オイディプスの告解

五六八@モブ子
@Verweile_D

病院

ある日いきなり父は倒れた。

病室で横になった父は、朝家を出るときに向けてきた笑みとは似てもにつかぬ顔で、こちらへ歪めた表情を向けた。きっと本人は笑ったつもりなのだろうが、上手く動かせない目や口のせいで、大層苦しそうに見えた。

脳梗塞だった。

ほぼ全身が麻痺し、唯一動かせたのは右手首から先。意識ははっきりしていたのが逆に不幸だったのかもしれない。彼の右手にすがって泣く母を、やっぱり苦しそうな目で見ていた。そのあと視線が動いてこちらを見たのは知っていた。目は口ほどに――その時は口よりも物を言えて、多分、自分に助けを求めていたんだろう。それでも自分は、母の肩を抱くこともできず、その手を解すこともできずに立ち竦んでいる。ただ唐突に、思い出したかのようにユニフォームの端で鼻に滑った汗を拭った。顧問に引きずられるようにタクシーに乗り込み学校から直接病院に来て忘れていたが、着替えも何も持っていなかった。清潔で殺菌された病院の空気の中で、自分だけが汗臭かった。けれど、その嗅ぎ馴れた匂いだけが自分と日常を繋ぎ止めていたのだと思う。


父はそれからずっと家に帰れなかった。

容体も不安定で、在宅看護ができる準備も家には無かった。病院にいてもらうことが父にも、母にも最適解だったことは間違いない。最良だったかは、分からない。

親がそんな状態だったから、自然と部活に行ける日が減った。チームメイト達は異口同音に心配し、慰め、励ます言葉を吐いた。そして最後は大体、こっちのことは気にするな、で終わった。それはいつだって優しく、しかし確実に自分と仲間の間に溝を掘っていった。あれだけ溜まっていた部室から次第に足は遠くなってしまった。

その代わりと言ってはなんだが、縁が深まった人たちがいる。父の兄弟である。

父にこんなに沢山の兄弟がいたなんて――しかも多胎だったなんて――この頃に初めて知った。父の見舞いに行けば必ず、兄弟の誰かしらがいた。本当に最初は全く見分けが付かなかった。病室を訪ねた折、ベッドに横たわる父と全く同じ顔がパイプ椅子座っていて、冗談抜きで腰を抜かした程だった。しかししばらくすると二言三言会話をすれば気付くようになり、その内見れば分かるようになった。巧妙に作られた粗悪品のようだと、なにかのときに思った。

一番数多く訪ねてくれたのは、父の唯一の兄だった。多胎児に兄弟の境を設ける意味があるか、自分には分からない。ただ、彼らの中にはあるときは曖昧に、そして時に峻厳とその区別をつける必要があったのだろう、というところで納得はした。とにもかくにも、誰からも「兄さん」と呼ばれるその人が、誰よりも暇だったのは事実であった。時折、他の兄弟と共に来たときには、そのことを揶揄されてばかりだった。下の二人の叔父はそうでもないが、父のすぐ下の叔父は大層当たりが強かった。「あまりコイツと話さない方が良いよ」とまで言われていた。

でも、屈託無く話を振ってくれる伯父は当時の自分には有り難く、それは多分の父にとっても同じで、「お前が羨ましいよ~」と遠慮無く言うその人を見る父の目は、苦しさなど微塵も無かった。

どうしてこんなに面白い人たちと接点が無かったのか。自販機の前で伯父にそう聞いたことがある。

「そりゃ、お前。お前の母ちゃんが嫌がったからだよ」

小銭を入れてボタンを押せば飲み物が出る。そんな当たり前のことを説明するように、さらりと伯父は答えた。その時に、そう言えば母と伯父たちが揃っている光景を見たことが無い事実に行き着いた。

「赤ん坊ん時と、後は幼稚園入るかどうかのときかなぁ。とりあえず会ったのは二回だけ。まあ何かしたのかもしれねぇけど、お前の父ちゃんが『ごめん、もう会えない』って言ってきてそれっきり」

肩を竦めて伯父は言った。その横で自分は手の中の缶に指先を押し付けて黙っていた。悴んだ指は温もりをみるみるうちに吸い込んで、それでも震えは止まらなかった。

「ま、兄弟みんなニートとか外聞悪すぎだよねえ」

そう嘯いて、鼻の下を擦った伯父にはふて腐れた様子は見えない。そこでようやくこちらも声が出せた。

「みんなニートだったの?」

「あんときはね」

「四人、みんな?」

「四人?」

伯父と目が合う。幾度か瞬きする目は唐突にくしゃりと歪む。伯父は笑った。

「うんうん、四人はニートだったね。そうそう四人」

思わせ振りな言い方に、こちらが知らず眉間を寄せれば、伯父は豪快に肩を叩いて耳打ちした。

「あんな、おれたち六つ子なんだよ。」


父の容態は芳しくなかった。

自力で食事ができず、喉に孔を開けてチューブを通し、そこから食事をいれていた。廊下で「兄さん、お肉食べられないんだね」と静かに呟いた下から二番目の叔父に伯父が、「噛まなくていいから楽だよな」と返していたのを耳にしていた。あまりにも無理のある返答で、ああこの人も動揺するのだなとぼんやりと考えていた。

母はいつだって父の手を握って泣いていた。そんなことよりも無意味にすがり付くその手で、父の髪を解かし調える方がどれだけ意味のある行動か、やったことが無いから、母は知らないのだと思った。

帰る直前、母が医者に挨拶に行っていない僅かな時間は、父と自分の二人きりだった。上手く動かせない口で父はいつも同じ事を頼んだ。何度も聞き返すうちに、だんだんと聞き取れるようになって、言われるより前に動くようになった。

父は鏡を求めたし、髪を調えるように頼んだ。面会時間の終わるギリギリに。伯父たちも、母も自分も帰るという間際に。父はいつだってそう頼んできた。

これから人が来るからと、だから格好良くありたいのだと、そう言わんばかりの行動だった。

そしてその待ち人は来なかった。



その時まで、来なかった。



その日いきなり父の容態が急変した。

学校も休んで、母と一緒に病院に行った。遅れて伯父たちも全員揃った。祖父母もいた。しかし高熱を出した父は意識が朦朧としていて、誰も認識できていないようだった。大の大人が七人もいて、澱んだ空気と鬱々とした雰囲気が籠った病室に堪えきれず、自分はそっとそこを抜け出していた。もしその時に、その時を迎えたとしても、仕方が無いと諦めて逃げ出した場所は一階の受付だった。

「あの……」

だからそれが聞こえたのは偶然で、そして運命だった。

「入院してる松野の身内なんですが……」

出口へ駆け出そうとしていた足を止めて、その声の主を見る。少し困り顔した受付嬢の前に、微かに肩を上下させる誰かがいた。

「恐れ入ります。松野さんは患者さんの中にはいらっしゃいませんが……」

「あ、ええと、そうか……えっと……」

焦ったように首を巡らせて、ようやくその横顔が明らかになって。

自分はその肩を掴んだ。

振り返った顔は、父と同じで違う顔で。

「松野カラ松のことですか」

その人は自分を見て小さく息を飲んでから、ゆっくりと頷いた。だからその手を握って、また走った。

病室に戻って来たときにはこちらの息は上がっていて、しかし引っ張って走ってきたはずのその人は息ひとつ乱していなかった。

慌ただしく入ってきた自分たちの顔を見た母がなにかを叫んだ気がするけれど、何を言っていたのか記憶に無い。叔父たちを押し退けて、ベッドの横までたどり着いて、自分は握ったままだった手を父の手に押しつけた。部屋の呼吸を苦しくするような圧迫感は消えていて、多分病室には自分とその人と、父の三人だけだった。

一歩引けば、父と彼の二人が良く見えた。

彼はゆっくりと父の手を握り、ゆるりと口角を上げた。

「なに、死にそうじゃん」

握っては離し、離しては握り直し、丁度良い位置を探しながら、その人は言葉を続けた。

「殺しても死ななそうだったのにね、お前。だって体だけは丈夫だったじゃん。石臼当てても生きてたくせに、何度しばいても平気な顔してたくせに」

彼はそこで言葉を切って首を横に振る。言うつもりの無いことは振り払って、言いたい言葉を出すために、そんな様子に見えた。

「頑張ったんだね」

どうにか絞り出した言葉。

「頑張ったよカラ松。お前すごい頑張った」

握った父の手を額に当てて、頬に擦り寄せて。

その人は目を閉じて、宣った。

「だからね、赦すよ」

その様をどう形容すれば良いと言うのだろう。

終に椅子から滑るように床に膝を突き柔らかく告げる彼の人は、神に仕える聖女然としていた。飾り気の無いありふれた窓枠から溢れる陽の光が父と彼の影をリノリウムに刻み込む。

正しく、この場は二人だけのもの。

二人の舞台、二人の聖地。

そこでは自分は招かれざる者である。故に、呼吸も隠し呆然とその光景を見るしかできない。

「許す。僕が許すから、ねえカラ松」

瞬く瞼はゆっくりと持ち上げられて、潤んだ瞳が父を映す。そして。

「もう頑張らないで」

それはささやかな願い。それであって、無慈悲な祈り。

胸に、ここまで父を見てきた自分の心に突き刺さる言葉だった。

言ってやりたい。お前がそれを決めるなと。

罵ってやりたい。お前はそれを言える立場なのかと。

引き剥がし、突き飛ばし、その首元を掴んで、揺さぶって、唾棄するところまでの想像は容易い。

しかし体が動かない。ゴミ捨て場に打ち捨てられた人形さながら、ただおとなしく事態を見守るより他は無かった。

果たして、父は目を開く。

母の呼び掛けにも、祖父母の涙にも、兄弟たちの怒声にも答えなかったあの父が。

それから、父は右手をゆっくりと持ち上げる。

食事も排泄も、呼吸すらも一人でできなくなったあの父が。

呼吸器の薄く濁ったグリーンの向こうで、かさついた唇が震えた。


いちまつ


背中からうなじへ、そして襟足の毛を逆立たせるように震えと鳥肌が駆け上る感触。

そんなこちらなど見向きもせずに、彼の人はうっとりと微笑んで、掲げられた掌に唇を寄せた。



そうして父は息を引き取った。

ただ一人の願いを叶えて旅立った父の表情は、満足以外の言葉が当てはまらない。


父の死に自分の抱いた感情は一つだけ。

嫉妬である。


俺――松野唐松を形作る、きっかけの感情である。