(タイトル未定)

おしん
@16O2_shin

名を呼ぶ声

 ある男は、可哀想な幼少期を過ごした。

 男の名は、『  』と言い、母の愛情深い温もりに包まれ、父の大きく安心する背に付いて行くものだ、と信じて止まなかった。


 だが、五歳が過ぎる頃、『  』の見ていた世界は、一変する。


 父と母――赤子の弟を連れて、遠出をした時の事。

 『  』は、どこへ行くのですか、と拙い言葉遣いで、父に尋ねた。

 すると、太く低い声で、挨拶に行くのだ、告げた後。言葉は続いたが、『  』の記憶には残らず。やっと座るようになった可愛い弟が母に抱っこされ、目に映る全てが新鮮だ、と言うように、『  』には理解できない言葉で、母に尋ねる。

 そうよ、あれは鳥さん。あれは、蝶々さん、と優しい口調で答える母の姿に、『  』は、すごい、と感心した。

 『  』には、とても楽しい記憶とする筈だった。

 だが、『  』の目に映したのは、これまで晴れ渡っていた空が、雨を齎す雲を呼んだように薄暗い景色。草木の緑とは無縁の赤を象徴する血が辺りを、『  』を染めた。

 汚らしいしゃがれた声を上げ、光を受ける尖った刃は、『  』の目でも数えられる程度。

 父の大きな背は、こんなにも小さかっただろうか。

 刃を交える父と大柄な男たちを目に焼き付け、母の温もりを感じながら、『  』は思う。

 数は少ない。だが、あまりにも父は、守るものが多すぎた。

 だからか、父の顔は記憶にすら残ることなく、真っ赤に染まり、逃げろ、と叫ぶ声だけを残した。

 弟は、聴いたことのない男の声に泣き叫んで。大丈夫、大丈夫だから、と弱弱しく掠れた声で告げる母の声と、庇う手の震えも、鮮明に残す。

 母の手に引かれ、走り出したのは、覚えていた。

 だが、その先には、薄汚れた衣を着て、嗤っている男たち。

 その姿に、『  』の背中に何かが走る。

 ――恐怖だった。

 男たちが見ているのは、幼い、『  』でも、赤子の弟でもない。女である、母。

 母の手の温もりは、一層、強さを増して、温もりを記憶させた。

 しかし、『  』の記憶には、父と同様、母の顔も記憶には残ることなく、温もりが離れる感覚を印象付けた。

 確か、父の声が聞こえ、怯える自分たちを庇ったように思う。

 いや、斬られてしまったか――生い茂る草を蹴って、我武者羅に駆け出してた血に濡れるつま先と道を成さない緑ばかりを映した。

 走り出したのは、誰かに背中を押されてたのかも知れない。

 母だったか、父だったか。

 耳を突いて、離れなかった弟の泣く声。

 息をしているのか、泣いているのか、何を思っているのかさえ、全てを奪われてしまった感情は、脚を滑らせ、岩肌を晒す坂道に転がり落ちた、と同じく、闇が覆った。


 『  』は、五歳にして、全てを失くした――。


 帰る家はあった。

 だが、走り出した脚は、止まる術を知らず。闇に奪われた感情を戻すことも、痛みも、震える体も、呼吸も、何をどう感じ、考え動いているのか、何も解らなかった。

 いや、理解してしまえば、壊れるのは目に見えていたのだ。

 だから、『  』は、生きる為に記憶から消すことを選ぶ。

 『  』は、いつ立ち止まって、どれだけ蹲っていたのか。

 少しの間だったかも知れないし、一日、二日。いや、一週間、一ヵ月。

 必然と腹の虫が鳴いた時だったか、体の訴えで、何かを吐き出した時か。

 辺りには、大きな木々に囲まれ、足元には湿った土に太い根が這い、小さな虫が往来し、苔を生やした枯れた木が寝ていたのは、記憶する。

 いいや、『  』にとって、そのような小さなことは、どうでもよかった。

 ただ、消し去りたい、と本能で告げるのだ。

 死を恐れ、生きることに怯える。

 どうすれば、助かる。どうすれば、助けられた。どうすれば、男たちを殺せた。

 幼い、『  』の中で、蠢く感情は、負となり、積もっていった。

 生きなければならない。誰が言った訳でもなかった。

 ただ、本能で生きようとする。

 理由などない。理由があったとしても、幼い、『  』には、教えられていなかった。

 ただ、生きる他ない。

 それだけなのだ。


 『  』は、ひとり彷徨い続けた。

 一年だったように思うし、二年だったようにも思う。

 現実に考えて、五歳の幼子が生きていけるのか――それは、否。

 運が良かったのだろう。ただ、その運とやらには、獣に襲われ、悪い物を口にし、嗤う男たちに追いかけられ、死に掛けた、と云う、生きる実感を味わえば、の話。

 しかし、本当に運が良かったのは、獣に襲われ、脚に深い傷を負った時。

 これは同時に、『  』が、『  』であった、最期を指した。


 『  』は、自分が彷徨う地が、何処であるのか知らなかった。

 いや、父や母から教えられていたかも知れない。

 消し去ろうとする中、振り返る発想がない、『  』は、獣に食べられるのだろう、と死を覚悟した。

 しかし、『  』の記憶には、不思議と獣に恐怖を覚えなかった。

 何故か。

 自分と同じ、と感じたからだ。

 獣は、数匹の狼であった。

 歯を剥き出しにし、うなり声をあげる姿は、嗤う男たちより、とても純粋に感じた。

 自分が腹の虫を止ませる為に取った行動は、『  』自身でさえ、恐怖を抱いた。

 小さな生き物が食べる何かの実。最初は、迷った。次に、石を投げた。石は、太い枝に変わった。必ず成功するとは言えない手段は、生きる術となり、奪うことを覚えた。

 ここで、疑問だ。

 『  』は、森か山で彷徨い続け、人と出会うことはなかったのか。

 答えは、否。

 人と出会う機会はあった。しかし、人との出会いに、運は付いていなかった。

 お腹が空いて、『  』の体は細くなり、泥と土塗れ、汚かった。

 家らしき建物を見つけて、住まう人に助けを乞うた。

 だが、そこに暮らす人々も生きるのに必死だったのだろう、『  』を罵り、突き放した。

 悲しかった、寂しかった、怖かった、知らなかった。

 そこで、『  』は、覚えた。

 助けを求めてはいけない、と。

 そして、寝床としていた、小さな洞窟への帰り道。

 『  』の最期は、訪れた。


 疲れ切っていた。

 五歳の身に起こるには、あまりに過酷で。

 ゆっくりと近づく狼の瞳は、『  』の記憶に深く残る。

 だが、何故だろう。狼の純粋な敵意は、不意に消え失せた。

 『  』は、泣いていた。

 何を思っていたのかは解らない。

 ただ、泣いていた。

 それに狼は、思うことがあったのか、背を向けて去っていった。

 『  』の記憶は、定かではない。痛みと疲労、空腹から、意識は朦朧としていた。

 数匹を連れる頭であろう白のような銀の色をした狼。その狼は、離れた場所で、振り返る。

 何かを語り掛ける金色の瞳。理解は出来ない。

 それでも、『  』には、生きろ、と言われた気がした。

 『  』は、独り彷徨い、初めてむせび泣く。

 母の温もりを求め、父の広い胸に縋る時のように。

 生きることを望まれた、喜びが胸を激しく叩いた。


 『  』の感情は、闇の底に溶けゆく中、純粋な声は届く。

 ひとりの男に拾われたのだ。

 父の面影を重ねるに近しい人物。これまで人との出会いを避けた、『  』だったが、途切れることのない言葉。大丈夫だ、助けてやる、もう泣くな、痛むか、寝てもいいぞ、と父の声より少し高く柔らかな低い声は、抵抗を覚えた筈の体は震え、縋るように男の衣を強く握る。

 『  』は、久しぶりに落ち着いて眠りに就いた。

 次に目を覚ましたのは、悲鳴と云うべきか、驚きと云うべきか。

 悲鳴と感じたのは、過酷に埋もれた記憶から。何かの恐怖となって、『  』を襲う。

 『  』が、大きく目を開いて、映し出したのは、ひとりの女。

 何処か、母の面影を重ねるのは、拾った男の妻であるからか。不思議と熱となって込み上げるものが、涙と云う事。また、それが悲しみ、怒り、理解を超える感情から流れるものだと知るのは、温かな食事と何の恐怖も抱くことなく、眠りに就くことが許された蒲団の中であった。


 『  』は、出来るだけ伝えた。

 自分が遭遇した悲惨な出来事。どう生き長らえたか。

 そして、夫婦から、与えられたものは、労いではなく、強い抱擁。

 男の妻は、涙を流しながら、ただただ、『  』を抱きしめた。

 男は、掛ける言葉を失くして、見守るに徹した。それが、唯一、自身が出来ること全てであるかのように。

 『  』は、男とその妻の行動が理解できなかった。

 ある者は、家族を殺し、ある者は、『  』に酷い言葉を投げ、ある者は、長い棒を振り翳してきた。

 『  』には、家族以外の全てが、そうである、と思った。

 なのに、何故。何故、涙を流すのか。

 何故、『  』自身も泣いているのか。

 怖かった。悲しかった。もう自分を優しく包んでくれる温かな手がないことに。

 『  』は、知った。

 涙の訳を。悲しさ。恐怖。怯え。切なさ。温もり。

 そして、心を掻き毟る何か――それが怒りであることは、幼い、『  』には、理解することは出来なかった。


 男は、決意した。

 自身の子らと同様、立派に育てて見せる、と。

 五歳と云う幼さで、生き抜いた力。それこそが、『  』の天性である。

 男には、『  』の将来が見えていたのかも知れない。

 いや、単にどう成長していくのか、純粋に気になったのかも知れない。

 男は、『  』に述べた。

 俺の子になれ、と。

 『  』を家に上げ、痩せこけた強張る表情から、初めて幼子らしい表情を垣間見る。

 しかし、その瞳の奥に潜む、闇か光か――引き締められた表情は、決意を示す。

 その瞬間、『  』の強さを改めて見つめ、男は深く頷いた。

 そして、『  』の人生を定めた言葉を告げる。


「今日からお前は、趙雲と名乗れ」


 それが、『  』の最期で。

 趙雲と云う男の、誕生であった。