の意味が分からず、狐は混乱して逃げ出してしまう――


 舞台端に逃げる南吉の狐を視線で追いかけるように体を巡らせ、乱歩が指人形と共に微かな苦笑を零すのが聞こえた。


「間に合ったようだね」

 食堂の入り口から新たに声が掛かった。

 犀星は振り向いた。声の通りの姿がそこにある。無暗な威風を払って悠然と歩を進めてくる白秋のために椅子を引き寄せ、自分の隣に席を用意する。

「白さん、こっちにどうぞ」

「ああ、悪いね」

 欠片も悪いとは思っていなさそうな口ぶりで言って、白秋が腰を下ろす。舞台では南吉の黄色い狐が、逃げても逃げても続く積み木の町の街並みに恐れおののいている様子が演出されている。

 漱石の指摘の通り、これは南吉が昔訳した詩をアレンジしたものだ。そこに乱歩のアレンジが加わり、少し異世界探訪めいた怪奇の味付けが足されている。

「ううん」

 舞台を眺めて考え込むように小さく首を傾げ、白秋は優雅な仕草で自分の顎をそろりと摩ってみせてくる。舞台より僕を見た方が楽しくないかい――それくらいのことは言いそうだ。犀星の勝手な想像など露知らず、美しい藤色の瞳に文豪たちの児戯を映す。


 おわあ。


 どこか繊細そうな、頼りない声が響く。

 辺りを見回す狐のもとへ、青い猫がゆっくりと歩み寄ってくる。


 こんばんは、この街は幸福の影で出来ているのですよ、狐さん。

 ど、どういうことです、青い猫さん。


 狐は訳が分からず困惑から抜け出せないでいる。

 青猫は密やかな仕草で狐の周りを回り、ささやくような告げるような、なんともいえない声音を以て、この街の恐るべき秘密を話し始める――


 白秋は眼前の光景に満足しているようだ。人形たちの織り成す物語にというよりは、南吉と朔太郎が楽しそうにしているのが嬉しいように見えた。椅子の背もたれに身を預けてふ、と楽し気に吐息し、犀星へ視線をやる。

「良いと思うけど、詩的じゃないね」

 詩。朔太郎の心の拠り所。犀星の心の故郷。白秋にとっては何だったのだろう、何でもできる男の、その「何でも」の一つだけに留まってはいなかったのだろうが。

 つらつらと考えながら、それでも犀星の反応は素早かった。

 はっきりと首を横に振る。白秋が面白がるような笑みを零す。

「白さん、考えてもみてくださいよ」

「へえ?」

 その心は、と言わんばかりの問いにも、さいせいはほとんどひねりを加えずに直球で返す。

「こうやってみんなで和やかに即興劇を見るっていうのは、なかなか詩的じゃないですか?」

「……君」

 紫の眼を僅かに細め、少しじっとりした声音で白秋が追及してくる。

「適当言ってないかい?」

「言ってないですよ」

 本心だった。

 舞台を見る。青猫と狐は手を結び、積み木の町を駆けまわって探し物を始める。積み木の町をただの積み木に戻すのに必要な宝物だ。

 崩れた記憶は、積み木のように積み上げる訳にはいかない。積み上げても、編み直しても、それはいつかのものとは違う記憶だ。

 それなら、欠け落ちてしまった記憶に意味はなかったのか――

(そんなはずがない)

 胸の内できっぱりと断言し、犀星は白秋を見た。

 笑う。自分の笑顔がどう映っているのかは気になったが、自分としてはとにかく勝気に、楽し気に。


「零れちまっても、確かにここにあったんだって。いつかそう思えるのは、絶対に大事だから」


「……ああ」

 白秋はやや長すぎる沈黙のあと、何かに思い至ったように微笑んだ。呟くような声をその答えにして椅子に座り直し、舞台の方へ視線を戻す。

「そうだね、よく覚えておくよ」

 横目に寄越される視線。ウィンクめいていた。

「ここにいる誰かと、自分のために。そういうことだろう?」

「そういうことです」

 力強く、犀星は答える。

 青猫がまた一つ、不気味に、物悲しく、おわあ、と鳴いた。

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