ありもしなかった昨日のはなし

 雲雀はいいね――と、その男は言った。

「……うん?」

 瓢を持っていない手が寂しい。香しい酒精を胃の腑に運んでいない喉が空しい。酒に濡れていない唇が物足りない。落ち着かない心地で見上げていた春先の淡い青空は、不意に掛けられた言葉と繋がらなかった。牧水はさほど意味を持たないような半端な声を漏らし、隣へと首を巡らせた。

 帝國図書館の庭園。イギリス式の作りであずまややベンチなども用意されてはいるが、牧水とその男が座っているのは図書館本館の側面に設けられたテラス席だ。ガーデンチェアの背もたれにだらりと背を預けている牧水、木製の四本足のスツールの上で器用に膝を抱えて座っているその男。

 座り方にも人間は出る。転生したときの姿にも出るようにか。皮肉めいた思いを少しだけ胸中に過らせてから、牧水はその、ひどく繊細な横顔を持つ黒髪の豊かな男へ改めて言葉を返した。

「悪いな、何の話だったっけか」

「雲雀は、いいねって」

 遠くで時化る海のような、不穏で不安定な青を湛えたその瞳が空を振り仰ぐ。

 牧水は朔太郎の言葉に、というよりは視線につられるように上を見た。鳥の小さな影が横切り、揚げ雲雀特有の甲高い鳴き声を響かせる。どこか危うい緊張感を常に纏う朔太郎の横顔が、微かに緩むのが感じ取れた。

「ああ、鳴いてら。よく気付いたなあ」

 ありふれた風情のある光景だった。青空に紛れてしまうようなその黒点へ、朔太郎の白く細い手が泳ぐように伸びる。指先が何かを摘まみ取るようにひくりと動く。投げやりに着込んだ着物の袖がよれたように捲れたままだ。

 喉仏が見える。手首の湾曲が分かる。恐ろしいほど痩せた肉体だ。だが、衰えてはいない。開いたばかりの花びらのような瑞々しさが、薄く白い皮膚の下に詰まっている。

 曖昧に、想像する。柔い皮膚を呆気なく歯で突き破る感触。薄い肉の冷たい歯ごたえ。百合の花弁に噛みついた時のように――

「食べてしまいたい」

 ぎくりとした。

 牧水は朔太郎へぎこちなく、落ち着きのない視線をやった。朔太郎は微笑とも言えないほど僅かに口許を緩め、牧水の内心を見透かしたような言葉の続きを、恐らくは全く他意なく無邪気に口にする。

「あの空の色を、盗んでしまえる気がするから」

「食ったら、ってことか?……その、雲雀を」

 分かり切ったことを、わざわざ付け足していた。疚しい心地のせいだったかもしれない。

 朔太郎はごく素朴に一度頷き、疲れてきたらしい手をぱたんと子供じみた唐突さで下ろす。袖が捲れたまま、薄い羽織の中へ半端に引っ込んだ。

 着崩れた羽織の下から、留められる限りのボタンを全て留めた長袖のシャツと皺だらけになった着物に包まれた、鋭さを感じるほどに薄い肩が覗く。その肩は、小鳥の雨覆に似ている。はっとするほど繊細で神聖な、短い羽根の行儀よく並ぶ、翼の裏側。

 この男も雲雀と同じだ。いま心地良く春の空を飛んでいる雲雀のように、この男も想像などしていない。自分に向けられるある種の甘美で、恐ろしい眼差しを。

 当然だと、牧水は得心していた。だからこそ、その眼差しを向けられるに値するのだ。無垢ゆえの価値というものが、世界には少なからず存在する。それはかつて、歌人である牧水も愛していたものだ。

 朔太郎が身を揺する。幾度か揺すったところで、漸くその重みを思い出したかのように丸椅子が小さく鳴った。その音をきっかけにしたように、問いを重ねてくる。

「お酒のアテになると思う?雲雀」

「味付け次第かねえ」

 笑いと共に、牧水は答えた。雲雀は去り、空の色はますます濃くなり、風が強くなってくる。金属製のガーデンチェアの冷たさが、今更になって肌から肉へと沁み込んでくる。

 腰を上げる。ああ、と、どこか寂しげな声を、朔太郎が上げるのが聞こえた。

「俺はそろそろ引っ込むけどな。おめぇさんも、……あんまり猫みたいこと言っててもなあ」

 顔の横に右手を挙げ、猫の手を象るように緩く五指を丸めてみせる。

「本物の猫になっちまっても知らねえぞ」

「……猫みたいだって、本当に思ってる訳じゃなさそうだよ」

 拗ねたようでもなく、ごく真面目に返される。猫は不味いらしいからな、と返すのを堪えて適当な笑いをその場の答えにしておくと、朔太郎は些か面食らったような表情を見せる。

 そういえば、こういう誤魔化しが効かない男なのだった。



***



 外出の申請をした。司書は書類仕事の手を止めて牧水の傍へ近寄り、たっぷり三分ほど掛けてその周りをうろついては鼻をすんすんと鳴らして胡乱な匂いや気配などが漂っていないかを確認した。

「んん、いいでしょう」

 どこか険悪な雰囲気のあるフォルムの眼鏡の下で、塗りつぶしたかのように濃淡に乏しい黒い眼を厳しく眇め、司書は冷たく言い放つ。

「外出のためにお酒も我慢していたようですからね」

「有難いね」

 牧水たちをこの世にもう一度転生させた錬金術師は、今もこうして牧水たちを使役している。横暴な女ではないが、それなりに厳格だ。つまり、酔漢が町中を闊歩してこの世にいないはずの文豪の名を大声で連呼する事態をよしとしない程度には。

 司書は図書館の貸し出し記録のようなものを引っ張り出し、牧水の名、何やら得体の知れない番号に続いて日付と時刻を書き込み始める。ペンだこの目立つ骨っぽい指を眺めて、牧水は自分の喉仏をちょいと摘まむように指先で触れた。

「暴れるような酒は飲まねえつもりなんだがなあ」

「イメージの問題です」

 素っ気ない。牧水はバンダナの下に指を軽く突っ込んで生え際を掻きながら、出来る限り真剣にならないよう細心の注意を払った口調で言った。

「酒呑まねえほうが、俺ぁ不安定になりやすいみたいで――」

 朔太郎の喉を思い出した。指を思い出した。肩を思い出した。歯が疼くような感触も、抑え難い渇きも、一緒に。

 ――酒精切れが見せた妄想だ。

 そう思った方が都合が良い。

 司書がぴたりと手を止めたのは、単純に書き込みが終わったからのようだった。外出記録を傍に押しやって引き出しを開け、『館書図國帝』とぎこちない書体で鏤刻された懐中時計を取り出しながら、にこりともせずに言う。

「もっと我慢すれば、その不安定とやらもどうにかなります」

「なるかねえ」

「『それは大変なことですね、さあさあお酒をがぶがぶ飲んでください、好きなだけ外出も許可しましょう』と、私が言うとでも思っていたんですか?」

 司書が懐中時計を掌に載せ、ずいと突き出す。作務衣の何処に仕舞おうかと迷って手を出しあぐねていると、一旦引っ込められたそれに魔法のように素早い動きでチェーンを取り付けてもう一度差し出してくる。クリップもなく、ただ輪になったのみの、ネックレスのような細身の銀鎖。首に掛けろということらしい。

 チェーンを手に取り、釣りでもしているようにゆっくりと引き上げる。司書の掌から離れた懐中時計はずしりと重い。

「言ってくれたら、惚れちまうかもよ」

「若山氏はお酒に恋をしているんでしょう、不実なことは言わないのが身の為です」

 首に掛けた時計を懐に隠す。こうすれば、確かに落とす心配はなさそうに思えた。

「外出を許可します。諸注意事項は外出時規則に準じます。ヒトナナサンマルまでに帰ってくること」

「ひと、なな……」

「復唱」

「はいはい。ヒトナナサンマルまでに帰ってきますよ」

 17時30分。その数字をようやく脳裏に呼び起こして、復唱を終えた気になる。よし、と司書はまるきり軍人のような事を言ってそれきり顔を伏せ、万年筆を手にして書類仕事の続きを始めた。何をそんなに書くことがあるのだろうと日頃の自分たちの活動を思い起こして不審な心地を呼び起こすが、これ以上何か話して埃を出されてもたまらない。

 回れ右をして、図書館のエントランスへと向かう。秒針の音は思っていたより控えめで、少し心地よかった。



***



 牧水は新しい身体がそれなりに気に入っていた。何よりも、壊れていない。痛くない。軋まない。それがどんなに有難いことか、こうして道を歩けば歩くほどによく分かった。

 足が長く、歩幅が広い。筋肉もそれなりに発達しているようで、散歩が捗った。今度は壊さないように扱わなければならない。それがどういうことなのかは、今ひとつわかっていなかったが。

 坂道の遊歩道を苦もなく抜けて、展望台へ出る。よく整備されてはいるが、人気のない高台。渡る風と共に一望できる西方に、海が青い線を刷いている。傾き始めた日差しで、それももうすぐ金に染まると知れた。

 海は良い。眺めているだけで飽きない。例え、遠い距離に隔てられているとしても。いるとしてもだ、と、自分に言い聞かせる。わざわざこの距離を歩いて、砂浜を踏みに行くのは少し億劫な気がしたのだ。

 懐から件の時計を取り出す。帰る時間にはまだ早い。座る場所を探して視線を彷徨わせる。

 展望台の、石造りの凹凸のない床。作りつけられたベンチもまた、錆色の本石造りだ。上面だけ凹凸を鏡のように削り落とした、ぼこぼこした直方体の――

「あっ」

 その声が耳朶を叩くより先に、視線が合っていた。

 牧水はきょとんと一つ瞬きをして、その間抜けた声の主を見た。少女だ。件のベンチに座っている。真っ黒な眼と髪。さほど長くもない髪に一房だけ編み込みを混ぜているのはかなり洒落めかして見えたが、どことなく地味な印象が拭えない。その丸っこい眼と鼻のせいだろう。

 図書館で言えば、誰好みかな……などと益体もないことを考えている内に、少女の表情はめまぐるしく変わっていた。自分の行動に浮かべる驚愕、何と続けたものかという焦燥、何か言っていいものかという懊悩、そして――

 覚悟の面持ちに変わった辺りで、やんわりと水を向けてやることにする。

「よーう。どこかで会ったか?」

「あっ、いえ、そういう訳ではないんですがっ……」

 あわあわと口を開閉して少女はしばらく思い悩み、そしていくばくかの落ち着きを無理矢理取り戻した様子で話しかけてきた。

「その、時計」

「これか?」

 手にしたままの銀時計を見下ろす。

「何度か、見たことが……でも、いつも、違う人だったんです。みんな、少し変わった、不思議な雰囲気の……」

「……ああ」

 文豪たちは通例として、図書館を出る際常にこの時計を持たされる。単に時間を守らせるためではないのだろうということは薄らと見当がついた。何か呪術的な仕掛けがあるのだろうが、門限を破ってまでそれを確かめる気は起きない。

 図書館からの散歩道としては少し歩くが、ここの景色は見るに値する。外出時に立ち寄るものも多かったのだろう。牧水にとっては不思議がるような話でもなかった。

「同僚なんだよ、そいつら」

「同僚?」

 何のお仕事、と聞かれたら困るな――と、そこまでは知恵が働いた。牧水はすかさず歯を見せて少女に笑いかけ、嫌味にならない程度の押しつけがましさを以てベンチの隣へそそくさと腰掛ける。

「わ」

「そんなにあいつらを見かけてるってことは、ここにはよく来んのか?お嬢さん」

「ここ、……良い景色だから、その」

 少女は、恥ずかしそうに顔を伏せた。

「詩を、書けそうな気持になるんです」

「詩か」

 そういった魂を引き付ける場所なのだろうか、と、何の変哲もない展望台を見回す。時としてその何の変哲もなさにも見出されるのが詩情というものなのだろう。

「まだ、下手くそで、恥ずかしくて……あ、あのっ、見せろって言っても見せませんからね!」

「そりゃ残念だ」

 大袈裟に手を振って、多分に道化た調子で言ったのだろう少女に、牧水は本心から言った。少女の作ったような含羞の表情がすっと引いて、少し間の抜けたぽかんとしたものになる。

 牧水は酒を飲む代わりに顎を軽くさすり、淡々と言った。

「同じ景色を見て出てくる詩ってのには、やっぱり興味が湧くだろう」

「……ああ、ええと」

 数秒前の自分と似た感じの躊躇いが感じられる。牧水は口元を綻ばせて名乗った。

「牧水だ」

「牧水さんも、詩を書かれるんですか?」

「ちょっとだけな」

 先刻の仕草を真似る。見せろと言っても見せませんからね、という、例のそれだ。すぐに伝わったらしく、少女はけらけら笑ってそれ以上の追及をしなかった。

 結局詩の話も、景色の話もしなかった。当たり障りのない雑談を楽しんで懐中時計を懐に仕舞い直し、牧水は展望台に背を向けて立ち去ることにした。



***



 有碍書。

 そう名付けられた本から仲間たちが帰還してくる瞬間を待つのは、いつも楽な気分ではない。例の女司書は文豪たちを失うような采配など絶対にしないと約束しているしそれは常に守られてきたのだが、それでも黒く染まった紙の中で仲間たちが命の遣り取りをしているというのは重い心地を誘う。

 いっそ、自分が戦った方が遥かにましなほどに。と、牧水は苦々しい心地で思った。

 今回の有碍書潜書には朔太郎が参加していた。致命的すれすれまでに侵蝕が進んだ状態で帰還したらしい。喪失――潜書を強行していれば、存在ごと消え失せていたという段階だ。

 補修室に駆け付けたのは、決して居ても立っても居られないというような情熱の為ではなかった。友人として、様子を見に行かなければならないと思っていた。義務めいたものすら漂うそれに、自分でも少し嫌気が差した。

(行きたくないのか?俺は)

 勘は良さそうな男だ。こんな自分の不誠実な気持ちにはすぐに気づくだろう。それは喪失状態に更に追い討ちをかけることになりはすまいか。益体もないことをうつうつと考えながら、寝台のカーテンに指を掛けて少しだけ捲り、片眼を覗かせる。

「よお、見舞いに――」

 言い終えるのすら待たず、白く細い手がシーツの海から持ち上がって勢い良く伸びた。骨っぽいくせに妙に滑らかでしっとりとした指が牧水の手首に意地汚いほどしっかりと回り、引きずり込むほどの勢いで引っ張る。

「とと」

 間抜けな声を漏らして牧水はよろめいた。もう片手を寝台に突いて自分の身体を支えるその仕草にも、何かを感じる様子もない。寝台の上の朔太郎は茫洋とした青い瞳に涙を薄く盛り上げて、自分が捕えた牧水の手を縋るように見つめている。

 薄い唇がひくりと震えた。渇いた肉体が水を求めるような震えだった。

「行かないで」

 色の薄い舌先が、小さな口腔に溜まった桃色の闇の中に覗く。

「来たばっかりだろ?」

「行かないで……」

 朔太郎が空いた手で目を擦る。雲雀の飛ぶ空の色より嵐の海の色に似た双眸は、ぐちゃぐちゃに荒れ狂い込み上げる感情でまさに時化のような不安定な輝きを宿している。薄い肩を震わせて言葉にならない声を何度か続けざまに漏らし、そのまま何も言わずに鼻をすすりあげる。繰り返される呼吸は一向に収まらず、一息の間に短い嗚咽を何度も繰り返していた。

 何があった、とは聞かないことにした。無駄な問いだ。自分も喪失状態を経験したことはある。

 空いた手でティッシュの箱でも探してやろうとするが、別のことをしようとする気配に敏感に反応して掴んだ手を抱き締めるほど引き寄せてくるのだからどうしようもない。分かった分かった、と宥めるように呼びかけて、その白い指がさらに青ざめるほどに籠められた力が緩むのを待つしかなかった。

 ただでさえ口下手な男だ。喪失の危機の中で何を見たのかなど語るはずもない。それに何を感じ、どう思ったかも。

 ひどく緩慢に指が緩んでいく。牧水を解放したというよりは、単純に体力の限界が来たと見た方が正しいのだろう。触れている肌から震えが伝わる。ふわりと開いた指から手首が引き抜かれるのをそのままに、朔太郎は涙を纏ったままの眼で牧水の顔を決然と見上げる。

「そこに、いて」

 その指の消え入ってしまいそうなか弱さを裏切る、断定の口調だった。答えを待たずに空を泳いだ手は、今度は牧水の作務衣の端を手探りに掴んで白い指にその生地を絡め付けてしまう。

「おいおい……」

「いて」

「……」

 いなくなるとは言っていないのに。思った言葉は口に出さずにおいた。いなくなる、という単純な言葉にすら過剰な悲嘆を示すこの男の姿はありありと想像できたからだ。

 黙って頷くのが一番誠実な反応だと言えた。それ以上は求められていなかった。最初から。そう思えば少し気が楽になった。

 朔太郎が空いた左手を自分の喉元へ伸ばす。詰まった襟を外そうとしているらしく、細い指先がかりかりと清潔な生地を引っ掻く。指はなかなかボタンに引っかからず、不器用に爪を立てるだけに終始する。

 次第にその動きも緩慢になる。眠気に襲われているらしい。頼りない瞳が茫洋と霞んで牧水を見上げる。

「駄目だからね。離れちゃ」

「分かってますよ」

 多分に道化た調子で言うが、朔太郎に伝わるわけもなかった。ごくごく朴直な視線と共に稚い頷きが返って来る。繊手がシーツに吸い込まれるように落ち、寝息が続いた。雪の中で力尽きた白い獣のように、その手は冷え冷えと生気を失い、そして神聖な気配を仄かに漂わせる。

 外してやろうか、と聞くのを忘れていた。シャツのボタンに目を走らせる。勝手に外したところで怒るような男ではないが、なぜかひどく気が咎める。手は出さずにおくことにした。

 詰襟のシャツから狭く覗く骨張った喉。ひんやりと冷たそうな質感の手。気が付けば食い入るように見つめている。喉が渇きを覚えたように不随意に動く。

 浸蝕者の攻撃による肉体への侵蝕は、外傷の形では現れない。目を凝らせば着崩れた着衣の下に、白い肌の上に、黒い文字がわらわらと蟠っているのが見える。その文字の一つ一つが自分たちの血肉なのだ。文字の表出が止まらなければ、転生した肉体は解れるように消え失せるという。司書のあの生真面目な口調で聞いた限りではさほど実感のない話だが、それなりの危機感を持って受け止めている事実でもあった。

 少しひやひやしながら眺めている内にも、朔太郎の肌の上の文字は目に見えて数を減じていく。侵蝕が沈静すれば後は急激な変化による体力の消耗を癒すために、泥のような眠りが続くはずだ。規則正しく上下する哀れなほど薄い胸。骨ばった体格、その骨すら歯で割れそうなほどに脆く感じられる。

 見ようによっては、詩人の肉体は詩情そのものなのだ。灰色に溶け消える朔太郎の文字を眺めながら、牧水はあてどない考えを巡らせた。血の代わりに文字を表出させる。裂かれた肉の代わりに言葉を覗かせる。自分たちの肉体は、そうして出来ている――

「そのせいかな」

 声に出して、呟いた。

 ここ数日、酒を口にしていない。酒から得ていた詩情、歌人である牧水の場合は歌心というようなものを、本能的に朔太郎の肉体に求めているのだとすれば、この理不尽な衝動にも辻褄が通る気がした。

 辻褄が通るからと言って、身を任せる訳にも行かない。滑らかな頬や平たく薄い腹に食い入りそうな視線を無理矢理引きはがす。食糧では満たされない飢えが頭蓋の奥でちりちりとひりつく。息がいつの間にか上がりかけているのに、薄らと気付いた。

 寝台の傍を離れるという考えは不思議と思い浮かばなかった。瞼を下ろし、きつく目を閉じて耐える姿勢になる。足りなけれは腕に爪でも立てればいい。深く深く、仮初の肉が裂けるまで、その奥の文字が覗くまで――

 物音。はっと目を開ける牧水を待たず、気だるげな声が横合いから話しかけてきた。

「見舞いだってなあ、おっさん」

 振り向く。補修室の入り口にその男は立っている。裏地に洒落た模様を華やかにあしらったケープ、揃いの丸鍔の帽子。狭い肩を怒らせて腰に両手を置き、大股にずかずかとこちらへ近寄ってくる。

「おめぇさんも、心配になって来たのか?」

「まっさか、だろ」

 確かに、まさかかもしれなかった。堂々たる足取りで隣へ至った中也が椅子を引き寄せて居丈高に座るのを眺め、牧水は口元を歪めてその答えを肯定した。

 中也の細い目が眇められる。表情筋の動きに従って下睫毛が僅かに起こり、白い肌に細かな影を落とした。

「オレぁあんたに用があって来たんだよ」

 あまり温かな口調ではない。この男はそういうものなのかもしれないが、それにしてもどこか身構えるような響きがあった。牧水は寝台に手を突いて軽く寄り掛かるような姿勢で、中也に向き直る。

「おめぇさんと分けあいたいようないい酒、か?ちょっと手元にゃ入ってねえなあ」

「そうだよ、その酒の話だ」

 笑い交じりの言葉を真剣に返される。その手応えは朔太郎とまるで変わらないが、それを言ったら怒りそうな気がした。

「一体、何のために酒を我慢するなんて考えが出てきたんだ?」

「……」

 中也の言葉は率直だった。

 普通に考えれば、間を持たせるような話題でもない。鼻白んでいる自分の方が滑稽だ。

 それでも、牧水は困惑した。何と言えばよいのかと、珍しく真剣に悩むほどに。

「外出の規則が厳しくなったろ……酔っ払いは図書館の中にいろって奴だ」

 言い淀みがちに言う。中也の答えは素早かった。

「いりゃあいいじゃねえか、図書館によ」

「まあ、そうなんだがなあ」

 笑いかけてみせる。笑いは返ってこなかった。想像していた以上に真剣な雰囲気がある相手に、少したじろぐ――たかが自分の酒だ。何がこの男を真面目にさせているのか、理解が及ばない部分があった。

「別に酒を飲めって言ってる訳じゃねえんだけどぉ」

「言ってんじゃねえの?」

 率直に切り返す。中也の細い眉ががきりきりと逆立ち、下瞼の線が僅かに濃くなる。

「それに何を求めてんだ、ってのを聞きてえ訳だよ。なんか不自然にしか見えねえぜ」

「……散歩がしたくてな」

「本気か?」

 真剣な調子を変えず、尋ねてくる。牧水は緩く歯を噛み締め、苦笑と言える表情を作った。もうそれで誤魔化せるとは、思わないことにした。

「本気で言ってるようにも見えねえな。なあ、何かあったのか?」

「何もねえさ、ただ」

「ただ?」

 おめえさん、何を怒ってるんだ――

 言いかけて、やめた。怒らせるだけだという気がした。代わりに続きを口にする。

「戻れるかもしれないと思ってたんだ」

「あん?」

 口を半端に開いて、中也が困惑したような音を漏らす。牧水は自分の口から出た言葉にこじつける言葉を探して、暫く思案した。

 結果として、沈黙が落ちる。朔太郎の寝息だけが、耳に届く。三度ほどゆっくりとそれを聞いたところで、牧水はためらいがちに口を開く。

「……前の俺みたいでもなく、今の俺でもなく……もっと、こう……真っ当な。考えたことはねえか?」

 中也なりに誠実に考え、そして答えに窮したらしい。金色の髪を補修室の無機質な空気の中に緩く振りまいて否定を返してくる。牧水はそうか、と墨が滲むように呻き、続けた。

「自分の事も誰かの事も、壊したり損なったりしねえ方法で……自分でいられるような。そういう時に、戻れるかもしれないと思ったんだよ」

「戻れるったって」

 ついに中也の眉間に皺が寄る。

「そんな時なんか、あんたに――いや、俺たちにそもそもあったのかよ?」

「……」

 予測はしていた指摘だった。自分にも幾度も繰り返した類だ。自分は何処に戻ろうとしているのか、その場所は本当にあるのか――

 牧水は肩を震わせた。笑いに見えていればと願った。

「なかったかもなあ」

 手を突いた寝台が音高く軋んだ。朔太郎が小さく声を漏らして寝返りを打つ。牧水はそっと手を引っ込め、寄り掛からずに立ちながら諦めめいた心地で言った。

「ああ、なかったよ」

 ありもしない日に、なぜ戻りたくなるのか。自分はそんなにも恵まれていないのか。満足していないのか。そんなはずがない。そんなはずが。

 喧しく己を責め続ける、胸の内に巣食う小さく甲高い声の騒がしい何かを黙らせるように、固めた拳を胸に押し付ける。そのまま立ち去ろうとして寝台の上の朔太郎を見、諦めた。

「あんたはずっとマシな方だと思ってたけどぉ……」

 中也は眠る朔太郎に構う様子もない。寝台に肘を突き、掌で柔らかな頬を押し潰す。

 視線がその頬に遊ぶ。菓子じみた甘い質感。そこに続く、作り物めいた柔らかな色合いの唇。そして、繊細そうな滑らかな曲線を描く鼻。歯が疼く。喉が文字を求めて、牡蠣殻のように渇き、鳴りそうになる。

 堪えた。壁に背を預け、出来うる限り悩みのない仕草で腕組みをする。それをごく呑気な眼差しで見送り、中也は続ける。

「色々考えるもんだな」

「色々考えてんだよ」

 瞼を軽く伏せて埋められない飢えを思考から締め出し、牧水はその言葉を噛み締めるように漏らした。



***



 それでも、酒を飲まずに次の日を迎えた。

 司書は忙しいらしく、今度は小言すら言わずに時計を渡してきた。時計の重みも秒針の音も、いつもと変わり映えはしない。懐に銀メッキの重みを抱き、帝國図書館を後にする。

 舗装された散歩道から高台へと、先日と同じように逸れる。人とすれ違うことはなかった。遠くに海が青く煌めき、鳶の広い翼が存外近くで旋回しているのが視界の端に映る。

 甲高い鳴き声が響く青空を背景に、少女が冷たいベンチから腰を上げて牧水を迎えた。

「牧水さん。また、お会いしましたね!」

「元気そうで何より」

 待っててくれたのか、とは、聞かないことにした。もしそうだとしたら、何か少しだけ余計な重みを背負うことになると思ったのだ。幸い、少女は恩着せがましく言葉をねだる様子もなく、ただベンチにとすんと腰を下ろして牧水が並ぶのを待つ。

 問題なく、それに倣った。少女は嬉しそうに真珠色の歯を覗かせて笑い、膝の上に抱えたスケッチブックを取り上げて示して見せる。

「絵も描くのか」

「いえ。見るのは好きですけど」

 言いながら少女はスケッチブックの枯茶の表紙をぱたりと開く。白い紙の上に丁寧な書き文字が大事そうに並んでいる。

「……」

 一瞬、異なるものを連想していた。白い物の上にわだかまる黒い文字。その端正なフォルム。その白さ。白い肌。食い込む牧水の歯。脆い歯ごたえ。喉に溢れ押し寄せる瑞々しく熱い文字の塊。朔太郎の詩情。あるいは中也の。

 眩暈でもしたように視界がぶれる。額に手をやり、頭を支える。

「……?大丈夫ですか」

「中身が詰まってるせいでな。頭が重いんだ」

 戯れに誤魔化す。誘われたように少女は短く笑ったが、すぐにまた案じるような眼差しを投げてくる。その視線に気づかないふりをして、牧水はスケッチブックの文字を覗き込んだ。

 詩だ。しかし、見覚えのある詩だった。彼女本人が作ったものでないのはすぐに知れた。

「素敵な詩を見つけたら、こうやって書き写してるんです」

「そりゃまた、いい心がけだな」

 褒め言葉になっているのかどうか、口にしてから少しだけ気になった。唇を小さく動かしてその文字をひそかに声に出し、牧水はその詩へ視線を辿らせた。

【こゝろ自由なる人間は、とはに賞づらむ大海を】――

 記憶が頭の奥で弾ける。都合よく作り上げ自分が目指している偽りの健全な過去などとは全く違う、生々しく迫るいつかの記憶。紙の上に紡がれる言葉に焦がれ、胸を打たせていた、昔日の自分の記憶。

「上田さん」

 喘ぐように、呟く。少女は一旦頷きかけてから首をひょいと傾げ、引っ掛かりを覚えた言葉に

「さん?」

「……上田敏の、訳詩だ」

「そうです、海潮音」

 訂正はそれなりに聞き入れてもらえたらしい。満足げに頷く少女からすぐに視線を外し、牧水はその白い紙に端正な字で綴られた詩文と共に記憶をたどる。

 人と海。ボオドレエル。何度も読んだ詩だ。自分が若いころに詠んだ海の歌と通じるものがあると、密かに自負していた日々が蘇る。

 生々しいほど、転生前の自分になっている。そんな己に、数秒経ってから気づいた。

「……いい詩だな。いい詩だ」

 言いながら、スケッチブックの表紙をぱたりと閉じる。横顔に注がれている視線には気付いたが、いまさら取り繕いようもない。

「牧水さんって」

 閉じられたスケッチブックを大人しく膝の上に引き取りながら、少女は何かに気付いたように言う。何となくぎくりとするような心地でなかなか視線を上げられないまま、牧水はその続きに耳を傾ける。

「……なんか、過去がありそう」

「そうか?」

 笑いを反射的に返して顔を上げる。何か面白がるような少女の視線を迎え撃つ。自分の顔が笑んでいることを祈るような心地で意識しながら、牧水はさほど意味のない言葉を答えにした。

「過去のない人間なんて、いないだろ」

 違う。

 喉奥がささくれるような心地が呼び起こされる。それは渇きよりもえぐく、きなくさく、鼻の奥へ不穏に広がる。

 違う。自分たちに、過去はないのだ。唐突に存在し、唐突に戦っている。それが、自分たちだ。今の肉体だ。戻る場所も、振り返る過去も、あるはずがない。記憶の残滓だけが過去の幻を作っている。頼りない記憶だから、如何様にでも歪む――

「そうですね」

 自分は思っていたよりうまく表情を作れていたらしい。気の抜けたような吐息を漏らして言い、スケッチブックをぺらぺらとめくった。その字を見せてくれるのかと思ったら、そのまま口を開いて読み上げてくる。

 話しているときは余り気にも留めなかったが、透明感のある良い声だ。

「ふたりを「時」がさきしより、

 晝は事なくうちすぎぬ――」

 これは誰だっただろうか。何にせよ、上田の訳詩の独特の格調というものは感じられる。朧な記憶を探る牧水にいたずらっぽい視線を投げかけ、少女は言う。

「どんなドラマチックなことも、過ぎてしまえば過去の話ですから」

「……言うねえ」

 軽くその顔を指差して、牧水は笑った。いかにも過去のある男らしく、少し皮肉気に。



***



 無意味なことをやっているのだろうとは、分かっていた。

 それでも、求めずにはいられない。山のあなたに幸いが住むという、あの詩にもよく似ていた。自分がたどりついたことのない場所に行けば、そこに真っ当で幸せな自分が手を振って待っている。そんな幻想を捨てられず、部屋に置かれた瓢に埃を被らせる。

 あの司書が言っていたように、この肉体がかつての自分の作った歌から生み出されたものだとしたら、この断酒はかなり健康に悪いということになる。土仏の水遊びのようなものだ。耽れば耽るほど溶けて流れ出るしかない。らしくないことをするというだけで負担になる肉体というのは、見ようによってはずいぶん詩的に感じられた。

(詩的ってのを、理不尽と一緒に扱っちゃいけねえよな)

 眠る前のひどく空虚な時間に苦笑を一粒落とす。宿舎から歩み出て、明かりを絞った図書館の書架を幽歩する。割り当てられたスリッパの足音が侘しく響く。開架の高い天井に今の小さな明かりはとても届ききらず、響く音も吸い込まれて消えていくように感じられる。

 足を止めて暗い天井を見上げ、自分の頬に触れる。冷たい。顔色は良くないかもしれない。常の酒に浸った赤ら顔よりはましだろうと、思わなくもなかったが。

 足音がいつの間にか重なっているのに頭の隅で気付きながら、不思議と歩みを止められずに宗教学書の書架の周りをぐるりと回る。重なっていた足音が止まり、眼前に少し驚いたような面持ちの見知った顔が現れた。

 啄木。足音で誰と気付いていたわけでもないが。

(おめぇさんが追いかけてきたんだろうに)

 少しばかり愉快な心地で、そう思う。

 啄木が薄闇に煌めく短い金髪を僅かに揺らし、無駄なほど快活で明朗そうな吊り気味の双眸に気まずい笑みを宿らせる。世間話でも始めるのかと思えば、その表情のまま突発的に戦端を開いてくる。

「あんまり我慢すると体に悪いらしいぜ」

「そりゃ、……借金の話か?」

「からかうなよ」

 まったくの本気で尋ねた言葉に、憮然とした指摘が返ってくる。したくてしている借金でないことは確かに承知しているが、啄木のそれには些か中毒じみたそれを感じていた――

 それも、記憶の中の話だ。牧水は浅い夢から覚めた心地で、それについて考えるのをやめた。

「ぼっさんが何が欲しくて何を我慢してんのか、俺様にゃさっぱりわからねえんだよ」

 特に深く堪えた様子もなく、啄木は腕組みして言い放つ。常のどこか軽薄で軽妙な心地のするこの男の様子は今はなく、ともすれば詰問に変わりそうな雰囲気すらあった。降参の意図を示して両手を軽く挙げるが、伝わる様子すらない。

 何処かに戻ろうとしている自分は、そんなに無理をして見えるのか。おかしな話ではあった。例のやり手の女司書など、牧水の変わりようをむしろ喜んでいるくらいなのに。

「おめぇさんに、今の俺はどう見える?」

 気になって、尋ねる。

「健康で気味悪い」

 胸が空くほど、きっぱりとした答えだった。だが、その言葉が啄木の思うところを何も表していないのだろうことも、その表情で伺えた。分かりやすい答えとは、えてしてそういうものだ。

 笑えば冗談に出来ると思ったが、朗らかな笑い声を出せる自信がなかった。へえ、とだけ声を漏らして、牧水はイスラーム教全史の幅の広い表紙を指先でつうとなぞった。

「なあ、分かってんだろ。心配なんだよ、俺様なりにさ」

「心配してくれるのは有難えんだが」

 ひどく皮相的なやりとりをしている。自覚を強めながら、誰かにそうされているように口を動かす。

「俺の酒一つで騒ぎ過ぎじゃないかねえ」

「飲んだ方が体にいい」

「いい加減だな、おい」

 とうとう笑ってしまう。啄木の真剣な表情が、それをせずにはいられない気分にさせたのだ。

 分かっている。啄木が気にしているのは酒そのものではない。昔日の自分から不自然に変わろうとしている牧水の心を気にしているのだ。その影に何があったのか、これから何が起ころうとしているのかを、鼈甲色の無暗に澄んだ目が見通そうとしている。面映ゆさと居心地の悪さを、綯い交ぜにして感じた。

 ……単純に飲み仲間が減るのを恐れてこのように言っているというのも、この男ならありそうな気もしてきたが。

 その眼を見返す。素行に見合わず透き通った、甘そうな色合いだ。舌先で押せば飴細工のように湿って脆く崩れていきそうに見えた。

 喉奥に僅かに蟠る疼きを飲み下す。啄木が怪訝な顔をした。

「なあ、ぼっさん――」

 あんた今、俺様の目玉を美味そうだと思ってただろ?

 少し気が咎めたが、そんなことを言う筈もない。牧水は下手に動揺しないよう薄ら笑いを浮かべて、寄越した視線だけで聞き返した。

 啄木はひどく迷ったように、眉間に皺を寄せて真下に俯く。単純に落胆しているようにも見えたが、その滑らかな額には色濃い煩悶の影がある。唇が幾度か小さく動いたが、何も言ってはいないように見えた。少なくとも、声に出しては。

 決然と、啄木の口端が引き下がる。件の甘そうな眼が、ゆっくりと上げられる。

 すぐに、頭の隅の満たされないところが飢えを訴え始める。あまりに律儀な反応だった。牧水はさり気なく頭を押さえ、軽く指を立ててバンダナの上から頭を掻くふりをした。

 向かい合う瞳に決意の色。これから何を言われても、もう笑いにはぐらかすことは出来なさそうに思えた。

「ちょっと、こっち来いよ」

 手が差し出される、と見る間もない。牧水の手首が強引に掴まれる。

 手首をつかんだまま、啄木は唐突に大股にずかずかと歩き出す。林立する本棚に紛れ、隠れでもするようにして、どんどん薄暗い方へ、光の届かない方へ。ひきずられるままに数歩はよろめいて歩いたが、気にする様子のない啄木を見て早々に自力で姿勢を持ち直した。多分転んだとしても、手を離してくれることはなさそうに思えたのだ。

 少し痛むが、痛いとは言わないことにした。歩幅を合わせて暗い本棚の影へ潜む。金属工学の翻訳書ばかりが詰められた背の高い棚。絞られた灯りは足元へ、幾つもの書棚に細く削られて筋のようにしか届いていない。

 無人の書架。隠れる必要もなさそうに思えた。牧水は眉宇に出来る限り物問いたげな気配を出し、啄木へ顔を向けた。

 啄木がようやく手を離す。躊躇うようにその下唇が戦慄く。

 牧水の手首を捕らえていた手が、ゆっくりと闇の中を泳ぐように持ち上げられた。手の甲に浮く太い骨の翳りが、堅そうな五指にすんなりと続く。静かで密やかな弾力を傷のない肌の下に溜め込んだ、どこか静謐な雰囲気すら漂う手だ。

 騒がしい持ち主とは大違いに――と皮肉を思い浮かべようと思ったが、今はその持ち主も不気味なほど静かなのだ。伸ばされた指が鼻先をかすめるほどに近づき、奇妙なむず痒さを覚える。

 啄木は決意したように、唇の震えを止めた。

 続く言葉には何か、確信めいたものが感じられた。

「――噛めよ」

「……」

 差し出された、手。

 気を抜けば、その歯応えを思い浮かべてしまう。口腔に零れる文字の味わいの儚さに、思いを馳せてしまう。

 どこまで伝わっているのか。何処まで気取られていたのか。いつ。どうやって。疑問が頭の中で渦巻き、ひどく真摯な顔をしている啄木の前に霧散していく。

「そういうことなんだろ?ぼっさん」

 何が、どういうことなんだ、と、聞くことは出来なかった。啄木は正しい――そういうことだった。どこまでも、そういうことだった。

 牧水は頷いた。無心に、力強く、少しだけ、阿呆のように。

 両手を伸ばす。指が震えていた。啄木の骨ばった手首を両手で掴む。唇を近付け、口を開ける。

 そこで制止の声がかかるのではないかと、少し危惧する。啄木の顔を見た。痛みに耐えるように目を閉じている啄木の表情から、拒否を読み取ることは出来なかった。

 温もった歯をゆっくりと狭める。親指の下のなだらかな輪郭。乾いた肌に、歯の先が触れる。それだけで皮膚の下を、ひりひりと焦がれるような電流じみたものが走る。

 気が付けば、顎に力が籠っていた。肉の弾力を殺すほどに力強く食い込んだ歯が拾う、異なる体の脈動と体温。酔ったように頭の芯がかすむ。顎の力を緩めては、幾度も噛みつく。

 啄木の視線には気付いていた。憐れむような、慈しむような。あるいは、牧水の醜態に自分の姿を重ねている。そんな気配が感じ取れたが、牧水にとってはもはや構うことではなかった。

 肌を食い破れば、啄木の歌は堰を切って喉にまで溢れてくるかもしれない。だが、そこまでする気は疾うに失せていた。

 は、と、短い息が零れる。

 息継ぎもしていなかったことに、ようやく気付く。

 差し出された手の齎す陶酔に、暫く耽り続ける。忘れ去られたような書架の隅、灯りの届かない闇の中に身を寄せて。逃すまいとするように啄木の手首を両手で掴んだまま、ずっと。



***



 嫌になるほどすっきりした気分だった。完治したらしい朔太郎に吃り気味に朝の挨拶をされても、すれ違いざまに中也に痛いほど背を叩かれても、脳天気な返事が返せたほどに。

 懐中時計を渡しながら、女司書が我が意を得たりといった表情で言う。

「やっぱり、安定しましたね」

 それはさすがに、曖昧に笑って誤魔化した。慣れてきた懐中時計の重みを抱えてふらりと歩き出し、吸い慣れた空気の満ちる帝國図書館を後にする。重い扉を開けて外気に踏み出す時、ふと啄木が何か意味ありげに自分の方を見てはいないかと思ったが、そんなことをする男でないのもよく分かっていた。

 啄木の施し。手を差し出し、噛めと言った。言ってくれた。珍しいことだった――つまり、施す側に回るあの男というのは。借用書を書いてばかりいれば、書き方を人に教えることもできるようになる。その程度の話なのだろうか、と、諧謔交じりに考える。

 何にせよ、貸しを作ったということだ。いずれ、返す時が来る。本人に言えば嫌味にすらなりかねないことを、ごくごく素朴に胸中で唱える。

 足が向かう先も、やはりお定まり。はるか遠くに線のような海を望む展望台。詩人気取りの初々しい少女に、運が良ければ会える。

「あ」

 あどけない声が耳を打つ。牧水は足を止め、軽く手を挙げた。

「よお」

「牧水さん」

 件の少女だ。昨日のスケッチブックは抱えていない。石のベンチへ大股に近寄って傍らに立つ。少女は微笑み、首を傾げる。

「……」

 なぜか、背筋に嫌なものが走る。牧水は慌てて己を鎮める。何もおかしなものはない筈だ。何も。おかしなことなど。

 自分に言い聞かせるような陰鬱なつぶやき。少女が構う筈もない。

 丸い眼がさっと上がる。ひどく明るく空虚な声が、耳に届いた。

「また、お会いしましたね」

「……また」

「ええ、また」

 違和感が殺せなかった。昨日会ったことなど、忘れ去って影も残していないというような丸い瞳。

 少女はスケッチブックを持っていない。

 単純な思考が当然の帰結を呼ぶ。牧水は唇を引き結んだ。口腔の唾を飲み下し、そっと気まずい言葉を渇いた舌に乗せる。

「小さな詩人さんよ、ひとつ聞きたいことがあるんだが」

「ふふ、何その呼び方」

 俺より小せえだろ?と背比べのジェスチャーで示し、それ以上は語らずに牧水は問いを連ねた。

「海潮音、上田敏の――読んだことはあるか?」

「いいえ」

 その声には、迷いがなかった。

「……それ、本の名前ですか?」

 無邪気な問いが返って来る。冷や汗が湧き起る。ちくちくと肌を刺す、突発的な緊張感。

 覚えていない。

 違う。

 忘れられようとしているのだ。少女からのみならず、きっとこの世から。あの美しく恐ろしい海の詩も、わかれの詩も、幸いの詩も――今まさに。

 ありふれた悲劇。今この世界に、広がろうとしている欠落。

 その現象を、牧水は知っていた。その現象のためにこそ、牧水たちは存在しているのだから。

 侵蝕。

「牧水さん?」

 呼びかける声をいい加減な仕草でいなし、牧水は決然と踵を返した。走れば懐から零れそうな懐中時計を取り出して握り締め、焦ったような声を背で聞いて走り出す。

 今の肉体は出来がいい。大股に自分を前へ前へと送り出す引き締まった足に感謝しながら、牧水は図書館への道を駆けた。



***



 怪訝な顔をしている女司書をせっついて、図書館の蔵書を探させる。程なく見つかった青地に金箔の訳詩集を手に、女司書はただでさえ急な上り坂の眉をますます険悪に吊り上げて一言、

「ビンゴですね」

と言った。

 美しい装丁のあちこちにはひっきりなしに蠢く黒いものが蟠り、歪な文字がページのあちこちから零れるようにはみ出ている。職員の一人が弾かれたように背を向け、慌てて走っていく。すぐさま有碍書発生の放送が館内に流れ、安全が確保されるまで文豪たちの立ち入りが制限される旨を録音の音声が告げる。

 女司書が手を振って追い払う代わりとでも言うように、冷たい視線を投げかけてくる。それなりに居心地の悪さを覚えながらも居座り続ける覚悟を決め、牧水は聞いた。

「ああ……ここにいちゃいけないのか?」

「いずれ潜書命令を出すことになります。しかし、今ではない」

 尖った眼鏡の下の硬質な眼差し。声まで硬い。牧水は出来るだけ柔和な仕草で、頭を掻いた。

「それは、今でもいいん……だろ?」

「良くありません」

 にべもない。だが、牧水の足は動き出そうとしない。

 女司書の怪訝そうな眼差しが投げかけられる。牧水はカートに乗せられた『海潮音』を眺め、軋むように口を開いた。

「好きな本なんだ。愛してた」

「私もです」

 素っ気なく、司書は答える。鼻白む牧水をよそにさしたる情感もなく、女はすらすらと続ける。

「良い詩ですよね。山のあなたの空遠く……」

「……「幸」住むと人のいふ」

 牧水ではない。横合いから、続きが投げかけられた。

 滑らかな床のどこに引っかかっているのか、妙にたどたどしい足取りで細い足をひきずって、その男は近づいてくる。ボタンは掛け違えてこそいないが、喉元の一つが半端に外れかかっている。

 朔太郎は自分から話しかけておいて何かきょとんとしたような表情を浮かべてから、違和感のあるらしい喉元を細い指で押さえておどおどと言葉を継いだ。

「火事みたいに、騒がしいのに……牧水がいないから、不安になって。こんなところにいたなんて」

「こんなところですって」

 女司書が皮肉っぽく言う。特に通じていないらしく、朔太郎は素直に一つこくんと頷いた。そのまま真っ直ぐに牧水を眺め、視線が合うのを待つようにそのまま固まる。暫く黙ってやり過ごそうとしたが、根負けせざるを得なかった。

 顔を上げ、その眼を眺める。荒れる海と同じ色の瞳。揺らぐ光を湛える深い青。

 色味の薄い唇がふわ、と開き、少しの逡巡を挟んでから動いた。

「牧水は、……何に、困ってるの?」

「……そりゃ、水を向けてくれたってことかねえ」

 思わず苦笑いを浮かべる。

 女司書の視線が突き刺さる。牧水は体の向きを変え、彼女へしっかりと向き直ることにした。

「今すぐこの有碍書に潜書したいんだ。今すぐ、だ。どんどん侵蝕が進んで……取り返しがつかなくなっちまう前に」

「認められません」

「どうして?」

 間髪を入れない返事に、朔太郎が呟くように尋ねる。女司書は尖った眼鏡を神経質そうな仕草でずり上げ、朔太郎を振り向きざまにきっと睨んだ。

「潜書の順番を決めるのは私たちの仕事だからです。効率的に、安全に、無理なく……あらゆることに留意して、それでも万全とは言いがたい」

「今、決めてくれたらいい。海潮音への潜書を、牧水と、自分に任せるって。何も難しくないよ」

 朔太郎の口調は如何にも訥々としているが、だからといって女司書の口調にたじろぐということは一切ない。おめぇさんもついてくんのかよ、と、言う機会を牧水は逃した。

「駄々をこねないことですね、萩原氏」

「大事な本なんだ……きっと、牧水にとって。こんなこと、言うなんて」

 会話が噛み合っているようには思えないが、思いをぶつけ合っているのは伝わる。牧水は思いを新たにするように奥歯を噛み締めた。あの朔太郎が懸命に抗っているのに、自分が傍観をしていては筋が通らない。

 何か言わなければならない。朔太郎の駄々以上に効果のある、何かを。

「なあ、おめぇさん」

 司書に呼びかける。尖った眼鏡の下の鋭い視線が突き刺すように向けられた。

 突きつけられる刃物をいなすように手のひらを緩く持ち上げ、牧水は半笑い気味に言った。

「ヤケを起こしたバカが勝手に潜っちまうより、今おとなしく許可を出しちまうほうが、後始末は面倒じゃねえと思うんだが」

「脅しですか」

 冷たく聞き返される。ややあってから、司書の冷たく強張っていた顔に失態の自覚がありありと浮かぶ。つまり、脅しになる程度には面倒な事態になるということだ。それを明らかにしてしまった。

 朔太郎に目配せをやる。目配せが通用するような男ではなかったことにすぐ気付いたが、心配は不要だった。

 牧水が顔を向けきるよりも遥かに素早く、朔太郎の細い手は黒く侵蝕された『海潮音』をカートからひったくっている。

「なんてことを!」

 金切り声で女司書が叫んだ。群がる黒い文字の群れが、新たな餌を見つけたかのように朔太郎の白い指に食らいつき始める。その滑らかな輪郭が細かく毀れ始める。

「潜書のとき――いつも、自分たちはどうしてたっけ……」

 白く脆い肉体を侵食させながら、朔太郎は平然と呟いて抱えた本を見下ろす。牧水は大股に歩み寄り、その手から『海潮音』を取り上げた。

「ようし、貸してみな」

 侵蝕されて見る影もない青と金の表紙を見下ろし、手のひらをゆっくりと持ち上げて、見せつけるようにその表紙すれすれにかざす。記憶が確かなら、このまま触れるだけでいい。有碍書・有魂書問わず、潜書の際にいつも促される手順だ。

 司書が息を呑む。これで正解だということだ。鉄面皮を気取っているが、ある面ではとてもわかりやすい女ではあった。

「さあて、どうしようか」

「……どう、とは?」

「つまり、無許可で俺たちを潜らせるか、緊急で俺たちに許可を出して潜らせるかって話だよ」

 白い歯を見せ、できうる限り「健全な」笑みを示して言葉を促す。

 女司書は眉間に深い皺を刻んでたっぷり考え込み、そして答えを出した。



***



 文字の波に魂を包まれ、揉まれ、改められるような感覚。全身で読書をするような得体のしれない概念の幻覚は、潜書時に共通のものだという。めまぐるしく渦巻く言葉の塊で魂の角を削らせながら、重力に引かれるように下へ下へと抜け出ていく。

 不意に視界が晴れた。有碍書の中の景色が眼前に広がる。のっぺりとした灰色の空の下、だだっ広い金色の砂浜。「貝」という文字の形をした小さな何かと、「蟹」という文字の形をした生き物が、波打ち際を追いかけるようにじわじわと動いていた。

「いい詩だね」

 渡る風に何かを感じ取ったように目を細めて、隣に立つ朔太郎が言う。

「いい本なんだよ」

 砂浜の果てを見て、牧水は答えた。なんとなく、その白く秀でた顔をあまり延々と眺めてはいけない気がした。

「読んでたの?」

「うん?」

「この本」

「話のタネに出てきてな。それで気づいた」

 歩き出す。砂を踏むたびに「ざく」「ざく」と文字が発生し、そのまま風にさらわれるように溶け消える。遠景に灰色のものがもわもわと固まり始めるのを視認して、牧水は確かめるように自分の右手を見下ろした。

 真鍮でぴかぴかと飾られた拳銃。銃剣の刃が鋭く光る。これで戦う羽目にだけはなりたくないものだと、見るたびに思う。

 敵の影がはっきりと近くなる。数は多くない。敵の強さは。そう多くもない戦いの経験を脳裏に呼び起こす。

「ああ、すつぱりといつさいの憂愁をなげだして」

 朔太郎が小さく口ずさむのが聞こえた。自分の銃の優雅な撃鉄を起こし、空の色のせいで灰味が強くなった双眸を細めて、その脆そうな指で包むように銃把を握って狙いを定める。

「わたしは柔和の羊になりたい……」

 そうか、羊か。眼前のかさかさとした不気味なものが寄り集まったような敵を前になかなか結び付かなかったその言葉を、思い浮かべる。

 羊の形の侵蝕者。不調の獣。色味の薄いその体。

『侵蝕は初期段階。脅威度は低いはずです』

 武器を通して、籠ったような女司書の声が鬱々と響く。

『不調の獣壹号と確定。交戦を許可します』

「まだ怒ってる?」

 引き金を引きながら、朔太郎が呟くように尋ねる。銃撃が古紙のようなかさかさした肉体を粉々に打ち砕くのを横目に、牧水も拳銃を構えて飛び掛かるように跳躍する。長い腕を鞭を打つように出して銃口を下へ向ける。不調の獣の黒く小さな頭をほぼ真下に捉えて、人差し指に力を込める――

 轟音が一度だけぐらりとするほど甲高く響き、頭を失った不調の獣の体が風に解れるように消えていくなか、牧水は砂を蹴立てて着地した。

『潜書中に個人の感情を持ち込む気はありません』

 それを待ったように、女司書の冷たい答えが返ってくる。こりゃしばらく厳しいぞ、と視線だけで苦笑を交わそうとするが、朔太郎は困った顔をするばかりだった。

 女司書の言葉は全く正しかった。敵は侵蝕初期の有碍書でよく見る類、不調の獣ばかり。言葉を食らい続けることで変色した強い個体すら見当たらない。銃撃の一発ごとに、羊を擬態したような乾いた体が弾け飛ぶ。

『気を緩めないで』

「へいへい」

 跳ね飛ばされてきた文字の角を銃剣で受け止め、牧水は不真面目に返す。

 その顔に視線が突き刺さっているのに、気付いていないわけではなかった。朔太郎の物問いたげな目。そうそう長らく無視できるものではない。

「そんな顔すんなよ」

 牧水は銃口を空に向け、手を軽く肩に預けて休む姿勢を取った。海岸の果ては思っていたより遠くないと、吹く風が知らせる。

「散歩の先でよ、知り合いが出来たんだ。ま、ほんの子どもなんだが……詩が好きだって話をしたばっかりでな」

「うん」

 聞いているよ、と態度で示す代わりに、素っ気なくも響く相槌。朔太郎との付き合いは長い。その程度の機微はわきまえていた。

「子どもが目ぇ輝かせて好きだって言って、スケッチブックに綺麗に書き写しまでした詩が――いきなり消えようとしてるんだぜ?この世から、きれいさっぱり、あったって証拠すら食い尽くされて」

 その理不尽を受け入れられるようには、自分はできていない。きっと朔太郎も、この図書館にいる誰もかれも。

「我慢できるかよ。そう思うだろ?おめぇさんも」

「……うん。我慢、できない」

 抱え続けていた銃で腕を早々に疲れさせたらしい。細い肩をがっくりと落して掴んだ銃を構えずにぶら下げ、繊細な飾り彫りを乏しい灰色の外光にうっそりと煌めかせている。それでも朔太郎の声は、いつになく静かで力強い。

 ゆらゆらと頼りない足取りで、朔太郎が歩む。転びかけたその手を慌てて取ると、強ち小鳥のようでもない体重をその手にしっかりと載せて姿勢を持ち直す。

 視線が合った。礼でも言われるのかと思ったが、続く言葉は違った。

「この本を浄化したら、またその子供に会わないと」

 朔太郎がふらりと遠くへ視線を投げかける。つられて同じ方を見る。一段と大きな灰色のものが、模糊とした様子で蠢いているのが見えつつある。

「そうだな」

 牧水は低い声で答えた。朔太郎を支えていた手をするりとほどき、大股に歩きだす。口元に浮かべた歪みが笑みの形になっているか、頭の隅で少しだけ気にする。

「それで、禁酒生活もおしまいだ」

 銃を構える。光の乏しさが嘘のようにぎらぎらと光る銃剣の先端。その向こうに、不調の獣の間抜けた巨大な頭部がある。

『それが、侵蝕者たちのボスです』

 思い出したように、女司書の声が響いた。おう、と口の中で応えて、牧水は引き金を絞った。

 跳ねるような衝撃。墨の色が圧縮した螺旋のように獣の頭部へ打ち込まれ、その中で毬栗のような形に弾ける。文字を食らい文字を纏う浸蝕者たちは肉声を持たない。巨大な肉体をじっくりと崩壊させ風に浚わせていきながら、暫く砂の上に立ちつくし続ける。

「……なんで、お酒を飲まなかったの?」

「散歩のためさ」

 振り向きもせずに答える。朔太郎が細い首をかしげ、豊かな黒髪を揺らす気配が伝わる気がした。

「散歩は、もういいの?」

「そうだな、もういい」

 銃を下す。侵蝕者からの反撃の気配はないままに風化が終わる。初期の有碍書に潜書するというのはこういうことなのか、と、感嘆と呆れとともに感じる。本当に呆気ない終わりだった。

 武器が俄かに重く感じられてきた。武器を持つ右手をだらんと垂らし、牧水は灰色の空を仰いだ。遠くに山がおぼろに見える、ひどく皮肉な風景。

「変わろうとすりゃ、簡単に変われると思ってた。今の俺でも、こうなる前の俺でもない何かにな。だが、そんな簡単なもんじゃなかったんだ」

 愚痴っぽくなっていないかとふと危惧し、いったん口を閉じて朔太郎を見る。朔太郎は笑みも呆れもせず、坦懐に牧水の言葉に耳を傾けている。

 牧水は肩をすくめ、細い息を吐いた。

「誰にだってあるものが、俺たちにはない。ないから、戦える。分かりきったことだったはずなのに、分かろうとしてなかった」

 話はそれで仕舞いのはずだった。だが、朔太郎がそれを許さなかった。

 とと、と足音が聞こえる。小走りに隣に並んだ朔太郎が、いつになく強い光を湛えた眼差しで牧水の顔を見上げる。

「誰にもなくて、自分たちにだけあるものなら知ってる」

「興味深いねえ。そりゃ何だ?」

 山の姿も虚しい空から視線を外して、牧水は尋ねた。

「牧水こそ、みんなにあって自分たちにないものって、何?」

「……そっちも興味深いってわけか」

 顎をさする。空が崩れる。帰還の時間が近づいている。

 つま先で軽く金色の砂を蹴立てて、牧水は朔太郎に向き直った。

 真摯な表情。この男はいつでも真面目で、直向きだ。この男にとって、自分はどう見えているのだろう。

 こんど、尋ねてみようか。胸中に呟きながら、牧水は応えるべく口を開いた。

 誰にだってあるもの。俺たちにはないもの。

 決まりきった話だった。それは、もちろん。

「過去だよ。俺たちは唐突に存在して、唐突に戦い続けてるんだからな」

 少し間を置く。息でも止めたような表情で真面目にこちらを見据えている朔太郎に、促す。

「そんで、おめぇさんの言う……誰にもなくて、俺たちにあるものってのは何なんだ?」

「過去」

 ぼそりと、朔太郎が言った。

「過去だよ。自分たちが編んだ言葉が、紡いだ時間が、今の自分たちに繋がってるんじゃないか――」

 崩れた空から光が射す。猥雑で雑多な、現実の光。崩れてくる言葉の雨を蹴立てるように、二人の体が浮き上がる。

 少しだけ、酩酊した時と同じ心地がした。喉を小さく鳴らす。次の散歩を待てるか不安なほどに、酒がひどく恋しくてならなかった。



***



 それでも、散歩に出かけることはできた。女司書は厳格ではあるが、私情で牧水の外出を制限するような性格ではなかった。しかしそろそろ飲みそうだというのは見透かされているらしく、「立ち飲みしながら帰ってきたりしたら大目玉ですよ」と、眼鏡の下の目を剥いて厳しく言ってきた。

 いつもの高台。スケッチブックを抱えた少女がいる。

 不意に、胸が静かに苦しくなった。それは文字の海に身を沈めるようなもので、決して不快な心地ではなかった。牧水は呼吸をゆっくりとしたものに変え、その場に立ち尽くす。

 自分が守ったものが何であるかを、そのあどけない横顔が何よりも雄弁に教えてくれた。

「あ、牧水さん」

 ふと気づいたように目を軽く瞠り、立ち上がる。牧水は手のひらを見せていい、と示し、自分から石のベンチへ向かって歩いていった。灰色の建物、あちこちに人工林、山の影、そして細い細い海の線。歩むたびに景色が近くなり、その中に埋もれるような心地を覚える。

「昨日、お会いしましたよね。なんて話したか、あんまり覚えてなくて」

「詩の話をしたな」

「詩の話ですか」

 スケッチブックを抱えて腰を落ち着ける少女に首肯を返す。少女はそうだ、と言って、いかにも見て欲しそうにまたスケッチブックをぱらぱらとめくり始める。

 海潮音ばかりではない。立原道造、佐藤惣之助、堀口大學。訳詩なら白孔雀、月下の一群――牧水の知らない名もごまんとある。正しくごった煮の状態だった。

「あれ、どこだったかな。牧水さんにぴったりだなって、思った詩があったんです」

「……おめぇさん、そんなの探してねえで、自分の詩も書きゃいいのに」

「書いてますよう。こっそりひっそり」

 いっ、と歯を見せてくる。牧水は手を軽く持ち上げて、小さな頭に軽く触れた。

「次会うときは、見せてくれねえかな」

「……しばらく、会えないんですか?」

 勘の良い娘だ。牧水は頷いた。

「仕事が忙しくなりそうなんでな」

「寂しくなりますね」

 娘が太めの眉を下げる。頭に置いた手を外し、空の向こうを眺める。

「……仕事がな、いいと思えたんだ。俺のことも、なんとなく。きっと、おめぇさんのお蔭だよ」

「そんな大したこと、しましたっけ」

「したした」

 笑いかける。娘は笑い返さなかった。自分の笑顔も、かなりさびしいものだったのだろうと、牧水は思った。


***



 散歩の帰りに酒を買った。月下の庭園に連れ出された啄木はかなり面食らった顔をしていたが、猪口を渡されると俄然やる気になった様子で向日葵が開いたような正しく溌剌とした笑みを浮かべてみせた。

 冷え冷えとしたガーデンチェアを向い合せて、二人腰掛ける。啄木は抜け目なく持ってきた大きな猫のぬいぐるみを尻に敷いて金属の冷たさを遠退けていた。猫がかわいそうじゃねえか、と言ってやろうかと思ったが、多分気味悪がられて終わりだなという程度の予測はできた。

 気味悪がられるという点では、礼を言っても同じだろう。

(手を噛ませてくれてありがとう、だって?)

 笑いを漏らす。なんとも切り出しづらい話題だった。牧水は黙って酒瓶を手にし、啄木の猪口に勢いよく注いだ。慣れたもので、一滴も漏らさずにぴたりと満杯にした猪口から音もなく瓶口を遠ざける。

「禁酒明けの酒盛りか」

「おめぇさんに付き合ってもらうのが一番だと思ったんだよ」

 それについて特に異論はなさそうだった。そうか、と聞き取れなくもない鼻息を一つ零して、啄木は猪口をずいと持ち上げる。猪口の縁が月光を吸い込み、ちかりと光った。

 牧水も倣って猪口を持ち上げる。とりあえずそれで礼儀は果たしたとばかりに、啄木はさっさと酒を唇に傾けてしまう。この男の薄く開いた物言いたげな唇が諦めたように盃に塞がれる、その瞬間がなんとなく好きだったことを思い出す。

 過去は確かにある。繋がっている。今の自分へ、明日の自分へ。

 陳腐な結論に苦笑したくなる心地を抑え、牧水はなるたけ皮肉の混じらない声音で言った。

「少し考えすぎちまってたかもなあ」

 啄木の視線がちらりと向けられる。牧水は酒で喉を振る押し、ぷは、と息を吐いた。

「この身体が壊れるまで、まあ、無理せずやっていこうや。たまにはコレをうまいこと誤魔化して、散歩にも行けばいいんだが」

 目の横で中指と人差し指を開き、件の司書の尖った眼鏡を象る。何を意図しているのか数秒してから気付いたらしく、啄木は口に含んだ酒を芝生の上に吹き出して短くむせた。

「笑わすなよ、ああ、もう……勿体ねえー」

「わ、わ、待て待て待ておめぇさん、それやったら人としておしまいだろ!」

 反射的に芝生の上に屈みこみそうになった啄木を慌てて押しとどめる。ばつの悪そうな顔で座り直して、前世来の友人は小さく咳払いをした。

「まあ、ぼっさんの悩みが晴れたのはいいことだけどよ」

 果たして晴れたのか。そもそもこれが悩みと言えるものだったのか。牧水にも、分かっているとは言えなかった。ただ、収まるべき所に収まったという気はしていた。

 おかわりを仕草で要求する啄木の猪口に酒を注いでやる。がぶり、と効果音が付きそうなほどに酒を飲み下して、啄木は澄んだ瞳に伺うような色を浮かべた。

「朔太郎が何か言った、ってことか?」

「あー……」

 酒瓶を弄びながら思い出す。過去。自分たちにあって他の誰にもないもの。必死の声音で、いつも通り訥々と、そう訴えた詩人。

 あまりにも正しい言葉だった。目の前の霞が吹き飛ぶ程に。そして、それを認めてしまった以上、自分に出来ることと言えば。

「まあ、飲めや」

 酒瓶をガーデンチェアに置き、緑なす庭を眺めて目を細める。

 啄木が怪訝そうな眼差しを送る。それに応えて牧水は笑い、まったく素直な胸の内を打ち明ける。

「おめぇさんたちにも司書の姉ちゃんにも、……いつかの俺にも。もうちょっと、感謝して生きていこうかなって辺りだな」

「……何だよ、それ」

 今度は酒を吹き出さず、啄木が笑う。上出来だなと内心で呟いて、牧水は猪口の中身を一息で干した。

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