HELLDIVE2~RULERSHIP

梶場舞人
@sorteraven

5.アヴェンチュラ

《登場キャラクター》


木之前タクト 27歳

かつてクラブ・アヴァロンでカリスマ的な人気を誇った「レイヴン」。

引退直後に事件に巻き込まれたものの、自力で解決。

「好きじゃない」と言ったくせに夏の神戸を満喫する模様。


吉原ジュンイチ 59歳

クロフネ・コーポレーションの社長。

裏ではファイター専門の人材派遣業も行っている。

タクトにストーカー並の執着心を見せるが、潔く敗北を認めた。


千田カズハル

かつて殺人罪により川越少年刑務所で服役。タクトと出会った。

作品中のキャラの中では家族と同等にタクトを理解しており、今回でもポジションは味方に近い。


マーティン・キューウェル

オーストラリア・ブリスベンに住む大富豪。

人間のコレクターで、大の日本好き。

メッセでは吉原に競り負けたが、まだ少しタクトに未練がある。 

 


 ここ最近、知らない部屋で目を覚ますことが多かった。

ホテルや豪華客船、監禁用の独房まで。

8月9日の午前10時に木之前タクトが目を開いた時、また知らない部屋だった。

(ここ、どこかな?)

自分が寝ているベッド、すぐ傍の窓、天井、部屋のドアを見回し、

(病院の個室だ)

と、分かった。

海の近い病院らしく、重なり合ったビルの向こうに青い水面があった。

「えーと……」

日付が変わってからの記憶が曖昧だ。

確かにどこかに運ばれ、医師の診察を受けた気がする。きっと、途中で眠り込んでしまったのだろう。

タクトはゆっくりと体を起こした。病院らしい白いコットンのガウンを着ていた。

左胸の下に痛みを感じた。

「あ、アバラやっちゃったんだっけ……」

顔と手足もガーゼや包帯だらけ。千田カズハルに言われた通りの『フルボッコ』だ。

体とは別の心配もある。

(俺、本当に解放されたのかな)

吉原ジュンイチが明言した記憶がない。

(怪我が治ったらまた監禁とか、マジ勘弁)

今日もいい天気だ。神戸の街が夏の光を浴びて輝いている。

「行きたいな……外」

関東には少ないクマゼミの声も、欧州風の看板を掲げたパティスリーも魅力的だ。日差しの下を自分の足で歩きたい。

ぼんやりと外を眺めていた時だ。病室のドアがノックされたのは。

「木之前、俺だけど」

千田の声。タクトはすぐに、

「ああ、いいよ。入って」

木の引き戸を開け、千田が入って来た。今日はスーツではなく、紺のTシャツに白いチノパン。サングラスを額に押し上げ、

「どうよ?」

「あんたの言葉でアップダウンしちゃうかもよ」

千田は手に大きなクラフト紙の袋を提げていた。

「それな。まずは……これ」

と、取り出したのは黒い錨を描いた赤い箱。

「神戸名物壺入りプリン。ここに入れとくわ」

言いながら、テレビの下の冷蔵庫に押し込んだ。

「わほっ。ありがと、千田さん」

次に取り出したものを見て、

「あっ……」

タクトは言葉に詰まった。

愛用のニューエラのデイパック。千田は差し出して、

「一応、中身を確認して」

自分のバッグなのに、自分のものではないような気がした。

中を開くと、ブルガリの財布、スマホ、ハローワークのパンフレット、求人情報誌などが見えた。

財布を取り出し、開く。あの日と同じ金額15800円。カード類もそのままで、クラブ・アヴァロンの黒いカードもある。

スマホはロック画面のまま。自分以外に触れた形跡はない。

「あの連中、その辺りはしっかりしてるから。大丈夫だろ?」

「うん、大丈夫」

千田は最後に、袋をスツールの上に置いた。

「中身、お前の服。拉致られた時のやつと、下着とか追加しといたわ」

タクトは確信した。

「俺、マジで自由?」

「社長がこれを返したんだから、そうなんじゃね?」

千田の表情も明るい。

「とりあえず、17日まで入院な」

「うわっ、長っ」

一気にテンションが下がった。1週間以上もあるのだから。

「アバラ折れてるんだから当たり前だろ。おとなしくしてりゃ、きれいに治るってよ」

千田は笑みを広げ、

「あ、入院費は気にするな。んで、退院までに社長が詳しい話をしに来るらしい」

ますますテンションが下がった。

「2度と顔見たくねえんだけど」

「まあまあ、話だけでも聞いておけ」

タクトがヘコむばかりなのに対し、千田はどこまでも上機嫌だ。その理由は、

「すげえな、お前」

これらしい。

「あの状態からティエに勝つってどうなのよ? 何をやったんだよ?」

実の所、タクトは無我夢中だった。

頭でどうこう考えるより先に、体が動いた。

HELLDIVEの時、たまにあった。

「自分じゃない誰かが闘うのを遠くから眺めているような」

まさにそんな気分。

「俺にもよく分からねえ。体が勝手に動いた」

こう言うしかないのだ。千田は目を丸くし、瞬きを繰り返した。

「1つ確かなのは……あの技、黒雷って名前」

「クロイカズチ……? へえ」

感心する千田。

「やっぱりダイバーに戻る気満々じゃん」

それには、

「うーん、どうかな」

首を傾げておいた。千田はスマホを取り出し、

「今日は俺、社長に頼まれたものを届けに来ただけ。また来るし」

「ああ、ありがとねー」

タクトに連絡先を伝えると、千田は帰って行った。

「え?」

スマホのロックを解除し、愕然とした。

電話の着信が5件。名前はすべて……

「ボス……」

『藤島トウヤ』の名前が、タクトに不思議な感情を与えた。

嬉しさと懐かしさ。恐れとためらい。

(ボスにバレたんだ……メッセに出されたこと)

最後の着信は8月6日。

「どうしよう……」

話をしたい。だが同時に恐ろしい。

2つの感情が頭の中で闘っている。それでも、決着は早かった。

(ボスに隠し事なんかしちゃいけないよな)

タクトは電話を繋いだ。コール音3回分で、

『タクトか?』

途端に胸が詰まった。1つではない衝動が一気に押し寄せた。

(ヤベェ、マジで泣きそう……)

『おい、どうした? タクト』

ぐっ、と感情を飲み込み、

「スンマセン、お久しぶりです、ボス」

『今、どこにいる?』

「神戸の病院で全治1週間です」

藤島が一瞬沈黙し、

『吉原か?』

やはり、こうなる。

『吉原にやられたのか?』

「ボス、どこまでご存じなんです?」

『お前が吉原に落札されたことまでは聞いた』

恐ろしい情報網だ。

「それ、知っているのは他に?」

『俺だけだ。ヴァレリも丹羽さんも知らない』

それには安堵した。

「じゃあ、とりあえず丹羽さんには内緒で。モストボイには隠せないでしょ」

タクトの声が明るいので、藤島の口調も和らいだ。

『終わったのか?』

「終わりました。俺……逃げなかった」

また泣きそうになった。

「怖かったし、心折れそうになった。でも……戦って……勝ちました」

藤島がまた少し、言葉を切った。

『詳しく聞かせてくれ』

「長いっスよ。暇ですか?」

『俺に言うセリフかよ』

モストボイの件もあり、藤島はメッセに詳しかった。細かい部分は飛ばすことができた。

自宅マンションの前で拉致されたことから始まり、日本人を含めた5人を打ち倒した。最後の相手がヤン・マイスネル。盟友であるゼニスの師匠だ。

『……あいつか』

「ご存じですか?」

『ゼニスに聞いて、プラハまで会いに行った』

さすがに、藤島の行動力に驚いた。

「悪魔でした」

『ああ、悪魔だな』

これで成立した。

「それで俺……あのおっさんに買われて。神戸に連れて来られて……」

自分の会社で働くことを迫られた。断ると40億の借金を抱えることになるのだ、と脅されて。

『あの人らしい』

藤島が言った。苦々しげに。

『俺が1番嫌がることをやろうとしたか』

藤島の下にはタクトを含めた大勢のファイターが集まった。

アヴァロンのダイバー以外にも、プロ格闘家になった者や外国の傭兵部隊入りした者、いわゆる裏社会を選んだ者など様々だ。

ダイバー・レイヴンことタクトは、その中でも『最高傑作』らしい。

「藤島トウヤの弟子はヴァレリ・モストボイだけ。そのモストボイの弟子はレイヴンだけ」

と、周囲では言われている。

(俺には全然自覚ないんだけどね)

「さすがに俺もビビりました。で、もう……マジで心折れそうになったんですけど」

ペンに伸ばした手を途中で止めたのは、

「戦いから逃げた時が負け」

「お前は常に誰かと戦うことが必要だ」

師であるモストボイの言葉だった。

「おっさんに頼んだんです。俺を自由にする選択肢を作ってくれ、と。そうしたらティエと闘うことになりました」

『ティエ……』

絶句する藤島。

『そりゃ、あの悪魔に勝つより厳しいだろ』

「俺もそう思いました」

タクトですら半ば諦め、吉原は勝利を確信していた。

唯一の誤算。

リー・ティエはタクトと闘うことなど考えていなかったのだ。

「あいつ、いい意味でバカですね」

『どうした?』

「俺を仲間だと思った途端、本気で闘えなくなったみたいです」

『そう言えば、ヴァレリとも「盲人とは戦えない」っつってやり合ってねえんだ』

「マジっすか。ウケるー」

迷いや動揺は闘いの中に出てしまう。その意味ではティエは『弱く』、見逃さなかったタクトは『強かった』。

『勝ったのか?』

「拾い物みたいな感じです。おっさんもチョー不満そうでした」

吉原はすぐには承知しなかったものの、ティエと次男・レイジの説得を受けて思い直したようだ。

「普通の病院だし、私物も戻って来たし。大丈夫っぽいです」

『だといいんだが』

藤島の声も弾む。

「17日まで入院で、その間におっさんも来るそうです。詳しい話が入ったら報告しますよ」

『よし、分かった』

「誰から入りました? やっぱり鴨宮さん経由で友森さん?」

『そうだ』

予想した通りだ。

タクトは2日以上家を空ける時は、必ず隣りの友森老人に一言告げる。それがないまま3日も留守にしたので、不審に思ったのだろう。

まずは鈴音市警察署長の鴨宮に連絡。その鴨宮から藤島に伝わったのだ。

友森は前警察署長であり、鴨宮はアヴァロンの「パトロンの1人」なのだから。

『この件はヴァレリにだけ話す。他のダイバーや丹羽さんには何も伝えないからな』

「友森さんには適当にごまかしておきます」

『それがいい。今はゆっくり体を治せよ』

「はい、ありがとうございます」

通話が終わった。

分かっていても、なかなかスマホを置く気になれなかった。



9日と10日は1日中病室で過ごした。

担当は60代の男性医師。見た所後ろめたいものは持っておらず、タクトに余計なことを尋ねようともしなかった。

おとなしくベッドの上でテレビを見て過ごしたが、

「病院の食事が味気ないって本当なのね」

が、不満と言えば不満だった。

11日の朝、千田がやって来た。

「ここの医師にはどう説明したんだ?」

「いや、あの山崎さんって先生は社長の知り合いだからさ。『またちょっとやり過ぎちゃって』で片付くワケ」

タクトは絶句するしかなかった。

「で、注文の品。お前、相変わらず本読めるんだな」

千田が差し出したのは紀伊国屋書店の紙袋。中身は『三毛猫ホームズ』シリーズの文庫本が3冊、格闘技情報誌、スポーツ新聞だった。

「俺、高校生の時だってちゃんと読書感想文書いたんだぞ」

「何の本で?」

「太宰治の『人間失格』」

千田が帰ると、テレビを点けた。今日も高校野球をやっているが、空は雨模様だ。この後の状況次第でコールドになるかもしれない。

「17日までって長いよ……こっちは就活中なのに」

就活で思い出した。

千田は、タクトと全く同じ考えを持っていた。

「世の中で大事なのは肩書。でも、前科者にはとても難しいこと」

(結局、俺もそれでダイバーを辞める決心が付かなかったからな)

欲しいものが何でも手に入るレイヴン。

「前科一犯」の木之前タクト。

(どちらも自分だって……思いたくても思えなかった)

ようやく現実に戻る決意を固めた時。

それは『レイヴン』の負債を清算する時でもあったのだ。

(とんでもない目に遭ったけど……全部俺が招いたわけだし)

ファン・チスンはもちろんだが、あの船にいた連中を憎んではいない。

吉原も許せないほどではない。

(ちょっとした冒険の旅と思えばいいのかな)

11日も文庫本と高校野球で終わった。



12日になり、山崎医師から「歩き回ってもいい」と許可をもらった。

事実、顔に貼ってあったものは全て取れ、体の痛みもわずかだった。

「病院の外に出ても?」

「それはまだ」

院内限定とは言え、病室から出られるのは嬉しかった。

Tシャツとルームパンツ、スリッパのまま売店へ向かった。真っ先に買ったのは、

「あったー、これこれ!」

井村屋あずきバー。病室の冷凍庫に入るだけ購入した。

「わほっ、チョー久しぶり!」

数えてみたら7月29日以来。1日に1本を必ず食べていたことを思えば久しぶりに違いない。

12日はあずきバーと病院内の探索に使われた。

『久しぶり。最近どうしてる?』

姉の花本ヤヨイからLINEが来たのは13日の午前中。

『入院中。すっげーヒマ』

『あらあら、がんばってね』

タクトが何故入院したのか怪しまないのはさすがである。

『ダンナと実家に帰省しています。リンちゃんの写メ送るね』

直後に届いたメールで悶絶した。

川越市の実家で飼われている三毛猫リンの画像だったのだ。

『また太りました。体重7キロだそーでーす』

球体そのもののリンの写真を眺めながら、13日も過ぎた。

14日の朝は千田の電話から始まった。

『社長が今日、行ってもいいかって』

「手ぶらで来るんじゃねえと言っといて」

千田が大笑いと共に通話を終えてから2時間後。

午前10時に病室のドアがノックされ、

「私だよ。吉原だ」

タクトは文庫本に栞を挟んでから、

「いいよ」

入って来たのは吉原だけだった。スーツではなく、クリーム色のポロシャツにカーキのパンツ。手には紺の紙袋。タクトを一瞥し、微笑を浮かべた。

「手ぶらで来るなとのことで……これを持って来た」

と、紙袋を手渡す。中を覗くと、2種類の和菓子が見えた。

「いちご大福と……これ、きんつば?」

形はきんつばだが、色が黄色だ。

「中身はさつま芋餡だよ」

答えながら、吉原はスツールを引き寄せて腰を下ろした。

「神戸は洋菓子ばかり有名だが、おかげで本当にいい店を隠しておける」

「許すから、この店を教えてくれよ」

今すぐにでも駆け出して行きたい気分だ。

「『すぎの屋』と言う。三ノ宮駅裏の琴ノ緒町商店街にあるんだ」

吉原はセカンドバッグから白い封筒を取り出した。

「5万円ある。鈴音までの旅費だ」

タクトは封筒を受け取り、

「これで終わりだと思っていいんだな」

正面から見据えた。吉原も動じることなく、

「ビジネスでも私生活でも……あらゆるトラブルを想定して進めて来たが」

口を開いた。

「全く想定外のトラブルが私の敗北に繋がった」

タクトは頷き、

「ティエがアホだった」

「それが最も分かりやすい表現だろう」

吉原は語った。

タクトの入院後、ティエに詳しく事情を訊いた。

ティエは昨年からダイバー・レイヴンのことを知っており、

「そのレイヴンが仲間になると言われて嬉しかった」

しかし、セレッソレアルの船内でキューウェル一味を相手に失態を演じた。

「あれがまず、ティエの心に1本目の釘となって打ち込まれた」

「仲間を守れなかった」と言う自責の念である。

「そして、君に人間性を揶揄されたことも少なからずショックだった」

「全然顔に出なかったぞ」

「代わりに2本目の釘になったんだよ」

ヴェンセールの応接室。

タクトと吉原のやり取りを見ていたティエは、

「生まれて初めて、体が震えるほどのショックを感じた」

そうだ。

「この男はなんて強いんだろう。どうしてここまで自分を保っていられるのだろう……とても信じられませんでした」

話をするティエの顔は、晴れやかですらあった。

「助けてやりたい、自由にしてやりたい……確かに私はそう思っていたのです」

タクトは「ああ」と声を上げ、

「だからあんなにキョドってたのね」

「迷ったらしい。自分が負ければ君を助けられるとね」

同時にそれは吉原への反逆を意味する。

「試合が始まっても、私は迷い続けました」

助けたい。

しかし、吉原には逆らえない。

「結果的に、彼の戦意喪失のフェイクを信じ込んでしまったのです」

クールダウンした戦意を一瞬で引き上げることは難しい。タクトの起死回生のフィニッシュブロー『黒雷』をまともに受けたのはそのためだった。

「体や技ではなく、心です。私より彼の方が強かったのは」

数多く打ち込まれた釘がティエの心を砕いたのだ。

「素晴らしい戦士です、レイヴンは。彼はあのまま見えない翼で空を自由に飛ぶのが相応しいのです」

タクトは驚かなかった。

藤島と共に推測していたことが事実だっただけなのだから。

「あんたは不満だろうけど」

と、言った。

「拾い物だろうと、俺の勝ちだからな」

「分かっている。約束通り、君を解放しよう」

吉原は落ち着き払い、

「40億円は惜しくない。綺麗に忘れられる」

「ホントかよ?」

「クロフネそのものには一筋ほども傷付かない。私が堪えれば済むことだ」

重い口調からは嘘や負け惜しみは感じられなかった。

「金はいくらでも取り戻せるが……君を諦めるのは難しいだろう」

と、息をつく吉原。タクトは目を尖らせ、

「何つった? 今」

「今回は私の負けだ。だが、完全敗北ではない」

吉原の声に力強さが戻った。

「まだ退かない。トウヤ君に一矢報いるまでは」

タクトは「チッ」と舌打ちしてから、

「ボスと闘うつもりなら、俺も相手になるぜ」

「いいとも、望む所だ」

かすかに笑い、

「それで君を手に入れられれば最高だ」

「面白え。やってみろ」

タクトも笑みを広げ、

「待ってるから」

「私も楽しみにしている」

吉原が立ち上がり、

「またいつか会おう、タクト君」

言い残し、出て行った。

吉原の足音が消えると、タクトはすぐに紙袋に手を入れた。いちご大福ときんつばを1つずつ頬張り、

「わほっ」

余韻に浸ってから藤島に電話をした。

「ボス? 暇ですか?」

『俺に訊くことじゃねえだろ』

タクトの話を聞き終えた藤島の第一声は、

『相変わらずしつこい人だな』

これであった。

「完全にストーカーなんですけど」

『お前も相変わらずモテるな』

「男は勘弁してください」

苦笑してから、

「ボスはティエについてご存じですか?」

『あいつか? 知りたいなら教えるぜ』

リー・ティエは台湾の高雄で生まれた。

父親は大手電機メーカーの技師、母親は主婦の片手間で飲食店の手伝い。他には兄が2人。高雄では『中の上』の安定した家庭だった。

7歳の時に「近所に先生がいるから」と言う安易な理由で太極拳を習い始める。

『幸か不幸か、ティエは100年に1人の逸材だった。10歳からは八極拳も学び始めた』

15歳の時、父親が白血病で他界した。ティエは生活を支えるために学業ではなく就職を選んだ。

『仕事をしながら八極拳は続けたわけだが、とにかく本人も驚くほどの上達ぶりでな。家族や友人ですら恐怖を感じたそうだ』

1歩間違えば、恐ろしい破壊兵器になるティエ。次第に孤立を深め、高雄にいられなくなった。

20歳で台北に出たティエは、日系商社ビルで清掃の仕事に就く。そのビルを時折訪れていたのが吉原だったのだ。

当時から裏事業に手を付けていた吉原が、ティエと言うダイヤの原石を見逃すはずがなかった。

『まずはクロフネの台北支社に入れて、普通に仕事をさせた。言葉も覚えられるからな』

本人が言ったように、25歳で来日。吉原の側近兼ボディーガードとなった。

『ティエは自分の力を恐れていた。だから、吉原と言う絶対的な存在に管理してほしいと思っているのさ』

「ボスとモストボイの関係とは真逆ですね」

『そこが成長の違いになったんじゃねえかな』

納得した。

(俺の強さはモストボイにもらったものだからな)

そのモストボイは藤島の唯一の『弟子』であり、『側近』。しかし、吉原とティエのそれとはまったく異なる。

(ボスとおっさん、2人の育て方の差がこんな形で出たんだな)

「ボス、すげえ」

『何だよ』

「俺、感動しました。ますますボスのことリスペクトします」

『やめろ、気持ちワリィな』

藤島は笑いながら、

『で、退院したらすぐに帰って来るのか?』

「いや、1日くらいゆっくりしようかな、と。初めての神戸ですから」

まずは三ノ宮駅へ「すぎの屋」を探しに行かなければ。

『それもいいだろう。ヴァレリがそうだが、俺ももうお前の心配はしないぞ』

「はーい、もちろんでーす」

2人を心配させるようなことがあってはならないのである。

「今回は、ボスの忠告をシカトした俺が全部悪いんです。でも、今はもう……ちょっとした冒険で片付けられますから」

『家に帰るまでが冒険だからな』

「はい、気を付けます」

電話が切れたが、今日もまたスマホを置けなかった。

(冒険。うん、そうだよな)

微笑する。

「ラスボスは倒せなかったけど」



8月17日、午前9時。

予定通りに退院したタクトは、その足で街中のビジネスホテルにチェックイン。荷物を置いて神戸の街に出た。

盆休みが終わった平日であっても、街は人と車で溢れ返っている。夏の日差しは手加減を知らず、あらゆるものが陽炎の向こうで揺れている。

「暑いな、ホント」

タクトはつぶやいた。クマゼミの鳴く街路樹の下で。

「鈴音にいたから尚更なのかな?」

三ノ宮駅前に向かい、人の流れの激しさに辟易した。駐車場で整理していた老人に声を掛け、琴ノ緒町の方向を教えてもらった。

昭和の佇まいを残す「すぎの屋」でさつま芋のきんつばを買い込み、人の少ない公園を探し当てた。

ここまで、約1時間半。

(やっぱり、気のせいじゃねえし)

きんつばを1つ食べ終えると、スマホを取り出した。

「千田さん、今大丈夫?」

『何だ、どうした?』

千田は不思議そうに、

『退院できたんだろ?』

「なんだけど……病院出てからずっと、誰かに尾行されてる感じがするのね」

正しくは確信である。

「あんたらじゃないよね?」

『俺が何も知らないってことはウチじゃねえな』

千田はますます困惑して、

『ちょっと社長に訊いてみる。後でまた掛け直していい?』

「いいよー。よろしくねー」

吉原ではないとすると、タクトには心当たりがない。

(俺が神戸にいることを知っている連中、だとしたら)

あの船しかないだろう。

(また俺、狙われちゃってる?)

他人が落札した商品を横取りしようとする者が、実際にいたのだから。

(鈴音に帰る前にケリつけたいな)

そう思ってわざと人のいない場所を選んでみたが、何もない。

ただ、どこか遠くから視線を感じるだけだ。

(今はまだ様子見?)

きんつばを3個平らげると、ベンチから立って公園を後にした。

北野界隈を歩き回り、西洋風の館を眺めている時だ。

千田から電話が来た。

『社長は「心配ない」って。何もないわけじゃないけど、そんなに悪い結果にはならないって』

「何それ」

『まあ、誰かに拉致られることはないんじゃない?』

千田の声も明るい。

『ちなみに今はどこ?』

タクトは辺りを見回し、

「えーと、バス停に『北野異人館』って書いてある」

『加納町と書かれた陸橋を見たら、ちょっと裏に入ってみな。「マルヨ食堂」って言ういい店がある。六甲荘の近くだな』

「おいしいの?」

『何を頼んでもOKだ』

吉原の言葉では納得できないが、

(心配しなくていいのかな)

深く考えることなく、再び歩き出した。

正午近くになり、暑さが限界に達しようとしていた頃である。

裏通りに、隠れるように建つ「マルヨ食堂」を見付けたのは。

昔ながらの町屋を現代的に改装したらしい。格子戸を開けると、半分以上の席が埋まっていた。しかも観光客ではなく、地元の住人ばかり。

(なるほど、当たりだね)

タクトも観光都市・川越の出身。所謂「旅行者向け」と「地元向け」の違いは知っている。カウンターの席に座ると、

「いらっしゃい」

40代の主人が前に立った。夜になったら狼男に変身しそうな面構えだったが、

「大将が1番得意なのは何?」

の問いに、温かい笑みを浮かべた。

「トンテキ定食でええか?」

「よろしく」

周りを見るとバラバラだ。カツ丼を掻き込むオヤジ、カレーうどんを啜る老人などで、千田の言葉は本当なのだと分かる。

待っている間にも人が増え、戸の開く音と「いらっしゃい」が止まらない。

「よう」

隣りに誰かが来た……と思ったら、千田である。

「こう言うこと?」

呆気に取られるタクト。

「おっちゃん、いつもの」

千田は機嫌良く注文してから、

「こんな店、神戸では貴重だからね」

「えらく長いランチタイムだな。会社から距離あるでしょ」

「こんなもんだって。仕事がない時は」

トンテキ定食が置かれた。香りだけで「大当たり」だと分かった。

「まあ、明日から有馬温泉に行くんだ。大物政治家の警護」

と、千田が言った。

「あんたの方が曲者っぽいよ」

「そこが狙い目」

タクトは千田と笑い合った。

「なあ、木之前」

「ん?」

「考え直すつもりはねえか?」

タクトは箸を止めず、答えることもなかった。

「……まあ、こんなこと言う方が間違ってるんだろうけど」

千田の声は真剣だった。

「この仕事、お前に向いてるんじゃねえの?」

それは否定しない。

しかし、タクトには別の考えがある。

「千田さん、なんで俺、プロにならないか分かる?」

「そうだよな、なんで?」

千田がこちらを見た。

主人が千田の前に鶏の唐揚げ定食を置いた。

「お前だったら絶対売れっ子になれるよな。それとも、やっぱり……」

「『アレ』もないわけじゃないよ」

タクトは丼を置いて、

「俺、好きなものを仕事にするのって抵抗あるのね」

「ああ」

千田にも心当たりがあるようだ。

「仕事は仕事、趣味は趣味?」

「そうそう。仕事と趣味って同じと考えちゃいけないと思うんだ。もしも……戦うことを嫌いになったり、できなくなったりしたら……俺には何も残らなくなるじゃん?」

これはダイバーを引退した理由とも重なる。

「んー、そうか」

大きく頷く千田。

「だから、仕事は全然関係ないことをやりたい。働くのは嫌いじゃねえし。何だってやるし」

タクトが再び箸を動かし始めると、

「お前の言うこと、半分正しい。俺も見たからな。『戦うことができなくなった奴ら』を」

千田の声が低くなった。

「そんな連中だよ」

「何が?」

「自分で選んであの船に乗ったのは」

ハッとした。

チスンの言った「吉原が提供した商品」。

吉原の言った「旅立って行った4人」。

(こう言うことか)

「デニスみたいに悟りを開いて戻って来た奴もいるけど……出て行ってそのままだよ、ほとんどは」

「……そうか」

「だから……うん、今は俺もこれ以上言わない」

千田が笑った。

「がんばれよ」

「ありがと」

タクトも笑った。

「それにしてもうまいね、このトンテキ」

「柚子胡椒が決め手だな」

食事を終え、立ち上がった。何しろ、外には行列ができている。

「じゃあ、また」

「ああ」

今度の千田の笑い方は、今までのものとは大きく違った。

「次は敵かもしれねえぞ」

タクトは答えた。

「そう願いたいね」

店の外に出たものの、これからが最も暑い時間帯である。

アスファルトさえ溶けそうな空気の中で、さすがにタクトも肩を落とした。

「買い物していればいいか」

三ノ宮駅前に戻り、百貨店を巡ることで暑さを回避した。

新しいTシャツと『三毛猫ホームズ』を買い、午後3時にはホテルに戻って来た。

夏休みに空室があるくらいなので期待はしていなかったが、予想した通りの安宿だ。狭い部屋にベッドとテレビ、ユニットバスがあるだけ。壁紙は色褪せ、カーペットに染みができている。

「俺はこんな部屋が1番落ち着くな……」

デスクの上に買い物の袋を置いた時、アルミの灰皿に気付いた。

「あれ……そう言えば俺、タバコ吸ってねえし」

最後に吸ったのは8月7日の朝。

素直に驚いた。今の今まで、まったく苦労せずに禁煙していたのだ。

「もともと、そんなに吸う方じゃないけど……」

タバコよりもあずきバーの棒を咥える方が多かった。思い出したからと言って、水色のメビウスを買おうとも思えない。

「もうやめようか」

ダイバー仲間にはタバコをやめた者も大勢いる。その1人になるのは悪い気がしなかった。

「じゃあ、ちょっと……」

安物のベッドカバーをめくり、これだけはきれいな白いシーツに寝転がる。

「ひと休み……」

目を閉じるとすぐ、眠りに落ちた。

今度は夢も見なかった。

再び目を開くと、窓の外はオレンジ色に輝いている。

午後6時半を確認して、ベッドから下りた。

「さあ、行くか」

ホテルを出て、足の向くままに歩く。

昼間の暑さは和らぎ、日が沈むにつれて喧噪も遠ざかって行く。街の背後にそそり立つ山の縁は、もうすぐ夜の色に飲み込まれる。

昼から夜へと変わって行く神戸の街。

その中で、遠くからの視線だけが変わらない。

(そろそろ何かあるかな?)

土地勘のない街である。

「おっ」

足を止めたのは、どう歩いたのかも分からない広い公園。港に面して芝生が広がり、人も車も近くには来ない。まさに絶好の場所。

昼間は家族連れなどもいたのだろうが、日没後とあっては犬の散歩さえ疎らだ。

「いいね。ここにしよ」

蛾の集まり始めた街灯の下にスニーカーと靴下を置いて、素足で立つ。

いつものように時間をかけてストレッチを行う内に空は夜の支度を終えた。

海と陸の騒音は、今となっては潮騒程度にしか聞こえない。車道や遊歩道を時折人が通るが、タクトには興味がないようだ。

約20分のストレッチの後に始まった。

「ヤッ!」

右ジャブ、左ストレート。

右エルボー、左ボディブロー。

右アッパー、左バックナックル。

「ホゥ!」

右ミドル、左ミドル。

右ハイ、左ハイ。

右ニー、左ロー。

(よし、いつもの通りだ)

入院中も、できることはやった。

感覚さえあれば、体はちゃんと動いてくれるものだ。

(いい感じ!)

背中越しに街灯との距離を測り、

バシッ

柱を蹴ってジャンプ。体になじんだ感覚だ。

「OK」

着地と同時にもう1回跳んだ。空中で柱を蹴った。

ドンッ

大きく揺れた街灯の周りから、一斉に蛾や羽蟻が離れる。

「んふっ、これこれ」

タクトは着地して、両拳を打ち合わせた。

「ウォーミングアップが終わったんだけど……どうかな」

まさに直後だ。

ゆらり。

ゆらりと。

夜の闇が人間の形に切り取られたのだ。

「おっ?」

タクトは目を凝らし、4つの影を確認した。近付くにつれて詳細も分かって来た。

4つとも気配はそこそこ大きい。少なくとも、素人ではない。

姿は見事にバラバラだ。

1人はスキンヘッドの白人。夜なのに黒いゴーグルを掛けているのは、全盲なのだろうか。

1人は逆に黒人の小男。腕が体の比率に対して長く、前屈して歩いている。

1人はアジア系。もしかしたら日本人かもしれない。よく見たら、左脚が陸上競技用の義肢だ。

1人は大男。多分欧米系だろう。上背は2メートルに届いていると思われた。歩いて来る様は「妖怪ぬりかべ」さながらだ。

全員、日本の街を歩くに不自然ではない格好をしている。ありふれたシャツやタンクトップ、ジーンズやリネンパンツ。

ただ、気配が不自然ではあるけれど。

(敵意や殺意はない。むしろ好意的)

例えるなら、保育園の休み時間。子供たちの第一声は「遊ぼう」だ。

そう、「遊ぼう」。

「遊ぼう」と言っている。

ガチでやろうと言っている。

きっと楽しいよ、と。

(いいね、こんなの大好き)

タクトの胸にとても懐かしい衝動がやって来た。

「誰か、言葉分かる?」

尋ねると、答えたのは義肢の男だった。

「相手が欲しいんじゃないかと思って」

微笑しながら。

「んふっ、分かってるじゃん。あんたの名前は?」

タクトも笑いが止まらない。

「日本での名前は捨てちゃった。今はブラストって呼ばれている」

「へえ、カッコいい」

タクトは男たちの正体に気付き始めている。

(マーティン・キューウェルだな)

やはり自分を『お持ち帰り』したいらしい。

(でも、その割には雰囲気が楽しいんだけどね)

「やろうか」

ブラストが前に出た。次の瞬間には飛んだ。

「わほっ」

速い。

大きなジャンプでタクトの目の前まで来た。その次の右ハイも避けられないスピードだ。

(うわっ、まさに疾風……ブラスト)

アヴァロンのダイバーにも、ここまでの速さはいない。顔をかすめる風の音が甲高い。

(あの左脚のせいかな)

閃いたキックを流し、間合いを詰める。しかし、ブラストはすぐにすり抜けて行く。

スピードタイプは、タクトが最も苦手とする相手だ。

「んっ!」

一瞬。

その一瞬に救われた。左脇腹への右ミドルを止めた。

クリーンヒットではなかったが、重い余韻が肺の底に溜まった。

(本気でやらないと)

タクトは目を見開いた。

右斜めに、間合いを取り直しながらステップ。

ブラストも付いて来た。右足を置き、次に左足を……

ガシッ

払いのけた。タクトの両脚が。

「えっ?!」

地面に手を突き、両脚を振り上げたのだ。

(ラッシュの得意技ね)

親友・ラッシュが遣うカポエイラのキック。

威力も絶大だ。ブラストは大きく弾かれ、背中から倒れた。

タクトはすぐに飛び付き、上半身全体を使ってブラストの右肩を抱え込んだ。ここからなら、キムラロックや腕十字などいくらでも持って行ける。

「よく見えたね」

ブラストも分かっていたらしい。こうなっては勝てないと。

「降参」

微笑しながら言ったので、タクトも手を緩めた。

「俺をさらいに来たんじゃないの?」

他の3人が見ているだけなのが不思議だった。

「違うよ」

ブラストは地面に座り込んだまま、

「そんな心配はしなくていいからね」

後ろに巨大な気配。振り向くと、あの大男だ。

白いTシャツの下に筋肉の陰影が見える。この体は脂肪だけでできているわけではなさそうだ。

「そいつはタンク」

タンクが拳を投げた。タクトの鼻先をかすめた。

(外見そのままね)

典型的パワーファイター。傍目には大人と子供の勝負に見えるだろうが……

(俺、こんなのが得意だし)

振り回される両拳をかいくぐり、右ローキック。

「ホゥ!」

まず、左の脛。タンクが眉をひそめた。

「わわっ」

反撃の右足を慌てて受け流し、

「オラッ!」

そのままエルボーをぶち当てた。うっ、と呻き声が聞こえた。

両脚のダメージでタンクの腰が沈んでいる。頭の位置が下がっている。

(やるぞ)

再びタンクの左拳が落ちて来た。タクトは動いた。

前へ。タンクの懐へ。

下腹目掛けて左足の爪先を叩き込む。うっ、と2度目の呻き声。

左脚に力を注ぎ、跳んだ。

タンクの頭が目線の下にあった。

右ミドル、一閃。

確かな反動を残し、タンクの姿が消えた。

着地したタクトの前に長々と倒れていた。白目に夜空を映しながら。

「次はJJだ」

ブラストがJJと呼んだのは黒人の小男だった。身長はわずかにタクトより低いが、

(パンチは外見以上のリーチだな)

ブンッ

その長い右腕が飛んで来た。まるで鞭のように。

「んっ!」

顔前でブロック。ズンッ、と重かった。

(あ、パワーも外見以上?)

あまり逞しいと言う印象もないのだが。

「イャッ!」

タクトの右ミドルを、左腕を折り畳むようにして止めた。その体勢から、

「っ!」

右腕が伸びた。左脇腹に鉄槌を打ち込まれ、一瞬呼吸を忘れた。

「そこから来る? 怪物くんかって!」

「古くない?」

ブラストに突っ込まれながら、タクトは間合いを取り直す。予想よりも大幅な修正が必要だった。

JJは動じない。タクトが広げた分だけ、前進する。

1歩、2歩と。

タクトもまた動く。

1歩、2歩、3歩。JJがついて来ることを望みつつ。

果たして、JJは応じた。

1歩、2歩……3歩目。そこで気付いただろう。

自分の失敗に。

「おっ!」

声を上げたのはブラストだ。

JJは既に地面に倒れ、タクトは何事もなかったように立ち直す。

(見えたかい?)

街灯の柱を蹴るタクトの姿。JJにはどう見えただろうか。

不吉なワタリガラスだと思えただろうか。

直後には胸へのドロップキック……『闇吹』で昏倒することになるのだ。

「最後はライアンだよ」

ライアンと呼ばれた男は、タクトと対峙して一礼した。

「まさかサンボ遣いじゃないよね?」

「いや、グレイシー」

「ありゃ」

サンボとグレイシー柔術は同じではないが別物でもない。

どちらも祖先は柔道。ロシアとブラジルで独自の進化を遂げた。

(グラップラー同士でやり合うの、久しぶりね)

タクトは構えを変えた。やや前屈、両手を広げたグラップラースタイル。

ライアンも同じだ。ゆっくりと息をしながら立っている。

(モストボイがそうだけど、フェイクやフェイントが使えないんだよね)

目で判断しない分、他の感覚が鋭敏になるらしい。

(全然隙がねえし)

タクトは少しずつ左右に移動するが、ライアンの顔さえ動かない。

突然だった。

タックルが来た。

「おっ!?」

低く、速い。背中が芝にぶつかった。四肢を掴まれることだけは避け、

「くそっ……!」

起き上がった。

ライアンは尚も腕を取りに来た。

無意識だった。

タクトの両手がライアンの両上腕部を掴み、足を投げ出しながら、

「ィヤッ!」

体の下に潜り込むようにして叩き付けた。

ライアンは大の字になって倒れた。

(ヤプリンチェフ・スペシャル。体が勝手にやったぞ)

感動に力を得て、ライアンの右脚へ。

両脚で挟みながら、足首を握った。サンボでは基本となるアキレスホールド。

ライアンが苦悶にのけぞった直後、

「ストップ、ストップ」

ブラストではない声。タクトが手を離し、立ち直すと拍手に変わった。

振り返ると、白いスーツ姿の老人が立っていた。白人のように見えたが、

「いや、素晴らしい」

流暢な日本語。

「あんたがマーティン・キューウェル?」

タクトの問いにも、

「初めまして」

ニコニコと頭を下げる。こちらも拍子抜けすると言うものだ。

「まだ日本にいたの?」

「そりゃ折角来たんだ。温泉に入りたいし、祭りも見たいし、芸妓と遊びたい」

キューウェルは上機嫌で答えた。

「ついでに俺を土産に?」

「正面からやりあって君に勝てるとは思っていない。闘う所を見たかったんだよ」

無造作にタクトに近寄り、両手を差し出す。

「ファイトマネーだ。これだけしかなくて悪かったね」

福沢諭吉が5人いた。

「十分だよ。楽しんでもらえて嬉しい」

キューウェルは次に4人を見回し、

「ご苦労。先に戻っていなさい」

ブラストが手を振り、4人は再び闇の中に溶け込んだ。

(このじいさんも、あんまりまともじゃないな)

が、タクトの見解だ。

刑務所のサンプルで言えば、偏執狂や愉快犯に多いタイプ。

(吉原のおっさんよりは分かりそうだけど)

「それに」

と、キューウェルが頭を動かした。

「新しい運転手も君のファンでね」

「え?」

その先。遊歩道に黒いスーツ姿が立っている。小柄で、金色に染めた髪を丁寧に整えた男だ。タクトと目が合うと微笑した。

(木村クニヒコだ)

「旦那さんが買ったの?」

「私の大嫌いな連中が、大嫌いなことをしようとしたんだ」

キューウェルは笑顔のまま、

「日本人をテロリストにしようなど、けしからん。私がもらっておいたよ」

話が見えた。

「うわぁ、ありがとう。旦那さん」

タクトの口から出た感謝は、全身から溢れたものだった。

「穏やかで繊細で、従順。一緒に暮らすなら日本人が1番だ。そうじゃないかね?」

「あ、ちょっとそれは分かんない」

タクトは苦笑して、

「他の日本人がどうなったか知らない?」

「そうだねぇ……心配いらないと思うんだが」

キューウェルも詳しく把握しているわけではなさそうだ。

「人生はそのものが冒険。どこにいても変わらないのではないかな」

ああ、と思った。

「そうだよね。日本にいれば安心ってわけじゃねえし」

「人間には2つのタイプがある。こんな話を知っているかな? 支配する側とされる側だ」

「うん、知ってる」

「上出来だ」

キューウェルのタクトを見る目は、祖父が孫に向けたそれとよく似ていた。

「しかしね、私は3つ目のタイプがあると思っている。どちらでもない中間のタイプだ」

「へえ、そうかな」

タクトは小さく首を傾げた。

「私と吉原は支配する側が好き。ティエやブラストたちは支配される側が好き。では、君はどちらかな?」

再度、ああ、と思った。

言われてみたら分からない。

(するのもされるのも……ピンと来ないな)

タクトの困惑を、キューウェルは楽しそうに眺めていた。

「ほら、御覧」

「まずいのかな、これって」

「どちらも味方になり、どちらも敵になる。君が選ぶことだよ」

納得して頷いた。

「ためになる話をありがとう」

「『支配される側』を試してみたかったら、ブリスベンにおいで」

どこまでも機嫌のいいキューウェル。

「マーティン・キューウェルに会いたいと言えば、すぐに迎えに行くよ」

「それって、1日体験で終わらないんじゃね?」

タクトも笑みを広げ、

「何か企んでるでしょ?」

「君も嫌いじゃないと思うんだが」

と、キューウェルの足が動いた。

「いつでも待っているよ。では、失礼」

「バイバイ」

歩き出した背中に手を振る。木村にも向けると、笑顔で返って来た。

(良かった、悪くない生活みたい)

2人の向かう先を目で追うと、車道に止めた黒い大型のセダンと同じ色のワンボックスカー。やがて、2台揃って走り出した。

「悪い結果にはならなかっただろう」

声を聞いた。タクトは驚くことなく、

「俺、これからもまた狙われるのかな」

「今回のメッセ以外にも様々な連中がいる。否定はできない」

言いながら、吉原が隣りに立った。

「社会と繋がるしか対策はない」

「やっぱり?」

「それなりの会社に入る、自分の店を持つ、家族を得るなどだが」

タクトも吉原に顔を向けた。

「君の場合はプロになるか、ダイバーに復帰すればいい。またトウヤ君と丹羽さんが守ってくれる」

「うーん……」

チスンと吉原は内容としては同じことを言っている。

(結局俺は、アヴァロンから離れられないんだろうな)

目の前に1万円札が差し出された。

「何これ?」

「チップだよ。私にとってもいいものを見せてもらった」

この男に遠慮することはない。

「じゃ、ありがたくもらっておく」

と、受け取った。

「晩酌の足しになるといいのだが」

吉原が離れ始めた。

「私の考えは変わらない。またいずれ会おう、タクト君」

「あんたのしつこさ、病気じゃね?」

吉原は低く笑い、車道脇のクラウンへと向かう。傍らの巨大な影はティエだろう。吉原が中に入るとティエも入り、去って行った。

疲れたわけではない。

ダメージも大したことはない。

それなのに。

タクトは動けなかった。

どこか高い所で飛行機の音がしている。

今、この瞬間にも。

誰かが高い所から誰かを見下ろしている。



例えば。

藤島トウヤとヴァレリ・モストボイ。

ヤン・マイスネルとゼニス。

吉原ジュンイチとリー・ティエ。

マーティン・キューウェルと木村クニヒコ。

それぞれに『支配』の関係がある。色も形も異なるけれど。

(俺とモストボイは『師弟』に違いないけど)

タクトは考える。

鈴音駅発のバスに揺られながら。

(『支配』とはちょっと違う。ボスともそうだよな)

アヴァロンでの立ち位置も微妙だ。どのダイバーにも尊敬されるが、どのダイバーにもいじられていた。

(俺、マジでどちらにもなれねえか)

『次は、下小野……』

「おっと」

普段あまり乗らない路線なので、うっかり通り過ぎる所だった。

バスを降りて、振り返る。ドラッグストアの向こうにモカブラウンのマンションが見える。

「うわー、帰って来たー」

8月18日、午後4時。

実に20日振りの帰宅である。

まだタクトには宿題があった。

「友森さんにはどう説明しよう……」

案外、「修行の旅」と言えば分かってくれそうな気もするが……

「結構変わったな」

セミの声はアブラゼミからミンミンゼミに変わり、ヒマワリや朝顔も色褪せ始めている。神戸より控えめな陽炎を踏み、自宅マンションに向かった。

共用口のポストで立ちすくんだ。

投入口から紙片がはみ出し、風雨でペラペラになっている。

「半月分だもんな……」

ダイヤルを回してポストを開けた。電話帳のように見えるが、チラシや情報ペーパー、ダイレクトメールである。中には求人情報やキャバクラからの暑中見舞いも混じっているので、このまま捨てるわけには行かない。

「やれやれ」

肩を落とし、ズシリと重い紙の束を取り出した。

ハラリ、と。

1枚の紙が飛び出した。

「あっ」

拾い上げようとして……止まった。

「何だ、これ?」

眉をひそめて、

「すっげえ嫌な予感がする……」

タクトはつぶやいた。


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2016年2月。

冬のメッセがギリシャのサントリーニ島で開かれた。

1人の男が注目された。

メッセを運営するメンバーだったが、自ら志願して商品になった、と。

日本の吉原ジュンイチが破格の入札希望額を付けたものの、最終日に見事勝利して自由を得た。

ギリシャから故郷の韓国に戻り、その後の行方は分からない。

噂では日本の二重国籍があり、テコンドーとキックボクシングの2つのスタイルを使い分けたと言う。



レイヴンへ。

ここへ来て半年。手紙を出してもいいそうなので、書いている。

俺のことを忘れないと言った、それを信じてのことだ。

俺を買ったのは、明るくて気さくなオヤジ。よく分からないけど、俺のことを「勇敢だ」とか「ガッツがある」と褒めてくれた。

そのせいかな、悪くない環境だ。

アフリカのどこかにある鉱山で、ダイヤモンドを掘る作業だ。肉体労働だけど、休む時間もたっぷりある。日本のブラックバイトの方が奴隷に近い扱いだった気がするよ。

食事は初めの内苦労したけど、もう慣れた。作業する仲間たちも似たような境遇だからすぐに仲良くなった。みんな、日本人が珍しいみたいだ。

息抜きは、満天の星空を眺めながらビールを飲むこと。

日本に帰れるのか分からないけど、あまり気にしていない。

そんなに幸せではないけど、不幸でもない。

昔、何かの本で読んだ言葉を思い出す。まさにそのままだ。

いつかまた逢えたら教えてほしい。これ、誰の言葉だっけ?

『自分には幸も不幸もありません。ただいっさいは流れて行きます』


(2016年3月、『鈴音市 クラブ・アヴァロン』宛に届いた、ナイロビの消印の手紙。署名はない)


                        《完》

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