失われた時を求めて

時間というのは気まぐれなもので、望めば望むだけ、呆気なく過ぎていく。浅い波がさらさらと砂を運ぶように。静かに。けれど、確実に。


そうして仕事に追われる夜は日々となり、年月となり、気づけば4年が経っていた。うすく重ねられた波の砂はいつしか層となり、楔のようなあの時の断層をも覆い尽くすはずだった。深い眠りに葬られる、淡い夢のように。


そう。彼女との思い出は、まるで見ることさえ適わない、淡い夢のようだった。


***


『失われた時を求めて』というフランスの文学作品がある。ある冬の朝、熱い紅茶に浸したマドレーヌの味わいをきっかけに、語り手がめくるめく思い出話を繰り広げる――そんな話だったように記憶している。


chez Swann(スワン家)。


彼女が差し入れに持って来た紅茶の包装に、そんな印字があった。読んだことはないが、物語に登場するその固有名詞は知っている。仕事が一段落して油断していたせいか、彼女の持ってきた差し入れに、俺は妙な感傷に襲われていた。



4年ぶりに会った彼女は、すっかり魅力的な女性になっていた。うすく重ねられた砂層の奥底で、断層のひずみの動く音がした。



chez Swannと書かれた小袋を破き、紅茶を淹れる。思いのほか芳醇なベルガモットの香りに、不覚にも戸惑う。……キミはいつから、こんな官能的な香りを好むようになったの。俺が知らなかっただけ? 誰に教えられた?


……この4年間は俺にとって「失われた時」だったのだろうか。


ベルガモットの香りに胸が締めつけられる。こんな時に限って、邪魔者は誰も来ない。感傷の波に流されるまま、俺は読んだこともない小説の主人公を気取って、手頃な焼き菓子を紅茶に浸してみた。妖しげな深みをたたえた紅茶の中で焼き菓子がほろほろと崩れる。口に含めば、繊細に編まれたはずの歯触りがすっかり脆くなっている。


爽やかな苦味を孕んだ香り。だらしなく溶けた甘み。紅茶に浸した焼き菓子で、思い出せる過去があればいいのに。


***


夕暮れの波の音。切なく微笑んだキミの顔。


あれから確実に、時は動き始めているのに。


絡み合うことのない記憶はいつまでも、置き去りにされたままで。


結局、忘れるなんて出来るはずもなかった。


***


霞ヶ関のいつもの夜。官公庁の窓にはまだ明かりが灯っている。


その光のどこかにキミがいる。己の正義を胸に、まっすぐ働くキミがいる。


時間というのは気まぐれなもので、動き出せばどこまでも速度を増していく。今はただ、愛しい気持ちで、キミに逢いたいと思う。いたずらに深まる夜を染め上げるほどに。あの時より強くなった眼差しで、俺に光をくれるキミに。


愛している。たとえすべてが手に入らなくても。


愛している。一生、一番、想ってる。


何度だって、伝えたい。無邪気に暴かれたあの時の断層は、キミと重ねる新たなる時を静かに待っている。



Fin.

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ふと、アメリカンな今大路さんが見たくなって。